日本大百科全書(ニッポニカ) 「ドイツ史」の意味・わかりやすい解説
ドイツ史
どいつし
ドイツ史の概観と時代区分
ドイツ史における「古代」では、先史時代を含め長い時代を経てゲルマン人が形成され、紀元前3世紀ころから拡大して古代ローマ世界と接触するに至り、紀元前後から初めて歴史時代に入る。だが「ゲルマニア」の大地は、ローマ領内に組み入れられることはなかった。民族大移動に次いで、西ヨーロッパにフランク王国が形成され、ようやくその拡大と分裂の過程においてドイツは封建化を進め、神聖ローマ帝国に象徴される「中世」封建社会を形成する。
しかしこの帝国もゲルマン部族国家の連合体としての性格を温存し、その対立にローマ教皇権も介入して皇帝と教皇との聖職叙任権闘争となり、教皇権の優位のなかで第1回十字軍の発動が宣言された。だが、気候が温暖化するにつれ開墾も頂点に達した13世紀後半には、皇帝権も失墜し、諸侯の自立化による政治的分裂や外国からの干渉もあって、封建的危機を迎える。
一般には宗教改革を近代の始期とするが、反宗教改革・封建反動の展開からドイツにおいて特徴的な啓蒙(けいもう)専制主義の崩壊までが「近世」と考えられる。この時代の反動体制と資本主義への立ち後れは、やがてフランス革命の影響を強く受け「近代」を迎える。その後メッテルニヒの反動体制のもとでブルジョアジーの台頭がみられ、三月革命を迎えるが、ドイツでは反革命の勝利に終わり、しかもその体制下に産業革命は急速に進む。18世紀後半以来、主導権を握ったプロイセンは、プロイセン・オーストリア戦争、プロイセン・フランス戦争によってオーストリアを排除し、反動的、軍国主義的なドイツ帝国を成立させ、典型的な帝国主義国家を形成するが、結局は第一次世界大戦で崩壊する。
ドイツ史の「現代」は、ロシア革命、ベルサイユ条約の受諾、ワイマール共和国に始まるが、もっとも民主的な憲法体制にもかかわらず、ヒトラー・ナチスの権力支配を阻止できなかった。第二次世界大戦後ヤルタ体制のもとで東西の分裂国家を強いられ「一つの民族、二つの国家」の時代を歩んだが、1990年、統一が実現した。
[進藤牧郎]
古代
先史時代
旧人の時代は別としても、現生人類の祖先クロマニョン人が現れた旧石器時代のビュルム氷期から後氷期には、マンモス・ハンターたちが、ついで気候が温暖化し新しい森が出現すると、弓矢を持つ狩猟・漁労の民が登場する。中石器時代の末、気温が最高に達した紀元前4000年ころまでに、西南から冬作の麦類の農耕と牧畜が北海・バルト海沿岸に伝播(でんぱ)し、これを受け継いで巨石文化・鐘形杯(しょうけいはい)文化がもたらされた。前3000年紀には、インド・ヨーロッパ語族によって、ドナウ川からボヘミアを経て、反転犂耕(りこう)を行う方形犂(すき)の農耕が夏作の雑穀栽培とともに伝わり、さらに前2000年紀ころには青銅器文化も伝えられた。このころまでに東方からも漏斗(ろうと)状杯文化、ついで縄文・戦斧(せんふ)文化がライムギを伴って伝わっている。ボヘミア(ベーメン)・中部ドイツに展開したアウニェティツAunjetitz(ウーニェチッツェÚnětice)青銅器文化の影響を受けて、前1400年ころまでには北ドイツに固有の青銅器文化圏が形成された。その担い手がゲルマン人の祖先であったとされる。
しかし、このアウニェティツ文化を直接に継承したのはケルト人で、東方からスキタイ文化の影響を強く受け、鉄器時代にハルシュタット文化、ラテーヌ文化を、北ドイツのゲルマン世界および、南のローマ世界を除く全ヨーロッパに拡大させた。ケルト人は、新石器時代以来の琥珀(こはく)や塩を扱う遠隔地交易を継承し、青銅器・鉄器時代には、ヨーロッパ的規模での交易網の結節点に、ケルト社会に特徴的なオピドゥムoppidumとよばれる塁壁で囲まれた小都市的な集落を形成し、従士団をもつ商人貴族を出現させ、貨幣をさえ鋳造していた。
[進藤牧郎]
古ゲルマンの社会
農牧兼業の北ドイツのゲルマン人たちは、ふたたび気候の寒冷化が進むと前3世紀ころに南下し、西・南方ではケルト人を追ってライン川の東、ドナウ川の北、ゲルマニアの大地を占拠した。さらに前2世紀末にはキンブリ人、テウトニ人の南下となり、直接古代ローマ世界と接触し、紀元前後ようやく歴史時代に入った。『ガリア戦記』を残したカエサルは、前58年西ゲルマン諸部族を糾合したアリオビストゥスAriovistusの反撃にあい、皇帝アウグストゥス派遣の3軍団もアルミニウスのために紀元後9年トイトブルクTeutoburgの森の戦いに壊滅する。ローマ帝国のたびたびの征討にもかかわらず、ゲルマニアの大地がその版図に入ることはついになかった。
タキトゥスの『ゲルマニア』によれば、土地は多くの沼地と深い森に覆われ、ゲルマン人たちは、個々に小集落をつくって森を切り開いて住み、個々の家を経済生活の単位として、狩猟・漁労に加えて粗放な穀草式農法を営み、およそ50の小部族に分かれていた。人々は自由民として武装し、部族の民会に集まり、王や軍事指揮者を選んだ。この自由民が部族の軍事力の基礎であった。個々人の自立性が強いだけに部族の分裂・再統合も激しく、容易により大きな部族に統合されつつ、拡大と移動を繰り返した。
[進藤牧郎]
民族大移動
東ゲルマン諸部族は気候的に恵まれていなかったが、ことにゴート人は、紀元前後にバルト海沿岸から、スラブ人の原郷とされるカルパティア山脈北麓(ほくろく)を通過して、2世紀には黒海沿岸に達し、東西ゴートに分裂しながらも東ゲルマン諸部族を従属させていたと考えられる。375年、東方からのフン人の西進に直面してゲルマンの民族大移動が始まったとされるが、すでにゲルマニアでは諸部族の移動の嵐(あらし)が吹き荒れ、その波頭はローマの国境を襲い、早くから奴隷や傭兵(ようへい)として、なかにはローマの将軍や官僚になって帝国内に流入していた。フンの西進以来、とくに東ゲルマン諸部族は帝国内を大きく移動するが、故地に残った諸部族の多くは、アッティラの時代にはその従属下にあった。しかし451年カタラウヌムの戦いによってフンの支配が崩壊すると、諸部族の再統合・自立化と移動も再燃した。イギリスに渡ったアングロ・サクソン、ガリア北部に浸透したサリ・フランク、南東部へ向かったブルグント、イタリアに進出した東ゴート、ついでランゴバルド、スペインにまで入った西ゴートなど、ゲルマニアの大地を去った諸部族を除けば、北からザクセン、チューリンゲン、フランケン、アラマン、バイエルンなどの諸部族がようやく形成されてきていた。
[進藤牧郎]
フランク時代
3世紀末ころからライン川を越えて進出していたサリ・フランクは、アッティラの支配に敵対し、その没落後メロビング家のクロービス1世(在位481~511)のもとでフランク王国を建設し、諸部族の征服・統合を図る。アラマン人との戦いのなかで行われた、496年とされるキリスト教への改宗は、ローマ教会との結び付きにより他部族への征服を神の名によって正当化することにもなった。しかしザクセン、バイエルンを服属させるには、ライン川中流域のアウストラシアを基盤に台頭したカロリング家の時代を待たねばならなかった。
732年、フランク王国の宮宰カール・マルテルはトゥール・ポアチエの戦いでイスラム教徒を撃退したが、その子ピピン(小)(在位751~768)は751年、王権を獲得、754~755年ローマへ教会領を寄進した。ピピン(小)の子カール大帝(在位768~814)は、30年余を費やして、ザクセンを降(くだ)しバイエルンを屈服させ、791年その東部にオストマルクOstmarkを設ける。教会の布教と結んでの東征は、ゲルマン古来の部族勢力を従属させて王国の統一を図っただけではなかった。5世紀のフンの解体にかわって、6世紀後半にはふたたび東方からアジアの草原遊牧民族アバールの西進が始まり、しかもこれにはスラブ人の拡大が伴っていた。エルベ川とアドリア海を結ぶ線以東では、ゲルマン人と同じようにスラブ諸部族も移動と再統合、自立を始めていたが、アバールの従属下にあったと思われる。カール大帝の東征はボヘミアにまで及び、3回にわたるアバール征討(791~796)ののち、800年の皇帝戴冠(たいかん)となるのである。加えて活躍を始めたノルマン人たちも、8世紀末には北海・バルト海沿岸を荒らしていた。カール大帝の死後、817年バイエルンの分国王となった孫のルートウィヒ2世Ludwig Ⅱ(在位843~876)は、843年ベルダン条約で北ドイツを、870年メルセン条約でロートリンゲンをあわせて、東フランク王国が生まれた。その後は相続をめぐる分裂が続き、孫のアルヌルフArunulf(在位887~899)は全ドイツ部族より国王に選挙されたが、911年その子ルートウィヒ3世Ludwig Ⅲ(在位900~911)の死はカロリング家の断絶をもたらした。
[進藤牧郎]
中世
神聖ローマ帝国の成立
形骸(けいがい)化されていたとはいえ、なおローマ帝国の体制が生き残っていたガロ・ロマンgallo-romanの社会にゲルマンの部族的主従制の伝統をもって進出したフランクは、封の授受Lehenswesen、伯の制度Grafensystemなど封建的関係を生み出していた。また、前述したようにクロービス1世の改宗、ピピン(小)の寄進など、王権は部族的分立を克服するためにローマ教会と結び、教会もまたランゴバルドの侵入、ビザンティン(東ローマ)帝国との対立から強力な世俗権力を求めていた。しかも布教のため、寄進を受けた教会領の首長の叙任権を寄進者にゆだねるという私有教会制Eigenkirchenwesenも生まれている。このような状況はフランク王国の拡大とともに、ライン川以東の地にも広がっていた。
ヨーロッパは、南方からのイスラム教徒に加えて、とくにドイツでは、北方からのノルマン人、東方からのスラブ人の進出に重なって9世紀末以来マジャール人が出現、絶えず外民族の侵寇(しんこう)にみまわれ、これにもっとも強く抵抗したのがザクセン諸部族であった。自由民のなかから貴族層を生み、カール大帝の征討の過程でリュドルフィング家Luidolfingerのもとに部族大公領を形成した。だが反面、自由民の没落も始まっていた。
東フランク王国も事実は自立的なドイツ諸部族の連合にすぎず、カロリング家の断絶後はフランケンのコンラート1世(在位911~918)の過渡期を経て、ザクセン家のハインリヒ1世(在位919~936)が国王に選挙された。強力な貴族、自由民層によって支えられ、エルベ・スラブ地方への進出も徐々に始まるが、マジャール人の進出に対しては、エルベ河畔に多くの城塞(じょうさい)を築き、防御に回らざるをえなかった。
オットー1世(大帝)(在位936~973)は、有力な部族大公に近親者を封じ、家父長的な封建的支配を図ったが、部族の固い枠を破れず、たびたびの反乱に直面する。そこで司教や修道院を増設し、これに伯の職権を与えるなど、いわゆる帝国教会政策Reichskirchenpolitikをとるに至った。これを貫くためには、聖職者の頂点にある教皇をも国王の私有教会制に組み込まねばならない。彼は三度イタリア遠征を試み、955年レヒフェルトにマジャール人を撃退してのち、962年ローマにおいて皇帝戴冠(たいかん)を果たし、ここに神聖ローマ帝国の成立をみた。972年にはビザンティン帝国の皇姪(こうてつ)テオファーノTheophanoと息子オットー2世(在位961~983)との結婚により、西ローマ皇帝権の継承をビザンティン皇帝に認めさせた。神と王への奉仕の一致を求める教会政策は、司教の叙任権を掌握して、これを帝国直属の官僚に組み込み、部族諸大公の分立を克服しようとした。
オットー1世は、マジャール人の侵寇とスラブ人の進出に対し、962年マクデブルクに大司教座を、968年ブランデンブルク司教座などを設け、すでにキリスト教を受け入れて自立していたボヘミア公のチェコ人プシェミシル家と結んで、973年プラハにも司教座を設けた。さらに、バイエルンにオストマルクを再建した。オットー2世は、976年バーベンベルク家を辺境伯に封じ、東方に進出、南北に多くのマルク(辺境伯領)を建設した。また、母后テオファーノの訓育を受けて古代ローマ帝国の復活を夢みたオットー3世(在位983~1002)は、ようやく教皇権を抑えたが、そのため皇帝は長期にわたってドイツを離れざるをえなかった。ハインリヒ2世(在位1002~24)の治下、エルベ・スラブの大反乱が起こり、北東地域のマルクを失うが、ポーランド王国を服属させ、ハンガリー王国のキリスト教化に成功した。だが、ドイツでは、部族諸大公・辺境伯との対立も深まり、さらには教皇権との関係も悪化し始めていた。
[進藤牧郎]
皇帝と教皇
ザクセン朝の帝国教会政策は、部族諸大公の部族国家的自立化による分立主義を抑えたが、有力な高級貴族を宮廷から遠ざけて在地のままに領主化させることとなった。これに対応して、ザリエル朝の皇帝コンラート2世(在位1024~39)、ついでハインリヒ3世(在位1039~56)は、王領地の拡大を図り、下級貴族および帝国家人Reichsministerialenにその管理をゆだね、伯の職権を与えるなど、これを保護して、国王への封建的忠誠義務を強化する。ことにゴスラーGoslarを中心に王領地化を進めたザクセンでは、執拗(しつよう)な貴族の反乱が続発し、反乱は南ドイツの部族諸大公、貴族に支持された。ローマ教会も、皇帝をはじめとする俗人による干渉と僧職売買などに強く反発し、教会の粛風を掲げた改革運動がクリュニーに起こり、運動がドイツにおける貴族の私立修道院に及ぶと、これを教皇の直轄にし、貴族にその守護権Vogtrechtを与えて教皇と結ばせたのである。教皇グレゴリウス7世の皇帝ハインリヒ4世(在位1056~1106)に対する破門は、その封臣を、国王を頂点とする封建関係、忠誠義務から解放し、王権・皇帝権を弱めた。こうした対抗関係のなかで、1077年のカノッサ事件(「カノッサの屈辱」)に象徴される約50年間にわたる聖職叙任権闘争Investiturstreitが展開し、高まった教会の権威のもとで、1095年教皇ウルバヌス2世のいわゆる十字軍宣布となったのであった。
聖職叙任権闘争は、1122年のウォルムス協約でいちおうの終息をみるが、ホーエンシュタウフェン朝のもとでも皇帝と教皇との争いは続き、皇帝フリードリヒ1世(赤髯(あかひげ)王、在位1152~90)は、結婚政策によってブルグントをふたたび帝国領に加え、王領地とともに家領をも拡大して教皇への圧力をかけた。1156年に、教皇と結ぶウェルフ家のザクセン公ハインリヒ獅子(しし)公Heinrich der Löwe(ザクセン公1142~80、バイエルン公1156~80)に旧領バイエルン公領を返しながら、オーストリアを公領に昇格させ、また東方に広がったマルク(辺境伯領)の諸侯やチェコ人のボヘミア公に王号を与えて味方につけ、ハインリヒ獅子公を牽制(けんせい)した。フリードリヒ1世は、ロンバルディア都市同盟の抵抗の際にハインリヒ獅子公の出兵拒否にあい、ミラノ攻略に失敗すると、1180年ハインリヒを封建法による帝国追放に処し、いっさいの官職を奪い、封土と自由世襲領を没収して帝国の栄光を誇示した。フリードリヒ1世は、イギリスのリチャード1世(在位1189~99)、フランスのフィリップ2世(在位1180~1223)とともに、中世の華といわれる第3回十字軍(1189~92)に参加する。ハインリヒ獅子公の失脚は、旧来から皇帝権を制約していた部族大公権を解体し、帝国の栄光を高めたが、反面一定の領域(ラント)を支配する諸侯にその領域内の貴族を統制する特権を与え、国王と貴族たちは陪臣関係に置かれ、いわゆる封建的階層制による新しい帝国諸侯=領邦君主の台頭となった。その後ドイツは、教皇に加えて、ようやく封建王制を確立しつつあったフランスやイギリスの干渉をも受け、さらに1241年リーグニッツにモンゴル軍を迎え撃たねばならなかった。その間ドイツを離れてほとんどシチリアにあった皇帝フリードリヒ2世(在位1215~50)の死後、いわゆる大空位時代を迎えることになる。
[進藤牧郎]
領邦と都市
皇帝と教皇を軸に形成され展開してきたドイツ封建社会において、支配階級内部の対立抗争が起こると、直接生産を担う農民たちは、教会を通して「神の平和・神の休戦」を求め、教会の権威を支えた。13世紀に入ると、気候の温暖化と相まって、貴族や修道院の主導により大開墾時代を迎えた。冬作―夏作―休閑を繰り返す三圃(さんぽ)制農法が普及し、主穀生産の生産性を高め、放牧地を開いて牧畜の専業化も進められ、農牧業間の分業からようやく地方市場も形成されてくる。こうした社会の根底における変化に対応して、貴族の領主化が行われ、自由世襲地に建設した城塞を中心に地方市場を覆う領域支配が進展し、フリードリヒ1世時代の封建的階層制も生まれえたのであった。しかし、イギリスやフランスとは違って、ドイツでは王権の強化とはならず、一般の貴族を、国王との陪臣関係に固定し、国王の直臣である帝国諸侯=領邦君主の手にゆだねることになった。
東方にあった旧来の部族大公領では、ことにザクセンの貴族・自由民は、王権に対する抵抗に敗れてエルベ川以東に移り、シトー派修道院などを先兵に東方植民を展開した。辺境の諸侯ばかりでなく、スラブ人諸侯も、積極的に導入した。植民の拠点として都市も多数形成された。1226年に招かれたドイツ騎士団は、プロイセンから遠くリーブラントLivlandに至る広大な騎士団領を出現させた。より自由で良好な土地の保有条件は、大量の農民をここに引き付け、逆に旧ドイツの保有条件を引き上げて農民を賦役から解放し、かくて形成された地方市場を基盤に小都市の出現が促進された。ことに、バルト海沿岸に展開した諸都市が、北ドイツ諸都市を加えて14世紀にはハンザ同盟を結成した。また、西南ドイツにもライン同盟やシュワーベン同盟などの都市同盟が生まれた。都市領主から解放をかちとる都市も生まれて、中世都市とくに帝国都市は、経済的、政治的にも繁栄をみたのである。
皇帝の政策に協力し、世襲の王号を認められていたボヘミア王国は、チェコ民族王朝を維持し、オタカル2世(在位1253~78)のもとで、オーストリアをあわせ、帝国の東境を南北に貫く大王国を形成し、大空位時代にドイツ皇帝位を求めた。しかしこれに反発したドイツ諸侯と教皇は、1273年アルザスから北スイスにかけての領主ハプスブルク伯ルードルフ1世(在位1273~91)を皇帝に選出した。ルードルフは1278年オタカルを敗死させ、オーストリアを奪い、世襲の家領にすることはできたが、皇帝位を世襲することはできなかった。
皇帝位が諸王家を転々としたのち、皇帝に選ばれたルクセンブルク家は、結婚政策によってボヘミア王位をも獲得、カール4世(在位1347~78)のもとでプラハを中心に繁栄の時代を生み出す。先のカール大帝やオットー大帝治下のいわゆる「ルネサンス」や十字軍の影響を受けて、この時代に中世騎士文化はロマネスクからゴシックへ移り、13世紀には諸侯の宮廷に洗練された騎士道が確立、『ニーベルンゲンの歌』などの騎士物語や「ミンネザンク」Minnesangも生まれる。ドイツ法制史上もっとも重要な「ザクセンシュピーゲル」Sachsenspiegelもドイツ語で書かれる。「百塔の町」といわれる「黄金のプラハ」は帝国の首都となり、いまに残るゴシック文化の華を咲かせ、帝国最初のプラハ大学も創設された(1348)。しかし国王は、聖俗7人の選帝侯の特権を1356年の金印勅書によって認め、領邦内においても貴族の特権とその団結を認め、身分制に基づく領邦国家体制をつくりあげてしまう。こうしたなかでの王権の強化は、ボヘミアにあっては封建的なドイツ化の強化となり、直接生産を担うチェコ人の農民や手工業者の抵抗を強めた。そして、さらにチェコ人の貴族、市民をも巻き込み、フスのローマ教会批判と彼の焚刑(ふんけい)を契機にフス戦争(1419~36)を爆発させた。このなかで崩壊したルクセンブルク家にかわって、以後皇帝位はようやくハプスブルク家の手に移るのであった。
[進藤牧郎]
近世
ハプスブルク世界帝国の成立
ハプスブルク家は、始祖ルードルフ1世以来、諸王家、諸侯との抗争のなかで巧みな結婚政策をとり、多産系に恵まれただけに、相続争いと系統分裂に苦しみながらも、家領の拡大に努めた。14世紀には、ことに西方の発祥の地であるスイスの独立戦争に完敗し、家領の拡大も東南方に向かう。義父でもあったカール4世との対立のなかで、ルードルフ4世Rudolf Ⅳ(在位1358~65)は、金印勅書で選帝侯から排除されたことに対し、1358~59年大特許状を偽造して特権を確保し、自ら大公家を主張し、1359年ウィーンのシュテファン教会の改築を始め、1365年にはウィーン大学を創設している。皇帝アルプレヒト2世Albrecht Ⅱ(在位1438~39)は、短期間ボヘミア・ハンガリー王となったが、両王国を確保できなかった。しかし皇帝位は、以後ハプスブルク家が独占する。フリードリヒ3世Friedrich Ⅲ(在位1440~93)は皇帝になると、偽の大特許状を帝国法として公認し、神の恩寵(おんちょう)による皇帝家としての「オーストリア家」Haus Österreichを自認し、家領の拡大を積極的に進め、1477年その子マクシミリアン1世(在位1493~1519)とブルグント公女マリーMaria von Burgundとを結婚させた。マクシミリアンも、1496年には皇太子フィリップ1世Philipp Ⅰ(在位1504~06)をスペインのカトリック両王の相続女フアナJuana la locaと、さらに東方に対しても孫のフェルディナント1世(在位1556~64)を1516年ボヘミア・ハンガリー王女アンナAnna von Böhmen und Ungarnと婚約させている。こうした結婚政策によって、西方の先進地帯ネーデルラントからアルザス、ブルグントと南北に貫く広大なブルグント公領を獲得し、さらに巨大な海外植民地およびイタリアを含むスペイン王国をあわせ、ボヘミア・ハンガリー王国の相続権も確保したため、1519年のカール5世(在位1519~56)の神聖ローマ皇帝戴冠(たいかん)は、まさにハプスブルク世界帝国の実現であった。だが、それはまたフランスとの対立激化を招き、これと結んだオスマン・トルコ帝国の北上をもたらし、1526年にはモハーチの戦いが行われた。このとき、ボヘミア・ハンガリー王ラヨシュ2世Lajos Ⅱ(在位1516~26)が敗死し、ボヘミア・ハンガリー王国をさらに世界帝国に加えた。カール5世は、後述するルターの宗教改革と帝国の分裂のなかで、1522年のブリュッセルの相続協定により、ドイツの家領と皇帝位の継承権を弟フェルディナント1世の系統に譲らねばならなかった。長い対仏戦争に加えて、ウィーンを包囲したオスマン・トルコの圧力のために、皇帝は意に反して諸侯と妥協し、1555年アウクスブルクの宗教和議を認め、翌56年自ら退位し、ハプスブルク家ではスペイン系とオーストリア系へと両統分立が確定するのであった。
[進藤牧郎]
宗教改革
15世紀のドイツは、東方ではドイツ騎士団がポーランドに臣従し、ボヘミアは事実上独立し、ハンガリーは一時ウィーンをも占領した。西方でもスイスの独立、ネーデルラントを含むブルグント公家の台頭があり、国際的にも危機に直面した。ハプスブルク家の巧みな結婚政策は、帝国の解体を防ぎ、マクシミリアン1世の帝国改革を生み出した。しかし、それはドイツを犠牲にしたハプスブルク家の王朝的利害のために失敗に終わり、諸侯=領邦君主を強化することになったが、その諸侯もまた領邦内の貴族領主との対立に苦慮するのである。
13世紀以来の大開墾時代、また東方植民時代を経て、ドイツでも賦役から現物・貨幣地代の経済へと転換し、農民もようやく小商品生産者に成長し、農村工業、さらにマニュファクチュアも展開する。鉱山業、金属加工業なども発展し、各地に地方市場が生まれ、市場町・農村小都市が多数生まれ、農業・牧畜から離れた都市の市民層も出現した。デューラーの絵に代表されるドイツ・ルネサンスがおこり、多くの人文主義者を生み出した。このような社会を背景に福音(ふくいん)による新しい信仰もおこり、ことにイギリスのウィクリフ、ボヘミアのフスを経て、1517年のルターの宗教改革に引き継がれる。地方市場の成立に対応する細分化された領邦体制を覆って、巨大な問屋制商業資本が生まれた。その象徴であるフッガー家は、皇帝や教皇と結び、鉱山特権などを代償に巨額の融資を行った。ことに信徒に買わせる贖宥(しょくゆう)状がフッガー家と結んだ教皇の財政をまかなうものであったため、これに対するルターの神学上の抗議は、民衆を巻き込んで宗教改革へ、さらには宗教争乱へと展開する。ルターは、教皇の破門脅迫状を焼き捨てたとき、教会財産の没収など具体的な教会改革案を提示し、その実施を「ドイツ国民のキリスト教貴族」にゆだね、フッガー家の高利貸的独占を非難した。
帝国騎士たちは、ルターをよりどころとして、皇帝を頂点とする貴族民主制を求め1522年にトリエル大司教を襲撃。農民は教会改革を反封建闘争、そして1524~25年のドイツ農民戦争へと進める。農民団は、地方ごとに分散していたばかりでなく、戦争の過程で富農と貧農との対立を顕在化させ、後者がミュンツァー指導の下に下層市民をも加えて過激化すると、ルターはこうした徒党を厳しく非難し、その弾圧を諸侯の手にゆだねたのである。諸侯は協力して貴族を破り、農民を鎮圧。新教諸侯は教会財産を没収して領邦教会制に組み込み、貴族や都市の独立性を奪い、領邦主権を確立した。
[進藤牧郎]
封建反動とバロックの君主たち
1556年ドイツ帝国を継承したフェルディナント1世(在位1556~64)はボヘミア・ハンガリーを家領に加えたが、オスマン・トルコからの圧力は強く、ドイツ諸侯との妥協に終始し、その死後王家の相続争いもあって宗教争乱が続いた。16世紀中葉にはドイツ人の9割が新教徒であったといわれるが、1560年代以降、旧教諸侯の手によって反宗教改革が進められ、担い手としてフェルディナント2世(在位1619~37)が大公家を継いだ。彼は、1617年ボヘミア王、19年皇帝となったが、その新教徒に対する峻烈(しゅんれつ)な弾圧は、ボヘミア新教貴族の反乱を招き、三十年戦争(1618~48)を引き起こした。
反宗教改革は、信仰だけの問題ではなかった。ようやく成長し始めた農民が、諸侯によって農民戦争を鎮圧され、資本主義への芽を摘み取られる封建反動の一局面でもあった。ヨーロッパ人の新大陸への到達とインド航路の発見も、宗教改革とともに、世界史のなかで資本主義成立の条件を準備しており、地球を舞台とする西ヨーロッパ列強の商業戦争として、すでにスペインの反宗教改革に対するオランダ独立戦争が始まっていた。ドイツことにボヘミアで宗教争乱として始まった三十年戦争は、資本主義成立をめぐる列強間の対立・干渉から、ドイツを犠牲にして行われた最初の国際戦争となった。1648年のウェストファリア条約は、皇帝から権力を奪い、細分化したままに領邦主権を確立し、列強のドイツ干渉を固定化し、帝国の分裂と、都市と農村を問わずドイツの荒廃と立ち後れを決定的にするものであった。その再建はそれぞれの領邦君主の手にゆだねられ、狭い枠のなかで重商主義政策がとられることになった。
エルベ川以西のドイツでは、農村共同体の実権は、農民戦争の敗北にもかかわらず、ブルジョア的志向をもつ富農層に握られた。領邦君主は、貴族領主を従属させて、直接小商品生産者である富農層と結び、発展する地方市場とその中核たる都市に依存して、領邦権力を確立する。だが、中世末以来、穀物輸出に依存していた東部ドイツでは、西ヨーロッパ資本の進出に直面して、モノカルチュア的な経済的従属を強いられる。こうした封建的危機にあって、なお自己経営を温存していた貴族領主たちは、中南米の金銀流入に基づく価格革命Price Revolutionによる穀物価格の騰貴を利用して農民を圧迫し、賦役を復活・強化し、土地所有とくに領主直営地を拡大した。16世紀以来、ことに三十年戦争後、東方の大諸侯は、貴族領主に公権力の大部分をゆだねて東方へ家領を拡大し、都市を犠牲にして、領主(グーツヘル)の排他的支配を特徴とするグーツヘルシャフトによる再建を図ったのである。
オーストリアでは、ドイツの荒廃にもかかわらず、王家に残された皇帝位と反宗教改革の勝利が皇帝崇拝と聖人崇拝とを結び付け、神の恩寵(おんちょう)による「敬虔(けいけん)なるオーストリア、オーストリアの温和」pietas austriaca, klementia austriaeという伝説を定着させ、1683年レオポルト1世(在位1658~1705)がウィーンを再包囲したトルコ軍を撃退し、反撃に転じて、全ハンガリーを確保してから、ウィーンはハプスブルク・ドナウ帝国の中心となった。最盛期にあったフェリペ2世のスペインの支援を得て、反宗教改革を遂行したオーストリア家は、マドリードとのたび重なる同族結婚もあって、ウィーンの宮廷文化が花開き、芸術や音楽を愛好するバロックの君主たちを生んだ。このスペインの家系も、1700年カルロス2世の死により断絶し、スペイン継承戦争(1701~14)が勃発(ぼっぱつ)すると、レオポルト1世の次子カールは継承権を要求、兄ヨーゼフ1世(在位1705~11)の死によって、カール6世(在位1711~40)として皇位につく。ハプスブルク世界帝国の再現を恐れた西ヨーロッパ列強は、1713年ユトレヒト条約を結び、スペイン王位はハプスブルク家を離れ、フランスのブルボン家に移った。
[進藤牧郎]
啓蒙専制主義
スペイン継承戦争の結果としてのユトレヒト体制は、ハプスブルク、ブルボン王朝間の対立だけではなく、スペイン、オランダの凋落(ちょうらく)にかわってイギリスの台頭を決定的にし、東方ではプロイセンとロシアの登場をみる。オーストリア家は、ネーデルラントと旧スペイン領イタリアをあわせ、最大の家領を獲得し、この1713年にカール6世はプラグマティッシェ・ザンクツィオンPragmatische Sanktionを制定し、広大な家領の永久不分割と長子相続を図ったが、継承者に男子を欠き、長女マリア・テレジア(在位1740~80)への一括相続のために、カールは国内的にも国際的にも譲歩を重ねたのである。
ルクセンブルク家からブランデンブルクを買ったホーエンツォレルン家は、東プロイセンをあわせ、フリードリヒ・ウィルヘルム(大選帝侯、在位1640~88)のもとで三十年戦争における軍事力を温存し、列強間の対立を利用して領土を拡大、スペイン継承戦争ではプロイセン王号を獲得する。1740年これを継承したフリードリヒ2世(大王、在位1740~86)は、啓蒙(けいもう)思潮の洗礼を受け、自ら「国家第一の下僕」と称し、「幸福の宿」である国家への義務に徹し、オーストリア継承戦争(1740~48)、七年戦争(1756~63)と苦難の戦いに勝って、マリア・テレジアからシュレージエンを奪った。彼は、徴兵による強大な軍隊を直接掌握し、貴族を将校として軍隊に組み入れてその自主性を弱め、また都市を従属させて産業を育成、軍事力の基礎である農民を保護して、啓蒙専制主義プロイセン国家をつくりあげた。
プロイセンのフリードリヒ2世が、マリア・テレジアの相続を認める条件にシュレージエンの譲渡を要求し、軍事占領を行うと、バイエルン選帝侯カール・アルバートKarl Albert von Kurbayernも継承権を主張し、フランスがこれを支持して、マリア・テレジアは1740年オーストリア継承戦争に直面する。プラハを占領したアルバートは、ドイツ諸侯によって42年皇帝カール7世Karl Ⅶ(在位1742~45)に選出されたが、オーストリアの反撃にあってミュンヘンをも占領され、不遇のうちに死亡した。45年フリードリヒ2世はドレスデンに和約し、シュレージエンを確保して、マリア・テレジアの相続と夫フランツ1世Franz Ⅰ(在位1745~65)の皇帝位を承認したのである。戦後、マリア・テレジアも軍・行政など国内改革を進め、シュレージエンの奪回のため、数世紀にわたり敵対関係にあったフランスとの同盟に成功して(外交革命)、プロイセンの孤立化を図り、七年戦争ではロシアとともにフリードリヒ2世を窮地に陥れたが、ロシアの政変により、シュレージエンの奪回はならなかった。
マリア・テレジアは、その後も産業育成・農民保護・教育改革などの啓蒙政策を進めた。1765年の夫フランツの死後、長子ヨーゼフ2世(在位1765~90)との共同統治のなかで、ヨーゼフの合理主義的な啓蒙主義的急進性を抑えながら、敬虔なカトリックの啓蒙君主として統治した。また宮廷にあっても市民的な家庭をつくり、国内の諸民族からは国母として敬慕された。
ヨーゼフ2世は、単独統治に入ると、1781年、寛容令、農奴解放令を発布し、その後も修道院解散、税制改革など矢つぎばやに改革を進めたが、ことにドイツ語の強制による中央集権化は、貴族や諸民族の反発を激化させた。フランス革命に対する国際的反動もあって、この合理主義的、急進的な啓蒙主義政策は、1790年ヨーゼフ2世の死とともに破産した。その後、よりいっそう啓蒙君主であった弟レオポルト2世Leopold Ⅱ(在位1790~92)によっても反動化を防ぎきれず、ナポレオン戦争の敗北のなかで、皇帝フランツ2世(在位1792~1806。オーストリア皇帝としてはフランツ1世、在位1804~35)に至り、1806年、中世以来の神聖ローマ帝国は解体された。
[進藤牧郎]
近代
疾風怒濤
ドイツでは、イギリスのような経験論も、フランスに開花した理性と人権に基づく啓蒙(けいもう)思潮も、啓蒙専制主義のなかに取り込まれてしまう。しかし17世紀末になると、経済的再建を直接担う市民層のなかから新しい精神の動きが生まれる。バッハは深い信仰から人間の深奥に迫る音楽をつくりだし、ライプニッツはドイツ神学の伝統のなかから合理主義哲学を生み、レッシングも演劇のうえで古典主義の先駆となり、「シュトゥルム・ウント・ドラング」Sturm und Drang(疾風怒濤(どとう))へと導いた。この新しい運動は、啓蒙主義を先取りしたプロイセン絶対主義への抵抗として爆発しただけに、ヘルダーのように深く民族の生命に触れ、若いゲーテやシラーをも史劇へ誘うが、反理性主義的傾向をぬぐうことはできなかった。フランス革命の現実のなかで、熱狂から目覚めたゲーテやシラーは、政治的激動を超えて普遍的なドイツ市民の精神を文学のなかに凝集し、古典主義を完成する。同じことはベートーベンの音楽についてもいえよう。
啓蒙思潮の子であるカントも、その先験哲学において認識主体を「物自体」Ding an sichから峻別(しゅんべつ)して客観性を確立し、啓蒙主義に潜む主観性を克服したが、彼の哲学はフィヒテ、ヘーゲルへと継承され、19世紀に特徴的なドイツ観念論哲学を確立する。この主知主義への反発からドイツ古典主義に結び付いていたロマン主義も顕在化する。立ち後れたドイツ資本主義の現実は、この対立する二つの流れを、いわば歴史主義のなかに総合する。ヘーゲルにしてもグリム兄弟にしても歴史へ回帰し、さらにランケの歴史学はもちろん、リストに始まる歴史学派経済学、サビニーの歴史法学などドイツに特徴的な学問体系がつくりだされた。これを批判して、ドイツ観念論ばかりでなく、イギリス古典派経済学、フランス社会主義・革命論を集大成して科学的な社会主義論を確立したマルクスさえも、その経済学を歴史科学と規定している。
[進藤牧郎]
三月革命と反革命
フランス革命に続くナポレオン1世支配下に封建的諸関係から解放された西部ドイツでは、ようやく資本主義の発展が顕著になり、とくにライン地方ではブルジョアジーの台頭がみられた。グーツヘルシャフトの行われた東部ドイツでも、ユンカー貴族による農民解放が始まり、上からの資本主義化が強いられた。ナポレオン1世からの解放戦争の主導権は、こうしたプロイセン・ユンカー貴族に握られたが、戦後のウィーン会議(1814~15)では、オーストリアのメッテルニヒ主導による神聖同盟をよりどころに、ドイツ連邦のもとで、諸侯間の、さらに列強間の利害の対立を利用した反動体制がつくりだされた。
この反動体制下にあって、学生団体ブルシェンシャフトBurschenschaftのワルトブルク祭(1817)に代表される広範な自由と統一を求める国民の運動が高揚し、メッテルニヒもこれを完全に抑えることはできなかった。ウィーン会議によってライン地方を領土に加えたプロイセンは、その重商主義政策を貫くためにも関税同盟の結成を必要とした。1834年オーストリアを排除してドイツ関税同盟が成立、これに守られて国内市場を確保して、ドイツ資本主義は急速に発展した。35年に鉄道が初めて開通するなど産業革命も導入され、同時に工業中心地ではプロレタリアートも生まれ、ブルジョアジーと結び付いた国民の自由と統一を求める運動は勢いを増していった。
1848年フランスの二月革命を契機にウィーン、ベルリンなど各地で民衆が蜂起(ほうき)し、ドイツは三月革命を迎える。フランクフルトに集まった国民議会が憲法論議を続けている間に、蜂起した民衆に直面して後退したプロイセン・オーストリア両国政府は、プロレタリアートの台頭を恐れるブルジョアジーと結んで軍隊を導入し、革命を鎮圧した。この反革命にもかかわらず、ともかくも欽定(きんてい)憲法は生まれ、農民解放は定着し、関税同盟のもとでプロイセンを中心に産業革命が行われて、鉄と石炭による資本主義的繁栄をみるに至る。3級選挙制によるとはいえ、プロイセン議会においても自由派が進出したが、モルトケの軍隊改革と、その予算審議をめぐって議会は分裂した。しかし新しく結成された進歩党の躍進により、1862年、軍隊の改革費を圧倒的多数で削除するに及んで、鉄血宰相ビスマルクの登場となった。
ビスマルクは、議会を無視して軍備拡張を断行、労働者を組織したラッサールとの提携をさえ示して議会を牽制(けんせい)し、軍隊を背景に強力な権力外交を展開した。1866年プロイセン・オーストリア戦争でオーストリアをドイツから排除し、さらに1870年プロイセン・フランス戦争によってナポレオン3世をセダンに捕らえ、パリを包囲した。軍事的勝利に輝いたビスマルクは、ベルサイユ宮殿にウィルヘルム1世(プロイセン王、在位1861~88。ドイツ皇帝、在位1871~88)の戴冠(たいかん)式を行い、71年ドイツ帝国が成立し、ドイツはここに初めて近代的な統一国家をつくりあげたのである。
[進藤牧郎]
ドイツ帝国主義
この帝国(第二帝国)は、25の領邦国家の連合体ではあったが、皇帝に権力を集中し、議会に責任を負わない宰相を頂点とする官僚機構をもったため、ドイツ資本主義は初めて国家権力と癒着することとなった。ビスマルクは、プロイセン・フランス戦争の成果と賠償金によって、重工業、化学工業を基軸に資本主義的生産力を飛躍的に発展させた。繁栄に酔うドイツ・ブルジョアジーを与党に自由主義的改革を進めたビスマルクは、1872年反プロイセン的カトリック勢力に文化闘争Kulturkampfを挑んだが、73年早くも経済恐慌に、77年には農業恐慌にみまわれ、労働者階級の台頭に直面。翌78年の社会主義者鎮圧法によってこれを弾圧し、ブルジョアジーやユンカーの求める保護関税政策に転換した。帝国建設のためヨーロッパ列強間の勢力均衡による平和を求め、フランスの孤立化を図る同盟体系をつくりあげた。1878年のベルリン会議は、国際戦争を回避し、ビスマルク外交の名を高めたが、バルカンをめぐるオーストリア、ロシアの対立を激化させ、さらにロシアをフランスに近づけ、ドイツは79年オーストリアと、82年にはイタリアを加えて三国同盟を結んだ。しかし財政改革をめぐってビスマルクは議会との争いに敗れ、90年社会主義者鎮圧法の更新さえ否決されてしまう。ドイツ資本主義は早くも独占を生み、保護関税と相まって国内の物価をつり上げて国内市場を狭め、急速に外国市場へ進出し、植民地獲得へと進む。もはやビスマルク体制の枠を越え、1890年の彼の失脚はまさにドイツ帝国主義の到来を意味した。
重工業を中心とする独占資本は発展し、石炭はもちろん、鉄鋼でもその生産量はイギリスの2倍に達し、軍備拡張・海軍建設を支えた。軍隊と官僚を握るユンカーと独占資本家との結合が強められ、皇帝ウィルヘルム2世(在位1888~1918)は膨張政策を打ち出す。彼は、いわばビスマルク外交の遺産でもあった1887年のロシアとの再保障条約の更新を90年に拒否し、オーストリアと結んでバルカンからさらにトルコへ触手を伸ばした。ロシアは94年にフランスと同盟を結び、1902年仏伊協商、04年英仏協商、07年英露協商と、協商側の体制が固まるに対して、三国同盟は弛緩(しかん)しドイツ・オーストリア側の孤立化を深め、バルカンにおける汎(はん)ゲルマン主義と汎スラブ主義との対立を激化させ、ついに1914年サライエボ事件で第一次世界大戦を招来するに至った。
ビスマルクの弾圧をはねのけた労働者階級は、選挙ごとに社会民主党を成長させ、大戦前夜には議会の第一党となっていた。19世紀末以来、改良主義的傾向を生み出していた社会民主党は、その指導者の多くが帝国主義戦争の勃発(ぼっぱつ)に直面して反戦の旗幟(きし)を捨て、祖国防衛を理由に労使協調による「城内平和」を唱え、戦争に協力する右派と、あくまで労働者のために反戦平和を主張する左派とに分裂した。1917年ロシア革命が勃発すると、飢餓線上にあった労働者は、キール軍港における水兵の反乱を契機にストライキに立ち上がり、皇帝を退位に追い込み、敗戦を迎えた(ドイツ革命)。ドイツ革命の進展を恐れた社会民主党は、スパルタクス団(ドイツ共産党)の蜂起を旧軍隊の力を借りて鎮圧し、議会制民主主義ワイマール共和国を成立させた。
[進藤牧郎]
現代
ワイマール共和国
選挙で過半数を得られなかった社会民主党は、ブルジョア政党とワイマール連合をつくり、ベルサイユ体制に対処した。過酷な賠償は革命運動を高揚させたが、連合国との協調のため旧軍隊を国防軍に再編して抑え、また旧軍部を含むカップ一揆(いっき)を1920年ゼネストによって粉砕した。賠償を強化する西欧列強を22年ソ連とのラパロ条約によって牽制(けんせい)し、フランス・ベルギーによるルール占領に対しては、消極的抵抗としてのゼネストをもってこたえた。その帰結ともいえる天文学的なインフレを「レンテンマルク」Rentenmarkの奇跡によって克服し、相対的安定期に入った。産業合理化を徹底して進めた独占資本は、労働者階級との対立を激化させて右傾化し、1929年来世界恐慌のなかで没落した中産階級、失業者を基盤に台頭するナチスNazis(国家社会主義ドイツ労働者党)に近づくのであった。
[進藤牧郎]
ナチス・ドイツ=第三帝国
ナチスは、ベルサイユ条約に反対し、戦っているドイツ軍は革命のために背後から匕首(あいくち)で刺されたという「匕首伝説」Dolchstosslegendeを流して社共を攻撃し、ユダヤ人を弾圧して排外的な国民的高揚を強調し、内部の社会主義派シュトラッサーを切り、ワイマール連合を見限った独占資本と結んで、1933年合法的に政権を獲得した。SA(エスアー)(突撃隊)を使って、社共さらに自由派をさえも暴力的に弾圧し、国防軍と対立するとその指導者レームを粛清して妥協し、ゲーリングを中心に戦車・航空機を重点に軍需産業を育成し、再軍備を強行して最新の陸海空軍を建設した。
独裁権を確保したヒトラーは、ワイマール外交の遺産とソ連との対立を意識した西欧列強の宥和(ゆうわ)政策を利用し、ベルサイユ条約を破棄してラインラント進出・再軍備を強行し、強硬外交を進めた。1937年を境に独占資本や国防軍の意志に反してまで、「生活圏」Lebensraum確保と民族主義を理由に、38年3月オーストリアを合併、ついで9月ミュンヘン協定によるチェコ侵入にも成功する。しかし39年8月の独ソ不可侵条約締結、同年9月のポーランド侵入は、英仏の宥和政策をしても、もはや第二次世界大戦を回避させることを許さなかった。
ナチス統制経済の下で、労働者は失業を免れたが、労働戦線Arbeiterfrontに組織され、労働強化と低賃金を強いられ、経済的・政治的自由を奪われた。ことに反ナチス派およびユダヤ人に対する組織的迫害は、強制収容所の奴隷的な労働組織を恒常的につくりだし、占領地の拡大につれて、この暴力支配は全ヨーロッパに拡大され、残虐さを加えた。これに対して抵抗運動も各地に組織され、民族の解放と独立のための人民の戦いに展開し、1941年の独ソ開戦を境に、帝国主義戦争に民主主義擁護のための反ファシズム戦争の性格を与えることになった。ことにモスクワ、スターリングラード前面におけるソ連の攻防戦から、反撃に転じた連合軍側には、41年12月の日本の真珠湾攻撃からアメリカも参戦。ヨーロッパ戦線では、連合軍が南および東西からドイツへ進出、占領し、45年5月ドイツは無条件降伏する。
[進藤牧郎]
第二次世界大戦後のドイツ
完敗したドイツは、ポツダム協定によってオーデル‐ナイセ川以東を失い、665万の旧占領地からの流入民を抱え、米英仏ソ4か国の分割占領にゆだねられた。ニュルンベルク裁判を中心に非ナチス化政策を進めた連合国も、ドイツの再建をめぐって東西冷戦の時代を迎える。ソ連地区では1945年土地改革を実施して55万近くの自作農を創設し、ユンカー的大土地所有を解体し、46年社共合同によるドイツ社会主義統一党を結成した。米英仏は、47年マーシャル・プランによる西欧経済の復興にドイツを組み込もうとして占領地区の統合を決定し、48年通貨改革に踏み切った。それに対抗して、ソ連も東ドイツに新通貨を発行し、同年ベルリン封鎖を強行した。米英仏もベルリン空輸でこれに対抗し、49年には北大西洋条約機構(NATO(ナトー))を発足させ、国連の圧力で東西間の危機を回避した。しかしこれは、西に49年5月ドイツ連邦共和国(西ドイツ)を、東に同年10月ドイツ民主共和国(東ドイツ)を成立させ、ドイツに東西分裂国家の固定化を甘受させることになった。
西ドイツは、キリスト教民主同盟アデナウアー、エアハルトの下で、朝鮮戦争による軍需にもより急速に経済再建を果たし、西欧とのパリ協定を1955年に発足させ、占領状態を終結させた。しかし社会民主党は、53年までは東西分裂と再軍備徴兵制に強く反対していたが、54年議会で敗れて徴兵制が現実になると、59年バート・ゴーテスベルク綱領によって転換を遂げる。東ドイツは、ソ連、ポーランドへの賠償もあって再建が後れ、53年のベルリン暴動を経験しながら、55年に主権を回復したが、西側への人口流出に悩み、ソ連によるベルリン自由化提案が西側諸国によって拒否されると、61年「ベルリンの壁」を設け、その後、社会主義的再建を急速に進めて東欧の工業国となっていった。
西ドイツの現実を認めた社会民主党は、1966年キリスト教民主同盟との大連合を成立させ、外相にブラントを送り、69年自由民主党との連合によって政権を獲得すると、積極的に「東方政策」Ostpolitikを進め、ソ連・東欧諸国との国交を回復し、73年東西両ドイツの同時国連加盟を果たし「一つの民族、二つの国家」を定着させた。西ドイツは、80~81年の停滞を脱し始めるなかで、82年保守中道政権が成立したが、83年米ソ欧州中距離核戦力制限交渉の決裂に核戦争の危機感は高まった。しかし、85年にゴルバチョフが登場し、ソ連側から核軍縮を中心に国際平和外交を展開、さらに社会主義体制のなかでのペレストロイカ(建て直し)、グラスノスチ(情報公開)が旧体制を動揺させた。かたくなに旧体制を固持していた東ドイツでも、1989年に入ると市民たちが西側への出口を求めて、チェコ、ハンガリーにあふれた。9月ハンガリーがオーストリアとの国境を解放し西側への出国を認めると、東ドイツ市民は大挙して西ドイツに流れた。国内でも10月ライプツィヒ、東ベルリンで大規模な市民デモが続発し、18日ホーネッカー書記長が退陣、11月東ベルリンで自由を求める100万人のデモが起こると、9日ついに「ベルリンの壁」は消滅し「東欧の崩壊」に至った。90年に入り、東西ドイツ間で経済・社会的統一の取決めや通貨同盟の発足が決まり、10月3日西ドイツ(ドイツ連邦共和国)への東ドイツの統合が正式に決定された。
統一ドイツは東ドイツが東欧諸国のなかでも高い生産性を誇っていただけに、経済発展が予測されていた。そのためドイツを含むEC(ヨーロッパ共同体)諸国は1991年末、ヨーロッパ中央銀行を設立し、さらに通貨、経済に加えて政治的協力も含むEU(ヨーロッパ連合)へと発展させ、92年2月21日マーストリヒト条約を調印した。しかし、国内では旧東ドイツとの格差を解消できず、93年から漸次、公定歩合を引き下げ、経済の活性化を図っているものの、依然として旧東ドイツの失業率は高く、一部では極右勢力も台頭している。98年に入ると、ニーダーザクセン州首相シュレーダーを中心に野党であった社会民主党(SPD)の勢力が急速に伸び、98年9月27日の総選挙で勝利し、16年続いたコール政権の退場となった。しかしシュレーダー首相を全面に出したSPDも単独過半数の議席は獲得できず、第三党の90年連合・緑の党と連立協定を結び、政権を樹立した。こうしてドイツ社民勢力はEU主要国である英仏伊の一角に加わり、99年1月のユーロによる通貨統合をめぐる諸国間調整、旧東欧諸国のEU加盟問題、98年に顕在化したロシア経済の危機の影響などの諸問題の対応を迫られた。また国内では相変わらずの旧東ドイツ地域との格差問題や、400万を数える失業者対策などの懸案を抱え、こうした国内外の複雑な問題への対処が、首相シュレーダーにとって大きな課題となった。
[進藤牧郎]
ドイツ史の研究史
近代歴史学はドイツで成立した。18世紀末の西欧の啓蒙(けいもう)主義とフランス革命がもたらした普遍的合理主義や進歩主義、さらにナポレオン支配への反発から、ヘルダーやフンボルトは、それぞれの民族、地域、時代には歴史的に形成された特有の個性があると主張する歴史主義を唱えた。これに促されて、ドイツでは地域や都市の歴史研究が進んだ。この動きは、ドイツ人の民族的自覚を強める歴史的アイデンティティの探求という政治的要請とも結び付いていた。現在もなお継続刊行されている画期的な中世史料集成『モヌメンタ・ゲルマニアエ・ヒストリカ』Monumenta Germaniae Historicaを提案したのが、プロイセン改革の指導的政治家シュタインであったのはその現れである。さらに、伝説や神話を否定し、史料の厳密な批判的検討に基づく近代歴史学の方法と大学における後継者養成制度が、ランケによって確立され、1859年には『史学雑誌』Historische Zeitschriftのような歴史学専門誌も創刊された。これによってドイツ歴史学は時代の最先端の地位についた。同時に専門分化も進み、国制史・法制史はザビーニーFriedrich von Savigny(1779―1861)らの歴史法学派が法学の一部として、また経済史はシュモラーの歴史経済学派が経済学の一部として扱い、歴史学はその研究対象を政治史と思想史に集中する傾向が強くなった。
19世紀なかば、ドイツ統一をめぐる政治的対立が激化すると、プロイセンが統一の担い手になるべきだと考え、プロイセンの発展を軸にドイツの歴史をみようとするドロイゼン、トライチュケらプロイセン学派が優位になった。ビスマルクによるドイツ統一後、歴史主義は帝国の政治社会体制の現状を肯定する方向で解釈されるようになり、プロテスタント的なプロイセン中心主義とドイツの大国化を期待する列強中心外交史観を特徴とするドイツ史像が広められた。国民国家を重視するドイツ史研究は、近・現代史と中世・近世史との間の断絶も招く結果になった。
一方、19世紀末には、こうした狭い国家中心史に対して、ベルンシュタインやメーリングなどマルクス主義による社会経済史、社会運動史が現れたが、すべて在野の研究にとどまった。同じころ、学界内でもマックス・ウェーバーが歴史研究における社会科学理論の重要性を指摘し、またランプレヒトは、文化や経済、地理学などの成果を含めて、歴史を社会集団を中心に総合的に考察しようと試みた。しかし、ランプレヒトの大著『ドイツ史』が学界主流から激しい批判を受けた(ランプレヒト論争)ことに示されるように、歴史家の主流は、マイネッケに代表される、社会科学的理論に敵対的な大国中心の外交史、国家や有力政治家中心の政治史や思想史の枠に固執した。
第一次世界大戦は、西欧に対抗してドイツの独自性を強調し、ドイツの政策を擁護する歴史研究を強め、さらに戦後はベルサイユ条約のドイツ開戦責任論に反論する大戦原因研究が盛んになった。ドイツ第二帝国を理想とする歴史家の大多数は、ドイツ革命やワイマール共和国への反感を隠さなかったため、ドイツの国家政策を批判的に扱う歴史家やドイツの民主的伝統に注目しようとする研究は、依然として学界の傍流に押しやられたが、ツィークルシュJ.Ziekursch(1876―1945)、ローゼンベルク、ケーアE.Kehr(1902―33)などの第二帝政やワイマール共和国史研究は、第二次世界大戦後のドイツ史研究に引き継がれ、新しい観点からのドイツ史研究の出発点となった。ナチス時代には、中世のドイツ東方植民運動や中・東欧でのドイツ文化の優位を指摘して、ナチの侵略を正当化する歴史家も出たが、一方ではユダヤ系歴史家や自由主義的歴史家は亡命をしいられ、歴史学界は沈滞した。この間、アメリカやイギリスに亡命した歴史家のなかからは、政治学や社会学の影響を受け、ドイツの軍国主義的伝統や近代過程を批判的に検証する研究が現れた。
第二次世界大戦後、ドイツ史研究はより幅広いヨーロッパ的視野と政治学、経済学などの方法を受け入れて行われるようになった。中世史研究ではブルンナーOtto Brunner(1898―1982)が戦前に行った業績を引き継ぎ、シーダーTheodor Schieder(1908―84)やコンツェWerner Conze(1910―86)の唱える社会史的構造史へと連なって、それまでの中世・近世の国制史研究を革新した。それによって、身分制や近代国家とは異なる中世国家の構造が明らかにされ、またヨーロッパ各国歴史家との共同研究も進展した。近・現代史研究では、ミュンヘンに現代史研究所が設置され、『現代史四季報』Vierteljahresheft für Zeitgeschichteが発行されて、ナチズム研究や近・現代史研究を推進する場となった。近・現代史研究では、ほとんどすべての重要なドイツ公文書が連合国側に押収され、歴史家に提供されたことから、どこの国でもある程度高水準の実証研究が可能になり、ナチズムのもたらした衝撃もあって、ドイツ史研究の国際化が進展し、しばしば大きな国際的論争が起こるようになった。
1950年代の西ドイツの歴史学界では、リッターを頂点にする以前の伝統的歴史家が主導し、ナチズムをドイツ史の例外的時期として、いわば括弧(かっこ)にくくり、それ以前の「良き伝統」を擁護する立場が強かった。しかし、1961年フリッツ・フィッシャーFritz Fischerが『世界強国への道』を発表して、第一次世界大戦でのドイツの開戦責任を指摘したことから、これに反発する歴史学界主流と激しい論争(フィッシャー論争)が起こった。論争は国際的にも広がり、ドイツ内部にも若手の歴史家のなかにフィッシャーを支持する者が増え、フィッシャーの説は基本的に認められた。やがて、論争の焦点は大戦原因論という枠を超えて、ナチズムへと至るドイツ近・現代史の負の連続性という問題に移り、ナチズムをもたらしたドイツ史のゆがみや欠陥とその原因の解明が主題となった。これによって肯定的な伝統的ドイツ史像は大転換をとげ、歴史家のなかでの世代交代も急速に進んだ。
1970年代以降、それを明確な形で定式化したのがベーラーH.U.Wehler(1931― )らの社会科学的歴史研究であった。彼はマルクスやウェーバーの議論、とりわけアメリカ政治社会学の近代化論をもとに、西欧諸国の近代化モデルから逸脱したドイツ「特有の道」を指摘し、それに基づいて新しい近・現代ドイツ史像を提起した。1975年に創刊された『歴史と社会』誌Geschichte und Gesellschaftは、社会科学的歴史学派(ビーレフェルト派)の主張を広める上で大きな役割をはたした。
一方、東ドイツでは初期にはクチンスキーJ.Kuczynski(1904―97)など亡命マルクス主義者によるドイツ資本主義史、労働運動史などの成果が相次いだが、1950年代末からはドイツ社会主義統一党による歴史学のイデオロギー的統制が強まり、さらに70年代以降になると、戦前のドイツを社会主義によって克服された別のドイツとする見解が強調され、自己のアイデンティティを戦後の社会主義史に求めはじめたことから、ドイツ史研究は停滞した。
1980年代から、楽観的な西欧近代観への批判が現れるとともに、「特有の道」論への批判がイギリスの研究者から現れ、また民衆の生活を重視する日常史、フランスのアナール派の影響を受けた社会史など多様な潮流が登場してきた。またヨーロッパ連合(EU)統合の見通しが強まるなか、一国史研究、国民国家研究としてのドイツ史から、ヨーロッパのなかのドイツという観点からの研究や国際共同研究が増えてきた。一方、ドイツ統一後はこれまで十分に扱われてこなかった旧東ドイツ諸地域の歴史研究も始まった。
ドイツ史研究はなお一国史研究、政治史研究が多いとはいえ、もはや特定の学派の優位の時代ではなくなり、対象や方法、また研究スタイルにおいて、多様な方向や比較史的研究に移りつつある。そのなかで、ドイツ史像はなお変容を続けている。
なお、日本におけるドイツ史研究は、日本近・現代史の研究が、在野の歴史家を除けば戦前から学界で抑えられてきたこともあって、日本と類似したドイツの歴史にその代替を求めるという視角からなされる傾向が強かった。本格的ドイツ史研究が始まった第二次世界大戦後、マルクス主義、大塚史学の影響下に、ドイツの大土地所有制などの後進的経済構造と社会の関係、後発型資本主義モデル分析が成果を上げたのは、日本のドイツ史研究の特色を示している。一方、ドイツ中世・近世史研究では法制史、あるいは国制史が主導したのもドイツでの研究と一致しており、この傾向は現在も強い。1960年代からは、ナチズムへと至るドイツ近・現代の政治・社会史研究が主流になり、国際的なドイツ史研究の流れに沿った形で推移してきた。
[木村靖二]
『大野英二著『ドイツ資本主義論』(1971・未来社)』▽『林健太郎編『世界各国史ドイツ史 新版』(1977・山川出版社)』▽『ハルトゥング著、成瀬治・坂井榮八郎訳『ドイツ国制史』(1980・岩波書店)』▽『H・U・ヴェーラー編『ドイツの歴史家』1~5巻(1982~85・未来社)』▽『西川正雄編『ドイツ史研究入門』(1984・東京大学出版会)』▽『イッガース著、中村幹雄訳『ヨーロッパ歴史学の新潮流』(1986・晃洋書房)』▽『成瀬治著『絶対主義国家と身分制社会』(1988・山川出版社)』▽『望田幸男・三宅正樹編『新版概説ドイツ史』(1992・有斐閣)』▽『木谷勤・望田幸男編著『ドイツ近代史』(1992・ミネルヴァ書房)』▽『イッガース著、早島瑛訳『20世紀の歴史学』(1996・晃洋書房)』▽『成瀬治・山田欣吾・木村靖二編『世界歴史大系 ドイツ史』1~3巻(1996~97・山川出版社)』▽『阿部謹也著『物語ドイツの歴史』(1998・中央公論社)』