ゲッティンゲン七教授事件(読み)げってぃんげんしちきょうじゅじけん(その他表記)Göttinger Sieben ドイツ語

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

ゲッティンゲン七教授事件
げってぃんげんしちきょうじゅじけん
Göttinger Sieben ドイツ語

1837年、ドイツゲッティンゲン大学教授7名がハノーバードイツ連邦の一つ)王の憲法改革に公然と反対したため罷免、追放された事件。ハノーバーでは1833年、七月革命の影響下で貴族寡頭制的旧憲法が廃されてイギリス的な二院制議会に基づく自由主義的憲法が制定されていた。イギリスでビクトリア女王が即位し、女性に王位継承権のないハノーバー王位にエルンスト・アウグストErnst August(在位1837~51)が即位してイギリスとの同君連合が解消されると、新王はただちに議会を解散し、新憲法破棄と旧憲法による国会招集を命じた。これに対し、新憲法制定に中心的役割を演じた歴史法学ダールマン(抗議文起草者)をはじめ、法学者アルプレヒトWilhelm Eduard Albrecht(1800―76)、グリム兄弟、歴史学者ゲルビーヌス、ヘブライ語学者エーワルトHeinrich Georg August Ewald(1803―75)、物理学者ウェーバーWilhelm Eduard Weber(1804―91)(署名順)の七教授が、新憲法に対して行った宣誓権力の命により軽々に変更することは良心に反すると抗議した。追放された七教授は広範な世論支持で全員やがて各地の大学に招聘(しょうへい)されたが、この事件は、三月革命に至るドイツ自由主義運動史上においても、学問の自由を守る闘いの歴史においても大きな意義をもっている。

[岡崎勝世]

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大学事典 の解説

ゲッティンゲン七教授事件[独]
ゲッティンゲンしちきょうじゅじけん

1837年に,ドイツのゲッティンゲン大学(ドイツ)の7人の教授が,新たにハノーファー王となったエルンスト・アウグストによる憲法停止に抗議して罷免された事件。ハノーファーでは,七月革命(1830年)の影響を受けて,1833年に自由主義的な憲法が制定されていた。七教授は以下のとおり。フリードリヒ・クリストフ・ダールマン,F.C.(哲学部正教授。歴史学,国家学),ヴィルヘルム・エドゥアルト・アルブレヒト,W.E.(法学部正教授。私法学,国法学),ヤコブ・グリム,J.(哲学部正教授。言語学,文学),ヴィルヘルム・グリム,W.(哲学部正教授。言語学,文学),ゲオルク・ゴットフリート・ゲルヴィーヌス,G.G.(哲学部正教授。歴史学),ハインリヒ・ゲオルク・アウグスト・エーヴァルト,H.G.A.(哲学部正教授。オリエント学,神学),ヴィルヘルム・エドゥアルト・ヴェーバー,W.E.(哲学部正教授。物理学)。ヤコブ(兄)とヴィルヘルム(弟)は,『グリム童話』を編纂したグリム兄弟として有名である。
著者: 木戸裕

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 の解説

ゲッティンゲン七教授事件
ゲッティンゲンしちきょうじゅじけん
Die Göttinger Sieben

1837年ドイツのゲッティンゲン大学の7人の教授が憲法改革に反対して罷免された事件。同年ハノーバー王となったエルンスト・アウグスト1世は,七月革命の影響下に生れた 1833年の自由主義的憲法の無効を宣言し,この憲法に宣誓する官吏の罷免を命じた。ゲッティンゲン大学の7教授,史学の F.ダールマン,G.ゲルビヌス,法学の W.アルブレヒト,言語学のグリム兄弟,東洋言語学の H.エーバルト,物理学の W.ウェーバーは,同年 11月 18日大学当局に抗議文を提出し,33年憲法への忠誠を明らかにしたため,王の宰相シェーレはただちに7教授を罷免し,特に抗議文を事前に漏したダールマン,ゲルビヌス,J.グリムを国外追放に処した。全ドイツの世論は沸騰し,「ゲッティンゲン協会」が各地に設立され,救援資金が集められ,他のドイツの諸邦政府も王の暴挙を非とするものが多く,ダールマンはボン大学,J.グリムはベルリンのアカデミーに,またその他の教授も諸邦の大学に招かれることになった。

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百科事典マイペディア の解説

ゲッティンゲン七教授事件【ゲッティンゲンしちきょうじゅじけん】

1837年ドイツ北西部ハノーファー王国の新国王エルンスト・アウグストが自由主義的憲法の無効と旧憲法の復活を宣言し,それに対して抗議した同地ゲッティンゲン大学のダールマン,ゲルビヌス,グリム兄弟ら7人の教授が罷免された事件。全独に反響を呼び,救援活動が展開された。
→関連項目ウェーバーダールマン

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山川 世界史小辞典 改訂新版 の解説

ゲッティンゲン七教授事件(ゲッティンゲンななきょうじゅじけん)
Göttinger Sieben

1837年にハノーヴァーの新王エルンスト・アウグストが,七月革命の影響のもとに生まれた自由主義的な憲法を廃止し,旧憲法を復活しようとしたので,ダールマンゲルヴィーヌスグリム兄弟などゲッティンゲン大学の7人の教授がこれに強く反対し,そのために罷免された事件をいう。この事件は全ドイツに大きな反響を呼び,彼らのための救援資金が集められた。

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旺文社世界史事典 三訂版 の解説

ゲッティンゲン七教授事件
ゲッティンゲンしちきょうじゅじけん
Göttingen

1837年ドイツのゲッティンゲン大学の7人の教授が憲法改革に反対して罷免 (ひめん) された事件
ハノーヴァーは1833年自由主義的な憲法を制定したが,エルンスト=アウグスト王が即位後に憲法を無効とする勅令を発した。これに対し,グリム兄弟をはじめ7教授が抗議したため,王により罷免された。しかし,これ以後,自由主義は全ドイツに広まった。

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世界大百科事典(旧版)内のゲッティンゲン七教授事件の言及

【グリム兄弟】より

…1816年ヤーコプは外交官の職を辞し,弟と同じくカッセルの図書館員となり,以後兄弟は相似た経歴をたどる。30年,ともにゲッティンゲン大学司書官に転じ,教授を兼ねた兄につづいて弟も教授となるが,37年ハノーファー国王の違憲に抗議した〈ゲッティンゲン七教授事件〉に連座してともに免職となり,これがきっかけとなって,兄弟の編集によるドイツ語大辞典の計画が立てられる。41年プロイセン科学アカデミー会員としてベルリンに移り,大学の講壇に立ちながら(兄は1848年,弟は52年まで)余生を大辞典にささげる。…

【ゲッティンゲン大学】より

…ラテン語にかえてドイツ語による授業,実験に基づく自然科学,新人文主義的古典研究により名声を博し,ハレ大学(1694創設)とともに大学史上の一時代を画する重要な役割を果たした。1837年〈ゲッティンゲン七教授事件〉が発生した。アルブレヒト,ダールマン,エワルト,ゲルビヌス,グリム兄弟,W.ウェーバーの7教授は,1833年に施行された民主的なハノーファー憲法の廃止に抗議声明を発表。…

【ゲルビヌス】より

…ドイツの歴史家で〈ゲッティンゲンの七教授事件〉の一人。歴史家としては《ドイツ文学史》5巻(1835‐42)の名著があり,文学をその時代との関連でとらえようとしたことで知られる。しかし彼が自分の最大の課題としたのは,著作活動を通じて世人の政治的関心を喚起することであった。1847年自由主義的《ドイツ新聞》を発刊,48年にはフランクフルト国民議会議員に選ばれている。【坂井 栄八郎】…

【ダールマン】より

…ドイツの歴史家。キール,ゲッティンゲン,ボンの各大学教授を歴任。〈ゲッティンゲンの七教授〉の一人であり,1848年の革命に際してはフランクフルト国民議会議員としてドイツ統一憲法の起草を指導した。彼は絶対主義と革命をともに〈専制〉として否定し,身分制議会を基礎にして立憲制を発展させたイギリスの国制を良き国制として称揚した。【坂井 栄八郎】…

※「ゲッティンゲン七教授事件」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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