翻訳|commune
フランス語ではコミューンは誓約団体の意味で,11~12世紀に成立した中世自治都市を指す史学上の概念である(〈コミューン都市〉の項目を参照されたい)。フランス,ベルギー,イタリア,スペインなどの最小行政区である市町村自治体をも意味している。またパリ・コミューンをふまえて,反権力・自治・友愛・平等に基づく組織という意味でも用いられる。さらに私有財産を否定し平等な労働を原理とする共産主義的な生活共同体の意味でも用いられ,この意味でのコミューンには大別して宗教的なもの,政治的なもの,心理的なものがある。
宗教的コミューンはユダヤ教のエッセネ派にまでさかのぼれるほど古く,また世界各地に見られる。欧米では原始キリスト教会をモデルとする宗教コミューンが,とりわけ16世紀以降各地で建設されている。現代のアメリカでは,1960年代からのリバイバリズムの嵐の中で原理主義的なキリスト教やヒンドゥー教など東洋的な宗教グループによるコミューンも輩出するにいたった。政治的コミューンは産業社会の登場によって生じた急激な社会変化と社会の階級的対立を,社会主義的原理によって変革しようとして考えられた。R.オーエンのニューハーモニー,フーリエ主義者のファランクス,E.カベのイカリアなどが現れた。現代の例ではイスラエルのキブツが挙げられよう。1960年代から先進産業社会で,現代社会の孤独,疎外,管理化に対抗して,小規模で拡大家族にも似た心理的コミューンが登場してくる。主要な担い手はヒッピーであった。
近代日本では,急激な産業化による矛盾が顕著になってきた明治末から大正期にかけて〈一灯園〉〈新しき村〉などの宗教的コミューンが,昭和期の疲弊する農村から〈心境部落〉や〈山岸会〉などの政治的コミューンが,また敗戦の混乱から生まれてくる〈大倭紫陽花邑(おおやまとあじさいむら)〉のような宗教的コミューンが,それぞれの代表例と考えられる。さらに70年前後から心理志向の〈部族〉やヒッピーのコミューンが各地で試みられるとともに,社会変革を明確に志向する〈弥栄之郷(やさかのさと)〉などが現れた。70年前後から登場する青年コミューンの多くが,学園闘争にかかわっていた人々によって担われたことは注目に値する。世界の主要な先進産業社会に吹き荒れたスチューデント・パワーの中からコミューン志向の青年が大量に出現したことは,コミューンの一側面として現代社会の主要な一次的集団としての家族や近隣社会のオルタナティブ(伝統的な制度,価値,思想に対して,選択可能な代案)としての意義を秘めていたことを示している。70年代に開花するウーマン・リブの集団的結集は,コミューンのこのインパクトを物語っている。73年のオイル・ショック以降,若者のコミューン熱にも水がかけられたようであるが,長期的視点に立つならば,現代家族の根本的な不安定性は,コミューンへの関心を増大させることはあっても,減退させることはないであろう。
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フランス中世の自治都市。11世紀末から12世紀にかけてフランスの北部、東部に展開されたコミューン運動によってできた都市をコミューン都市といい、中部、西部、南西部に広まったプレボprévô都市、南フランスのコンシュラconsulat都市とはタイプを異にする。
コミューンとは、もともと市民相互間の扶助を誓い合った平和誓約社団を意味する。コミューン運動の主たる要因は、11~12世紀の「商業の復活」に伴う都市市民層の経済的興隆にあった。コミューンの成立には、国王あるいは領主によるコミューン授与の文書(シャルト)が必要であった。市民は支配権力からの解放を目ざして、市場税や通行税の廃止などいわゆる商品流通規制権や領主独占権の撤廃を主張したが、年代記作者ギベール・ド・ノジャンGuibert de Nogent(1053―1124ころ)が「コミューン! 新しい名前だ! 忌まわしい名前だ!」といったように、支配者の側からの抵抗が強く、運動がかなり暴力的な仕方で解決されたケースも少なくはなかった(ラン、ベズレー、ボーベなど)。しかし13世紀に入ると、コミューンの性格は変質を遂げた。国王による集権化の開始とともに、従来のような誓約に基づく市民の連帯性は失われ、コミューンはいわゆる自治都市として現実的な独立を達成した。都市自ら法を編纂(へんさん)し、鐘楼(しょうろう)をつくり、独自の軍隊をもち、裁判権を行使し、貨幣を鋳造し、公文書発行のための印璽(いんじ)を有していた。アブビル、オーセル、アミアン、サン・カンタン、ノアイヨン、ソアソン、ラン、アラスなどのコミューンがその例である。これらの都市は、市民総会から生まれた都市参事会が監督する市長によって市政が行われ、エシュバンとよばれる行政官を備えていたが、貴族や聖職者ばかりでなく、農奴、貧困者にも市民権を拒否したため、民主的な市政とはいえず、現実には市民寡頭政治を形成していた。コミューン運動は13世紀まで増加の一途をたどるが、14世紀以降衰退した。その原因は、内部においては市民権をもたない細民の階級的意識の覚醒(かくせい)によって、外部においては王権の伸張によってである。絶対王制の成立とともに、都市の裁判権は管轄の縮小を余儀なくされて都市警察権の機能をとどめるにすぎなくなり、1789年の革命によってコミューン体制は消滅した。
なお、パリは、コミューン都市ではなく、王権の直接支配下にあるプレボ都市であったが、史上「パリ・コミューン」とよぶのは、一つはフランス革命期の1792年8月10日の事件(王権停止)からテルミドール9日(1794年7月27日)までパリに成立した革命権力をいい、他者は、1871年3月18日から5月末まで同じくパリに樹立された革命政権をいう。また、コミューンは、フランス地方行政上の最小管轄単位で、カントンの下部単位をなす。
[志垣嘉夫]
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フランス中世の自治都市。イタリアのコムーネにやや遅れて12世紀に北フランスを中心に成立。本来は相互扶助にもとづく平和を誓約しあった住民の共同体で,社会の混乱や領主権の乱用に対して,秩序の安定を守るため,市民が相互扶助を誓約して団結し,王または領主から特許状により社団として公認されたものである。一般に市長などを選出して自治行政を行い,裁判権も一部独立して有したが,相互扶助の原則はギルドにより厳格に守られた。13世紀以降王権の干渉が強まり,百年戦争の混乱のうちに衰退した。
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…しかし,1982年ミッテラン政権の下で地方分権化の改革案が議会を通過し,年来の制度にも新しい変化がもたらされることになった。 フランスは,96の県département,四つの海外県département d’outre‐mer,四つの海外領territoire d’outre‐mer,二つの(海外)地域公共団体collectivité territorialeから成り,約3万6000の市町村communeをもっている。1964年以来新たに21(のちに22)の〈地域〉(レジヨンrégion)が設けられ,広域的な地域開発圏として機能するようになった。…
…現実に1840年代から1870年代の初頭にかけて,共産主義は資本主義社会を暴力的に転覆するための革命行動を意味し,社会主義は議会政治への参加等の合法的・立憲主義的手段によって経済体制を生産手段の国有化の方向に向かって改革する運動を指していた。しかし1871年のパリ・コミューンの崩壊を転機として,両者の区別は曖昧になり,むしろ共産主義という言葉が消滅したかのように見えた。フランス語のコミューンcommuneは市町村の行政単位を指す言葉であるが,マルクスは1871年に刊行された《フランスにおける内乱》で,コミューンの代表者からなる政府を〈本質的に労働者階級の政府であり,有産階級に対する勤労階級の闘争の所産であり,労働の経済的解放を達成することができる,遂に発見された政治形態である〉と述べた。…
…主として北フランスに分布し,住民が結成した〈コミューン〉という宣誓共同体の運動の結果,領主・国王から〈コミューン証書〉を付与されて種々の特権を享受し,かつ住民により選挙された市政官の団体によって運営される都市をいう。コンシュラconsulat都市およびフランシーズfranchise都市と並ぶフランス中世都市の一類型。…
…〈すべてを権威的把握におしこめてしまう言語からの解放の第一歩は,どこかへ行けば言語の外になってしまうような場所があるという実感をもつこと〉(D.ラミス)だったから,マリファナやLSDなどのドラッグによる〈トリップ〉,ロック・ミュージック,サイキデリック・アート,非正統的な諸宗教が空前の流行をよんだ。それらに媒介されて〈拡張された〉意識によって,テクノクラシーのもとで支配的な権威を与えられている〈客観的〉意識から解放された〈著しく個人至上主義的な共同体感覚〉に基盤を置くニューレフト(新左翼),ヒッピー,コミューン生活者によって対抗文化は担われた。 〈対抗文化〉という概念を社会的に確立したローザクTheodore Roszakの《対抗文化の形成》(1968)によれば,その核心にあるのは近代合理主義のもたらした科学的世界観を相対化する,シャーマニズム的な世界観の導入だった。…
…1789年の国民議会はプロバンスを廃止したが,これに代えて86の県を設置し,これを官選知事に統轄させた。このとき,多様であった自治体は画一的なコミューンに統一され,このコミューンは合議制の執行機関が統轄するものとされたのである。しかしながら,コミューンの合議制執行機関と中央政府との間に紛争が頻発したため,ナポレオンは,コミューンの統轄機関を独任制に改め,かつこれを官選とした。…
※「コミューン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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