アラウンパヤーによって創始されたビルマ(現ミャンマー)最後の王朝。1752-1885年。アラウンパヤー朝ともいう。1752年4月アバを陥れ,タウングー朝を倒したモン軍は,各地のビルマ人村落首長に臣従を要求したが,シュウェボーの首長アラウンパヤーだけはこれを拒否,周辺46ヵ村のビルマ人住民を糾合してモン軍に対抗した。54年1月アワ,55年3月ダゴン(この時ラングーンと改称),56年6月シリアムと,モンの要塞を次々に撃破したアラウンパヤーは,57年5月モンの王都ペグーを陥れ,ビルマ族による3度目の国土統一を達成した。58年マニプルを隷属させ,60年にはアユタヤ攻略に乗り出したが失敗,撤退の途中没した。後を継いだ長子ナウンドージーは3年後に死去,その後即位した弟シンビュシンが64年にアユタヤ攻略を再開,4年にわたる包囲攻城の末,67年3月ついにこれを陥れた。しかしアユタヤ遠征中の65年から69年にかけて,ビルマは4度も清軍の侵攻を被った。乾隆帝の治世に行われた清のこのビルマ侵攻は,結局敗北に終わったものの,69年締結の講和条約によって10年間隔での使節交換が復活した。81年に登場した叔父ボードーパヤーは,南西の独立王国アラカンを85年に併合,ビルマの版図をさらに拡大した。しかしその孫バジードーの治世に,変節したアッサム土侯やマニプル土侯制裁のため出兵したビルマ軍と両土侯を支援するイギリス軍との間で衝突が起こり,1824年の第1次ビルマ戦争へと発展した。敗れたビルマはアラカン,テナッセリム両地方をイギリスに割譲,アッサム,マニプルを放棄したうえ,賠償金1000万ルピーを支払った。52年イギリス人船長2名に対するラングーン太守の扱いがもとで第2次ビルマ戦争が起こり,ペグー地方がイギリス領となった。85年イギリス資本の木材企業に対する罰金課税が原因で,イギリスは3度軍隊をビルマに派遣,国王ティーボーを捕らえ全土をイギリス領とし,ここにコンバウン朝は滅んだ。
執筆者:大野 徹
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上ビルマ、シュエボー(雅名コンバウン)の地に拠(よ)るアラウンパヤー王(在位1752~60)が興したビルマ最後の王朝(1752~1885)。アラウンパヤー朝ともいう。都はその後、アバとアマラプーラおよびマンダレーへ移った。王朝初期、下ビルマのモン人勢力およびアラカン王国を撃滅し、ここに現ミャンマー(ビルマ)国土の基礎が形成された。また西のマニプルを征服し、東方アユタヤへの侵攻、さらに清(しん)の乾隆(けんりゅう)ビルマ遠征を撃退したが、19世紀に入ると第一次イギリス・ビルマ戦争によりアラカン、テナセリム(現タニンタリー)を、第二次の戦争では下ビルマ全域を失う。第9代のミンドン王(在位1853~78)はこうした外圧に対処すべく新税制を施行し、地方領主(トゥージー)の権限を削減することによる税収増大、中央集権体制強化を図り、西欧先進技術の導入による殖産興業策を強行した。これによって社会構成は大きく変化し始めたが、1885年の第三次イギリス・ビルマ戦争により王朝は滅亡した。文芸面においては、戯曲を中心とする散文文学の興隆によって大衆文化が根を張り、民族意識の形成に寄与した。また王統史や地方史の編纂(へんさん)も盛んであった。
[伊東利勝]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1752~1885
アラウンパヤー王(在位1752~60)によって,シュエボー(コンバウン)に樹立された王朝。アラウンパヤー(Alaungpaya)朝ともいう。都はその後,アヴァやアマラプーラそしてマンダレーに遷った。版図はほぼミャンマー連邦の領域に匹敵した。住民支配はニャウンヤン時代(1597~1752年)の様式を踏襲し,地方の経営は在地の領主に任せた。第2次イギリス‐ビルマ戦争後王位についたミンドン王(在位1853~78)時代,税制の近代化,科学技術を導入しての殖産興業,富国強兵策がとられたが,1885年イギリスの植民地となった。
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…19世紀に3回にわたって戦われたイギリスのビルマ侵略戦争。(1)第1次ビルマ戦争(1824‐26) ビルマのコンバウン朝はボードーパヤー,バジードー王のとき,西方のアッサム,アラカンを征服するとともにマニプルに侵入し,カチャルをも脅かした。マラーター戦争を終えたイギリスはベンガル防衛のためカチャルを保護国とし,1824年ビルマに宣戦布告した。…
… このモン族の興隆に対抗してビルマ族の覇権を三たび確立したのが,シュウェボー出身のアラウンパヤーである。彼は5年間におよぶモン族との戦闘に打ち勝って1752年コンバウン朝を建てた。彼とその後継者たちは一貫して拡張政策を遂行した。…
※「コンバウン朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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