サイクスピコ協定(読み)サイクスピコキョウテイ

デジタル大辞泉 「サイクスピコ協定」の意味・読み・例文・類語

サイクスピコ‐きょうてい〔‐ケフテイ〕【サイクスピコ協定】

Sykes-Picot Agreement第一次大戦中の1916年に英国・フランスロシアが締結した、戦後のオスマン帝国領土分割に関する秘密協定。名称は、原案を作成した英国の中東専門家マーク=サイクス(Mark Sykes)と、フランスの外交官フランソワ=ジョルジュ=ピコ(François Georges-Picot)に由来。→フサインマクマホン協定バルフォア宣言
[補説]旧オスマン帝国領のうち、現在のイラク南部・クウェートサウジアラビア東部・ヨルダンにあたる地域をイギリスが、シリアレバノン・イラク北部などをフランスが、黒海沿岸などをロシアが勢力圏とすると約束しあった。パレスチナは英仏共同統治とされた。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

共同通信ニュース用語解説 「サイクスピコ協定」の解説

サイクス・ピコ協定

英国、フランス、ロシアが第1次大戦中の1916年5月、敵対するドイツと同盟を結んでいたオスマン帝国領の戦後の分割や勢力範囲を取り決めた密約。おおむね現在のシリアはフランス、イラクは英国、ボスポラス海峡両岸地域などはロシアの勢力範囲とすることを定めた。英国のマーク・サイクス、フランスのフランソワ・ジョルジュ・ピコが原案を作成。ロシア革命後の17年11月、レーニンらが率いるボリシェビキ(後のソ連共産党)が暴露した。(アルビル共同)

更新日:

出典 共同通信社 共同通信ニュース用語解説共同通信ニュース用語解説について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「サイクスピコ協定」の意味・わかりやすい解説

サイクス‐ピコ協定
さいくすぴこきょうてい
Sykes-Picot Agreement

第一次世界大戦中の1916年5月、イギリス、フランス、ロシア間で、戦後のオスマン・トルコ帝国領の分割を約束した秘密協定。ロシアの首都ペトログラード(現、サンクト・ペテルブルグ)で調印された。協定の名称は、主として作成にあたったイギリスの外交官マーク・サイクスMark Sykes(1879―1919)とフランスの外交官ジョルジュ・ピコFrançois Georges-Picot(1870―1951)の名からつけられた。協定によると、レバノンを含むシリア、イラク北部、アナトリア南東部はフランスの、イラク中南部、ヨルダンはイギリスの、それぞれ統治地域および勢力圏とし、ロシアはジョージアグルジア)、アルメニアに接するトルコ領の一部を獲得する。またエルサレムを含むパレスチナは国際管理下に置く、となっていた。この協定は、前年(1915)のフサイン‐マクマホン協定および翌1917年のバルフォア宣言とまったく矛盾するものであり、第一次世界大戦中に示したイギリスの二重外交、および帝国主義時代の大国間の権力政治の典型を示すものであった。

[藤村瞬一]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「サイクスピコ協定」の意味・わかりやすい解説

サイクス=ピコ協定 (サイクスピコきょうてい)
Sykes-Picot Agreement

第1次世界大戦中の1916年5月,イギリス,フランス,ロシア3国が,オスマン帝国領土のうち,シリア,キリキア,メソポタミアにおける3国の将来の勢力範囲画定を取り決めた秘密協定である。フランス代表のピコGeorges Picotとイギリス代表のサイクスMark Sykesとが原案をつくり,この協定によって,イギリス,フランス両国は,フランスが領有を主張し,イギリスがフサイン=マクマホン書簡によって1915年10月にアラブに対して事実上公約した独立アラブ王国の領域に入るシリアの処理を調整した。そしてパレスティナの統治形態は,3国およびメッカシャリーフの間での将来の協議にまかされることとなった。この秘密協定は,17年11月,ロシアのボリシェビキ政権によって暴露された。
バルフォア宣言
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「サイクスピコ協定」の意味・わかりやすい解説

サイクス=ピコ協定【サイクスピコきょうてい】

1916年,英・仏・露3国間で結ばれた秘密協定。イギリス代表のサイクスM.Sykesとフランス代表のピコG.Picotが原案作成。オスマン帝国の領土を3国で分割し,それぞれの勢力範囲とパレスティナの国際管理化を定めた。1917年革命後のソビエト・ボリシェビキ政府がこれを暴露し,アラブ独立を約したフサイン=マクマホン書簡などとの矛盾が明らかとなった。しかし,その後の中東諸国の国家形成や民族統合などは基本的に西欧列強が定めたこの分割線に沿って進めざるをえなかったため,中東・アラブ世界はさらに大きな矛盾を抱え込むことになった。2014年6月に〈カリフ制国家〉創設を宣言したISは,サイクス=ピコ協定による帝国主義的分割線を認めず,現状の中東地域の国家領土を一切否定すると表明している。→パレスティナ問題
→関連項目IS

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「サイクスピコ協定」の意味・わかりやすい解説

サイクス=ピコ協定
サイクス=ピコきょうてい
Sykes-Picot Agreement

第1次世界大戦中,イギリス,フランス,ロシアの3国が大戦終結後のオスマン帝国の領土分割や勢力範囲を取決めた密約。イギリスの M.サイクス,フランスの G.ピコ両代表が協議して原案をつくり,1916年5月9日ロシアを加えて締結された。これによりイギリスはバグダードなどを含む南メソポタミア,シリアのハイファ港を支配し,フランスはシリアを領有,ロシアはイスタンブールとダーダネルス,ボスポラス両海峡の両岸および国境地帯の帝国領のほとんどを領有することが定められた。さらに,英仏の分割領有地帯の境にアラブ人国家を樹立し,帝国南部のアレクサンドレタ港 (現イスケンデルン) を自由港とする,パレスチナについてはイギリス,フランス,ロシアが後日改めて協定を結んで特殊地域とする,なども取決められた。しかしこの秘密協定は翌 17年ソビエト政権によって暴露され,パリ講和会議はこの協定をめぐって紛糾し,協定は結局実現されなかった。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「サイクスピコ協定」の解説

サイクス−ピコ協定
サイクス−ピコきょうてい
Sykes-Picot Agreement

第一次世界大戦中の1916年5月にイギリス・フランス・ロシア3国が結んだオスマン帝国分割の秘密協定
大戦後,オスマン帝国の勢力下にある中近東地域を,3国がそれぞれ領有あるいは勢力範囲にすることを決めた。翌1917年,イタリアの不満をいれて,イズミル地方をイタリアに割譲する改定を加えた。この条約はイギリスが1915年に約束したアラブ人の独立(フサイン−マクマホン協定)を否定するもので,革命後のソヴィエト政府に暴露され,結局実現しなかった。サイクスはイギリス,ピコはフランスの代表者の名。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「サイクスピコ協定」の解説

サイクス‐ピコ協定(サイクス‐ピコきょうてい)
Sykes-Picot

1916年5月,英仏露3国の間で,オスマン帝国領の分割を定めた協定。各国の勢力範囲を定めたほか,パレスチナを国際管理地とした。第一次世界大戦中に強国間で結ばれた領土分割に関する秘密条約の代表的なもの。17年11月,革命後のロシア政府がこれを暴露し,フサイン‐マクマホン書簡との関係からも,アラブ人を痛憤させることになった。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のサイクスピコ協定の言及

【シリア】より

…ファイサル1世は連合国軍の一翼としてダマスクスに入城し,1920年シリア王位につく。 しかし,シリアの権益を争うイギリス,フランスは,すでに戦時中の1916年に秘密裡にサイクス=ピコ協定を結び,戦後の両国の勢力圏を取り決め(図1),さらにイギリスは,ユダヤ人のシオニズム運動にも希望をもたせ,パレスティナへの入植を許し,バルフォア宣言によってユダヤ人国家建設の糸口を与えていた。両国は20年のサン・レモ会議と21年のカイロ会議において,シリア,イラクの委任統治権を旧連合国に承認させ,フランスは,ファイサル1世をシリアから追放した。…

※「サイクスピコ協定」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android