サンドニ修道院(読み)サンドニしゅうどういん(その他表記)Abbaye de Saint-Denis

改訂新版 世界大百科事典 「サンドニ修道院」の意味・わかりやすい解説

サン・ドニ修道院 (サンドニしゅうどういん)
Abbaye de Saint-Denis

パリ北郊にある修道院。273年にモンマルトルで殉死したドニ(使徒パウロの弟子ディオニュシウス・アレオパギタともいわれる)が,みずからの首を抱えて約10km歩き,倒れた場所に築かれたという墓をめぐって創設された。墓の周辺に形成された崇敬団に対し,まず聖ジュヌビエーブが修道院を建設し(5世紀末),ついでダゴベルト王が教会堂を再建した(7世紀初)。この教会堂はさらに8世紀末に改築され,また修道院長シュジェールSuger(1080ころ-1151)が改築したのち,さらに13世紀にルイ9世の命を受けたピエール・ド・モントルイユPierre de Montreuil(1200ころ-66)によって改築された。この修道院はダゴベルト以後歴代フランス王の墓所となり,カール大帝はここに市場・鋳貨特権を与えて交易の中心とした。歴代修道院長は,いずれも王の顧問の任をはたし,特にシュジェールの役割が著しい。彼はまた,修道院と王国の年代記作成の伝統をひらいた。

 サン・ドニ修道院は,17世紀のフロンドの乱で破壊をうけ,一時サン・ジェルマン・デ・プレ修道院に属した。フランス革命はより著しい損壊をもたらしたが,ナポレオンの命により,ビオレ・ル・デュクがこれを現状に修復した(1840-70)。その後建物は一時世俗的目的に利用され,さらに歴史博物館となったが,1966年以後大聖堂(司教座教会堂)となっている。
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修道院長シュジェールが改築した西正面(1136ころ-40)と内陣(1140-44)は初期ゴシック先駆をなすもので,その他の外陣とトランセプトは1231ころ-81年に改築されたレイヨナン・ゴシックの最初の作品である。西正面はまだ重厚だが,ゴシック大聖堂の基本的形式を示す。北側の鐘塔は19世紀の誤った修理工事で沈下をおこしたため撤去された。内陣の身廊は13世紀に改築されたが,その他の部分は当時のままで,平らな壁面円柱・半円柱など線的表現の要素で隠し,窓を拡大し,石造天井も骨組を強調する。この方向を推進して洗練させた外陣とトランセプトでは,目に映るものはすべて線条化した骨組みとその間を埋めるステンド・グラスとなっている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「サンドニ修道院」の意味・わかりやすい解説

サン・ドニ修道院
さんどにしゅうどういん
Abbaye Saint-Denis

フランス、パリ北郊の町サン・ドニにある旧フランス王室修道院。現在は付属聖堂のみが残り、1966年以降はカテドラル(大聖堂)となっている。475年ごろパリの初代司教聖ドニの墓の上に聖堂が建造され、メロビング朝の王ダゴベール1世(在位629~639)時代に修道院となって、聖堂も建て直された。ピピン王時代には新たに第三次聖堂が着工され、775年に献堂されている。カロリング朝時代の9世紀にサン・ドニ修道院の写本挿絵や金工芸のアトリエは有名であったが、しかしこの修道院が隆盛を誇るのは院長シュジェール(在位1122~51)時代以降で、聖王ルイ9世時代の1263~64年にはフランス歴代の王の墓が納められて王室修道院となった。この伝統はフランス革命期の荒廃ののち、ナポレオンの命による修復を経てルイ18世時代まで続いた。

 現状の聖堂は、シュジェール院長時代に、前時代のカロリング朝期の身廊部を保存しつつ、1137年から44年にかけて西正面部と内陣部が、そして51年には身廊部も改築されたものである。13世紀後半には拡張工事が行われている。シュジェールによってサン・ドニに集められた建築家彫刻家たち、ステンドグラスの工人たちのアトリエは、ゴシック様式という新芸術の出発点となった点で意義が大きい。このアトリエは、のちシャルトルの大聖堂建造に活躍するが、しかし残念ながらサン・ドニの当時の彫刻やステンドグラスは、今日わずかな断片を残すにすぎない。

[名取四郎]

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百科事典マイペディア 「サンドニ修道院」の意味・わかりやすい解説

サン・ドニ修道院【サンドニしゅうどういん】

フランスのパリ近郊,サン・ドニにある修道院Abbaye de Saint-Denis。初め5世紀末に建設され,7世紀前半にメロビング朝のダゴベルト1世が殉教者聖ドニ(ディオニュシウス)を讃(たた)えて教会堂を再建,その後カロリング朝,カペー朝(カペー家)の保護を受けて繁栄した。後12世紀前半に院長シュジェールのもとで聖堂の増改築が行われたが,新建築はリブ・ボールトやステンド・グラスを採用したもので,ゴシック建築様式の発端となった。聖堂には創建から17世紀までのフランス王の墓所がある。
→関連項目サン・ドニ

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世界大百科事典(旧版)内のサンドニ修道院の言及

【ゴシック美術】より

…ゴシック美術はまず第1に都市の司教の大聖堂(カテドラル)であり,教区教会堂であり,都市世俗建築であり,後期ゴシック美術にいたってはさらにこのことは著しい。都市の住民・ギルドが聖職者・王侯とならんで,この芸術の有力な支持者であったし,国王はしばしば都市確立を助成し,またベネディクト会のサン・ドニ修道院(パリ北郊)院長シュジェールSuger(1080ころ‐1151)はよく民意を迎えた。また,この芸術に新しい推進力を与えたフランシスコ会,ドミニコ会が都市的性格の托鉢修道会であったことも忘れてはならない。…

【最後の審判】より

…また,らっぱを吹く天使,簡単な地獄の表現が加わる。 12世紀初めに刻まれたオータンやコンクなどのフランスのロマネスク教会堂の大彫刻も,上述のゲルマン的図像の基本に従い,構図を複雑にし,怪奇な要素を加えて,神秘化につとめるが,パリ郊外のサン・ドニ修道院教会の正面彫刻(1140)において〈最後の審判〉はふたたび明確な段階的配置に復帰し,これがその後,シャルトル,パリ,アミアン,ブールジュなどゴシック大聖堂正面中央のタンパンに刻まれる〈最後の審判〉図像の先駆をなした。審判者キリストは胸と手のひらの傷あとを示して座し,かたわらに天使たちが十字架のみならず,棘(いばら)の冠,はりつけの槍,釘を示し,さらに聖母と福音記者ヨハネが審判者に慈悲を祈る。…

【シナゴーグ】より

…その姿は,ユダヤ教会(旧約聖書)はキリスト教会(新約聖書)によって凌駕されるべきである,との考えを表したものである。こうした考えは,パリ郊外サン・ドニ修道院内陣のステンド・グラス(1144)の中で最初に明らかにされた。ここでは,中央にキリストが立ち,キリストは右側にいるエクレシアに冠をさずけ,左側にいるシナゴーグのベールをとっている。…

【ステンド・グラス】より

…ロマネスク教会堂の窓は通常なお小さく,円形や矩形の枠で仕切られ,ステンド・グラスの色彩は鮮明な青を地色とし,赤との対比に特徴を示す。12世紀のステンド・グラス芸術の中心地は,パリ郊外サン・ドニ修道院であった。修道院長シュジェールSugerのもとで1144年に完成された同修道院内陣では,はじめて壁面が大々的に窓に開放され,そこにステンド・グラスがはめられた。…

※「サンドニ修道院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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