フランスの王朝。987年,ルイ5世の死によって西フランクにおけるカロリング家の血統が絶え,フランス公のロベール家からユーグ・カペーが選立されて王位についたのに始まる。以後シャルル4世がカペー家直系の男子相続人なしに死亡する1328年までフランスに君臨した王朝で,この王朝の誕生とともにフランス国家の歴史が始まった。
カペー家les Capétiensはその登極以前に,ライン地方から移ってきた北フランスの豪族ロベール・ル・フォールRobert le Fort(?-866)を始祖とするロベール家の前史をもつ。2代目のパリ伯ウードEude(s)はノルマン人と戦ってパリを防衛し,西フランクの王位につく。ウードの治世(888-898)はカロリング王権の衰退と領邦(プランシポーテprincipauté)の成立という二重の意味で,新時代の開幕を告げるものであった。その後987年に至る1世紀間,カロリング家とロベール家の王位を巡る抗争が続き,この時期にフランスにおける王権と国制は一貫して解体の方向をたどる。領邦の独立,次いでその内部における城主領(シャテルニーchâtellenie)の分立という分権化の過程がそれである。それ自体一つの領邦権力にすぎなかったカペー王権が現実に支配しえた地域は,パリとその周辺部,およびオルレアン地方のイル・ド・フランスという限られた地域にすぎなかった。しかしその所領は,カロリング朝のもろい分散した王領地とは異なり,フランスの政治地図の中枢部に凝集しているという利点があった。
初期カペー家の権力基盤としては,ロベール家伝来のこの王領のほかに,カロリング家から継承した二つの政治的遺産があった。一つは教会による王権の聖別で,それは国王の人格に特殊な神秘性をあたえるとともに,教会に対する国王特権としても機能した。いま一つは諸侯,貴族の国王に対する封建的な忠誠義務であるが,血統に由来する正統性を主張できない初期のカペー王権としては,この点ではせいぜい道徳的な臣従礼を要求できたにとどまる。ただ歴代国王は男子に恵まれたこともあって,在世中に王子を諸侯に選立させて共同王位につけ,事実上の世襲化をはかり,徐々にカペー朝の合法性をつくりあげ,フィリップ2世の時代には名実ともに世襲王制を確立することに成功した。
ルイ6世(肥満王,在位1108-37)は,王権理念を最初に意識した国王で,カペー家直轄領の内部または周辺部に割拠する城主たちを国王の直臣層として掌握し,権力の真空地帯を埋めるとともに,王領の管理,行政を固めていった。この政策は次のルイ7世の治世(1137-80)にひき継がれ,直轄領の増大,集中化がすすんだ。この時期に注目されるのは,〈ロリスの慣習法〉のような特許状が国王の代官(プレボprévôt)が管轄する開墾系の新村や市場村落を中心に普及したこと,ノアイヨン,ラン,ソアソン,ボーベなど国王が高権を行使できた司教都市のコミューンが認可されたことである。開墾,植民による耕地の拡大,新集落の増加,都市コミューンの平和運動など,12世紀フランスの社会的エネルギーは,王権による地方共同体の組織化として結実していった。
ルイ7世はアキテーヌ公領の女相続人である王妃アリエノール・ダキテーヌと離婚(1152)し,アリエノールがノルマンディー公,アンジュー伯を兼ね,プランタジネット朝の創始者となるイギリス国王ヘンリー2世(在位1154-89)と再婚したため,西フランスの広大な領域がイギリス国王の支配下に入るという危機的状況が生まれた。ルイ7世の子フィリップ2世(尊厳王,在位1180-1223)は,フランス領に関するかぎり,いかなる君主もカペー家の家臣であるとし,家臣としての誠実義務違反を根拠として〈奪封宣言〉という挙に出た。こうして彼はノルマンディー,アンジュー,メーヌ,ポアトゥーの諸地方をジョン欠地王から奪還し,さらにアルビジョア十字軍をおこして,南フランスの王領化と南北フランスの統一を促進した。彼は都市コミューンに対しても積極政策をとり,プランタジネット家やフランドル伯など王権に敵対的な諸侯領の都市に王権を浸透させることにより,ブービーヌの戦(1214)を有利に導いた。
王領拡大と権力集中の政策は領邦権力を風化させ,ルイ9世(聖王)の治世(1226-70)には,封建的主従関係が国王を頂点に一元的に整序された〈封建王政〉が典型的に実現した。地方行政における〈バイイbailli〉や〈セネシャルsénéchal〉といった有給官僚はフィリップ2世の治下に出現しているが,ルイ9世の時代には高等法院(パルルマン)が会計院とともに国王会議(クリア・レギス)から分離した。敬虔な信仰に生きた有徳のルイ9世の治世は,内治・外交とも正義と平和の精神に貫かれ,西ヨーロッパの諸王は彼に紛争の調停を依頼するほど,国際的にも王権の威信は高まった。
フィリップ4世(端麗王)の治世(1285-1314)には,王国慣習法(基本法)の形成,国王評議会と三部会の組織化など,支配の客観化がすすみ,下級貴族や市民出身のレジスト(法曹家)を支柱とするような政策に転換する。教皇ボニファティウス8世との抗争に際して初めて全国三部会を召集し,教皇をアナーニに急襲(1303)し,教皇座をアビニョンに移し(教皇のバビロン捕囚,1309-77),ガリカニスム(国家教会主義)の端緒をつくったり,国内のテンプル騎士団を解散(1312)して,その所領・財産を没収して王国財政の強化をはかったのも,彼の現実主義的な政策のあらわれといえよう。
フィリップ4世の3人の男子(ルイ10世,フィリップ5世,シャルル4世)はいずれも世継ぎの男子がなく,1328年,シャルル4世の死とともに直系カペー朝は断絶。フィリップ4世の甥にあたるフィリップ・ド・バロア(フィリップ6世)が王位について,バロア朝をひらいた。
執筆者:井上 泰男
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987年に王位についたユーグ・カペー以来、1328年に男子相続人なしに死亡したシャルル4世まで、フランスに君臨した王朝。この王朝の前身は北フランスの豪族ロベール・ル・フォールを始祖とし、ほぼ1世紀にわたって西フランク王位をカロリング家と争ったロベール家。カペー朝成立当時、フランスにおける国家権力は一貫して解体の方向をたどり、領邦やシャテルニー(城主支配領)が分立する封建化の過程が進行した。初期カペー家の領土は、パリ地方とオルレアン地方に局限されていたが、フランスの政治的枢軸を押さえていただけに、他の大諸侯に比べて地の利があった。また血統に由来する王権の正統性を主張できなかったので、もっぱら教会による聖別に正統性の証(あかし)を求め、諸侯の忠誠を確保しようと図った。しかし、この点では、歴代国王が男子に恵まれ、王位の世襲化に成功したことが評価される。
カペー家の直轄支配領の増大と集中化が進むのは、ルイ6世とルイ7世のときで、新村の開発、市場の設定、都市化の促進がみられる。次のフィリップ2世の時代には、前代にプランタジネット家の領有に帰していた西フランスの諸地方(ノルマンディー、アンジュー、メーヌ、ポアトゥー)の奪回、アルビジョア十字軍による南フランスの王領化、大諸侯領の都市コミューヌへの王権の浸透などが注目される。封建制と王政とを一体化した「封建王政」の確立はルイ9世の治世で、地方行政における有給官僚(バイイやセネシャル)の組織が整い、最高法院や会計院が国王会議から分離、独立する。フィリップ4世の治世ともなると、前代の正義と平和の理想主義的な政治理念よりも、支配の客観化(王国基本法、国王評議会と三部会)の進展とともに、現実主義的政策が表面化する。ローマ教皇のアビニョン移住(1309)、テンプル騎士団の解散(1312)などは、そうした政策の現れである。
[井上泰男]
987~1328
中世フランスの王朝。ユグ・カペーとともに始まり,初め権威のみの脆弱な王権であったが,ルイ6世(在位1108~37)による王権の理念的覚醒をへて,12世紀末より王領内権力集中,貴族権力打破を開始(フィリップ2世,ルイ9世),14世紀(フィリップ4世)より,行政機構の整備とともに事実上最初の国家統一を実現,絶対王政を準備した。
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…【田辺 裕】
【歴史】
いまここでその歴史を扱おうとする〈フランス〉なる存在は,最初から一つにまとまった国であったのでもなければ,単一の文化を構成していたのでもない。フランスという名称がフランク族に由来し,領域名としては9世紀のカロリング朝の分割から生まれた西フランクFrancia occidentalisに発するとはいえ,カペー朝の国王がフランク人の王Roi des Francsからフランスの王Roi de Franceと称するようになったのは,13世紀初めのことにすぎなかった。〈フランス〉なるものは,その国家も社会も文化も,長い歴史を通じて,多種多様な要素の衝突,交錯,融合のなかから,徐々に形づくられてきたのであった。…
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