サーダート(その他表記)Anwar al-Sādāt

改訂新版 世界大百科事典 「サーダート」の意味・わかりやすい解説

サーダート
Anwar al-Sādāt
生没年:1918-81

エジプト政治家。日本では一般にサダトと呼ばれている。イギリス駐留軍医療部隊のエジプト人雇員と黒人解放奴隷の娘との間に生まれた。庶民に開放された士官学校を1938年に卒業,通信将校となる。第2次世界大戦下,ムスリム同胞団に接近し,またアジーズ・アリー・アルミスリー将軍と結ぶ軍隊内秘密グループとも協力しつつ,宮廷勢力と深く連係する地下活動に従事した。ドイツ人スパイとの接触のかどで42-44年投獄され,戦後は政界指導者暗殺事件で48年裁判にかけられたが,放免。50年軍籍を回復,その後ナーセルの協力者となり自由将校団参加,52年7月の同将校団クーデタ後は,政府機関誌編集長,国民連合書記長,国会議長等を歴任,ナーセルに密着しつつその社会主義化政策を制約する役割を演じた。70年ナーセルの死にともない大統領就任,71年権力内左派を排除,72年ソ連軍事顧問団に引揚げを要求,73年アメリカ主導の和平計画に沿う限定戦争としての十月戦争(第4次中東戦争)でイスラエル軍を破った。〈渡河の英雄〉〈現代のファラオ〉という声望を得,ナーセル批判,経済の対外〈開放〉,親米政策を推進した。77年エルサレム訪問を敢行,78年のキャンプ・デービッド合意に基づき,79年エジプト・イスラエル平和条約を成立させたが,81年あらゆる批判勢力への強硬な弾圧のさなか,十月戦争記念軍事パレード観閲中にイスラム急進グループの〈ジハード〉団により殺害された。死後夫人,弟など一族,閨族,取巻きの腐敗・汚職が摘発された。
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百科事典マイペディア 「サーダート」の意味・わかりやすい解説

サーダート

エジプトの軍人,政治家。1952年のエジプト革命に自由将校団の幹部として参加。1959年国民議会議長,1964年副大統領となり,1970年ナーセル急死後,大統領に就任。親西欧路線に立ち,キャンプ・デービッド合意に基づき1979年イスラエルとの平和条約に調印。1981年暗殺された。1978年ノーベル平和賞。
→関連項目エジプトムバーラク

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世界大百科事典(旧版)内のサーダートの言及

【エジプト】より

…このような意味で,エジプト政治の展開過程は発展途上国の典型的事例を成している。 ナーセル時代(1954‐70),サーダート時代(1970‐81)を通して革命政権が採り続けた国内政治の体制は,〈単一政党制〉である。自由将校団のメンバーを中核とし,少数の影響力のある軍将校とテクノクラートがそれに加わって指導部が形成され,ここに排他的に政策決定権が集中する。…

【エルサレム】より

…69年オーストラリア人の放火によるアクサー・モスクの火災はムスリム世界を動揺させ,イスラム諸国会議成立の契機となった。77年エジプト大統領サーダートのエルサレム訪問とアクサー・モスクでの礼拝参加とともに開始されたエジプト・イスラエル間の和平交渉は,80年イスラエル国会によるエルサレム基本法(統一された同市をイスラエルの永久の首都と宣言)の可決へとつながり,これに対抗してサウジアラビアは,81年,エルサレムをパレスティナの首都とする要求を含んだ8項目提案を行うなど,混迷はいっそう深まり,エルサレム問題は,パレスティナ問題の解決をはばむ最も困難な課題として残されている。エルサレムの歴史が暗示する〈聖〉なる性格と〈平和〉ならしめる力とは,依然として人類の危機とそしてまたそれからの出口とを象徴しているともいえよう。…

【中東戦争】より

…この消耗戦争は70年8月,エジプト,ヨルダン,イスラエル3国がロジャーズ米国務長官の提案を受け入れ,終息した。エジプトではヨルダン内戦の収拾にあたったナーセルが急死したあと,サーダート新大統領が就任し,シリアでも穏健なアサドが大統領の地位に就いた。70年代に入ると,石油,パレスティナ,イスラムなどアラブ世界をめぐる諸問題が国際政治にひんぱんに登場するようになった。…

※「サーダート」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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