ザンクトガレン修道院(読み)ザンクトガレンシュウドウイン

デジタル大辞泉 「ザンクトガレン修道院」の意味・読み・例文・類語

ザンクトガレン‐しゅうどういん〔‐シウダウヰン〕【ザンクトガレン修道院】

Klosters Sankt Gallenスイス北部、ボーデン湖の南にある修道院。8世紀の創建で、10世紀以降はベネディクト修道会の神学研究の中心地となった。現在のバロック様式の聖堂は1766年に再建されたもの。また、ロココ様式の装飾が施された付属図書館は、中世写本を含む約16万冊を蔵する。1983年、「ザンクトガレンの修道院」として世界遺産文化遺産)に登録された。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「ザンクトガレン修道院」の意味・わかりやすい解説

ザンクト・ガレン修道院 (ザンクトガレンしゅうどういん)

アイルランド出身の伝道者コルンバヌスに同行したガルスGallus(?-627)が,613年スイス山中(現,ザンクト・ガレンの地)に建設した僧房に始まる。720年アラマン人オトマールOtmar(689ころ-759)がこれを修道院として確立し,まもなくベネディクト会に転換した。759年コンスタンツ司教権に従属するが,816年国王よりインムニテート特権を与えられて自立し,帝国修道院となった。このころから修道院諸施設の建築が始まるが,その際に参考とされ,現在も同修道院図書館に保存されている〈修道院平面図〉は,近隣のライヘナウ修道院が作成して送ってきたものと思われ,中世修道院建築の理想像を伝えている(〈修道院〉の項[修道院建築]を参照)。

 図書館・学校を中心とする学問・教育活動は著しく,写本画,手工芸品,教会音楽など芸術面での功績も大きい。とくに10世紀には,学問の領域で他をはるかにしのいだ。他の修道院や教会とは盛んに祈禱兄弟盟約を結び,またその名声のゆえに,俗人の中にもこの修道院に救霊の祈禱を求める者が多かった。これら祈禱兄弟の記録を残す修道院は少なく,それだけにここの《祈禱兄弟盟約者名簿》はライヘナウ,ルミルモン両修道院のものと並んで貴重である。こうした繁栄を支えるのが王・貴族その他から寄進された所領である。それは一時は約4000フーフェに達し,ライン川上流アルザス地方にまで散在した。11世紀までに作成された諸典礼書,歴史書その他の作品,上記修道院平面図,そしてとりわけ寄進証書,これらは中世史研究のために豊富な資料を提供する。図書館蔵書の保存状態は最良で,ほとんどのものが現存している。11世紀末以降は世俗化が激しく,13世紀から帝国諸侯として領国を拡大し,1451年スイス永久同盟に参加した。ただし帝国諸侯の地位と神聖ローマ皇帝ハプスブルク家との関係は維持され,後にオーストリアのバロック文化はザンクト・ガレンを経てスイスに導入される。1798年フランス革命軍によって世俗化され,1805年廃止される。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ザンクトガレン修道院」の意味・わかりやすい解説

ザンクト・ガレン修道院
ざんくとがれんしゅうどういん

スイス北東部、コンスタンス(ボーデン)湖に近い都市ザンクト・ガレンSankt Gallenにあったベネディクト会の修道院。612年アイルランドの隠修士ガルスGallus(550ころ―627)によって開かれたのでこの名がある。8世紀前半、ドイツのオトマールがベネディクトの会則を採用して以来隆盛をみ、多くの文人、学者を輩出して、8~11世紀にかけて中世ヨーロッパの文化の中心的存在であった。とくに8~9世紀ごろの写本の蒐集(しゅうしゅう)および制作は名高く、修道院の付属図書館(現存)にはニーベルンゲン写本などがある。なかでも9世紀に大修道院長ゴツベルトのもとで制作された羊皮紙の修道院平面図は、各種工房、製粉所、学堂、病舎などを含み、中世修道院建築の典型を示すと同時に、他の古記録とともに、中世修道院の経営実態を物語る重要な資料となっている。また当時、これに基づいて壮大なカロリング風バシリカが建設されている。のち聖職叙任権闘争で衰え、16世紀にはプロテスタントの勢力下に入って、1806年修道院は閉鎖された。現在の建築は一部を除き、18世紀に改築されたものである。1983年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。

[鶴岡賀雄]


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ザンクトガレン修道院」の意味・わかりやすい解説

ザンクト・ガレン修道院
ザンクト・ガレンしゅうどういん
Kloster Sankt Gallen; Saint-Gall

スイス北東部の町ザンクトガレンの修道院。 612年アイルランドより布教に来た聖ゴール (ザンクトガレン) が,隠住した場所に 719年に建立された大規模なベネディクト会の修道院。カロリング朝,オットー朝を通じヨーロッパ文化の中心地であり,特に修道院内のスクリプトリウムからはすぐれた装飾写本が制作された。現在その図書館にはアイルランドのケルト系写本をはじめ,フランコ・ノルマン様式の8~9世紀写本が数多く保存されている。また9~10世紀には美しい象牙細工も多く制作され,それらは写本内に描かれているミニアチュールとともに初期中世美術の重要な遺品となっている。修道院は 830年に再建されているが,これとは別に,816年作成の理想の修道院の姿を描いた平面図が現在も残っていて,完全な自給自足型の大規模なカロリング朝修道院の理想形を示している。また現在の建物は 18世紀に J.ミハエルと F.ベーアによって改築されたもので,バロック様式を示している。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディア 「ザンクトガレン修道院」の意味・わかりやすい解説

ザンクト・ガレン修道院【ザンクトガレンしゅうどういん】

スイスのザンクト・ガレンSankt Gallenにある元ベネディクト派修道院。720年オトマールがアイルランドの修道士ガルスの庵跡に創設した。816年帝国修道院となって広大な領地を有するに至り,学校や図書館を設けて9―11世紀に最盛期を迎えた。古写本が多く伝存し,9世紀の同修道院の〈平面図〉は建築史の重要資料。また教会音楽の中心としても栄え,古楽譜が多数伝わっている。1805年修道院としては廃止。1983年世界文化遺産に登録。
→関連項目ザンクト・ガレン

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「ザンクトガレン修道院」の解説

ザンクト・ガレン修道院(ザンクト・ガレンしゅうどういん)
Sankt Gallen

スイス北東部の修道院。ベネディクト修道会に属し,8世紀初めにはすでに存在していた。広大な所領の寄進を得,10~12世紀間に図書館,学校を設立し,特に写本作製などで著名であったが,1805年に廃止された。ユネスコの世界文化遺産に指定されている。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のザンクトガレン修道院の言及

【カロリング朝美術】より

…また聖遺物崇拝が盛んになったため,それを納める祭室下部のクリプタ(地下祭室)は大規模なものに発展した。ザンクト・ガレン修道院には9世紀初頭に書かれた修道院配置設計図が残されており,修道院建築の一典型を示すものとして貴重な資料である。
[絵画]
 壁画で残存するものは少ないが,西チロル地方に数例が集中している。…

【修道院】より

…アイルランドの修道院は東方から伝えられた文化遺産をたいせつに保存し,〈学者の島〉と賞賛されるとともに,その修道士たちは6世紀末からガリアにリュクスイーユを初めとする多数の修道院を建設した。スイスの有名なザンクト・ガレン修道院もその一つであるが,アルプス以北では一時このケルト系修道院が一世を風靡(ふうび)した。しかし学問を愛した修道士は彼らだけではない。…

【ドイツ演劇】より


[中世]
 他の西欧諸国と同様に,今日につながるドイツ演劇の起源は中世の宗教劇までさかのぼることができる。宗教劇は教会の典礼から発したといわれているが,教会音楽の発祥地とされるザンクト・ガレン修道院は宗教劇の発展にも大きな役割を演じた。10世紀の中ごろにすでに行われていた交誦歌,続唱は,劇的な対話に発展する基礎となり,復活祭の祭儀から,キリストの受難と復活前後の事件を扱う復活祭劇が,また降誕祭の儀式から降誕祭劇が発達した。…

※「ザンクトガレン修道院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android