ロシアの哲学者。フランス語の著書ではLeo Chestovと署名した。本名シュバルツマンLev Isaakovich Shvartsman。キエフのユダヤ人繊維企業主の家庭に生まれる。モスクワ大学法学部卒業後,キエフで家業を助けつつ文筆に携わり,しばしば外国へ赴く。初期の著作に《トルストイとニーチェの教義における善》(1900),《ドストエフスキーとニーチェ,悲劇の哲学》(1901),《無根の神化》(1905)などがある。〈人は常に世界を自ら贋造することなしには生きられない〉というニーチェ直系の認識に立ち,世界の虚像たる理想主義が崩壊し,その背後に虚無が立ち現れる瞬間を,作家たちの生涯と著作の内に探ったもので,これらの著書を通じ,理性と道徳の羈絆(きはん)を離れたこの虚無こそが人間の生にとって真に貴く,知と善はこれを覆い隠すことしかできないと説いた。1921年フランスに定住後,西欧思想界に知られるに至り,今日では実存主義哲学創始者の一人と目される。後期の著作では主として古今の哲学が扱われるが,ギリシア以来の合理主義を超えた高次の神を求める彼の志向は,最後の著書の表題《アテネとエルサレム》(1938)が如実に語る。ほかに《ヨブの秤(はかり)で》(1929),《キルケゴールと実存主義哲学》(1936)など。日本には1934年《悲劇の哲学》,チェーホフ論《虚無よりの創造》(1908)などが紹介されるや,左翼の運動崩壊後の広範な知識人の心をとらえ,非常な流行を見た。彼はまたレトリックに巧みな希代の文章家であり,そのために彼の読者には哲学者よりむしろ文学者が多い。
執筆者:青山 太郎
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ロシアの哲学者、文芸評論家。本名レフ・イサコビッチ・シワルツマン。キエフ(現、キーウ)のユダヤ系豪商の家に生まれ、キエフ、モスクワ、ベルリンで法律学を修める。革命後亡命してベルリンとパリに住んだ。1898年に発表した『シェークスピアとその批評家ブランデス』は大胆な独断で注目を集め、『ドストエフスキーとニーチェ(悲劇の哲学)』(1903)、チェーホフ論『虚無よりの創造』(1908)、その他の作家論・哲学者論であらゆる合理主義に対立、真理は理性を超えるとし、実存主義に通ずる絶望の哲学を展開した。これらは1890年代以降ロシアで高まってきた反写実主義の傾向に合致し、象徴派によって愛読された。亡命後も書き続け、第一次世界大戦後の世界に不安の哲学として迎えられた。日本では1934年(昭和9)に刊行された『悲劇の哲学』が発端となり、知識人の間に一時激しい流行をみた。ほかに『トルストイとニーチェの教義における善』(1900)、『ドストエフスキーとトルストイ』(1923)、『手かせをはめられたパルメニデス』(1930)、『キルケゴールと実存哲学』(1936)などがある。
[沢崎洋子]
『河上徹太郎訳『虚無よりの創造 他二篇』(角川文庫)』
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… ドストエフスキーが日本の知識層の間に広く深く浸透したのは昭和初期,プロレタリア文学運動が圧殺され,一般に知識青年が社会のうちに望ましい自己発揮の場を得られなくなっていった時代である。このとき,シェストフの《悲劇の哲学》(河上徹太郎訳,1934)が示した,絶望した理想家,自虐的反問者としてのドストエフスキーの像は,青年たちの強い共感をよんだ。小林秀雄がドストエフスキーの人物たちにもっぱら〈意識の魔〉ばかりを見たのも,彼の批評活動の出発がこの閉塞の時代であったことと無関係ではない。…
※「シェストフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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