翻訳|rhetoric
本来の意味でのレトリックとは,古代ギリシアに始まり,19世紀後半まで2000年以上,絶えることなくヨーロッパに継承されてきた〈効果的な言語表現の技術〉であった。もともとは文法学,論理学(弁証術)などと並ぶ重要な基礎教養のひとつの科目であったが,その伝統的な技術学としての形態が消滅した現代では,この用語は,言語表現の(しばしば悪い意味での)技巧や効果をあいまいにする非専門的なことばとしても用いられることが多い(たとえば,〈それは単なるレトリックにすぎない……〉などということばづかいとして)。
ギリシア語文化圏に成立して〈レトリケrhētorikē〉と呼ばれたその技術体系は,書きことばよりも話しことばを本質的な言語形態として重視する古代ギリシア的言語観に基づく,弁論家(レトルrhētōr)のための口頭弁論の技術であった。当時のいわゆる古代ギリシア的民主制にふさわしい,集会の場における,おもに評議や裁判のための説得の術である。したがって,古代的な意味でのレトリックは,今日,たいてい〈弁論術〉ないし〈雄弁術〉,〈演説法〉と訳される。古代の多くの学術と同様に,弁論術もまたギリシア文化圏からローマ文化圏へ移植され,その名称は〈オラトリアoratoria〉と訳された。以後,弁論術を表す用語としては,レトリケ(ギリシア語)とオラトリア(ラテン語)という対訳の同義語がヨーロッパへ伝えられることとなった。近代ヨーロッパ諸語においては--たとえば英語の場合をみるなら--重点が話しことばから書きことばへ移ってのちも,言語表現の技術学という意味では,もっぱらギリシア語系の〈レトリック〉という名称が用いられている。他方,ラテン語系の〈オラトリーoratory〉のほうはやがて演説,雄弁を意味する一般的なことばになった。
古代ギリシアにおける理論体系のうちで,まとまったかたちで現在残っているおもなものとしては,前4世紀のアリストテレスの《弁論術》と,作者不詳の《アレクサンドロスへの弁論術》がある。また,ローマへ移入されたのちは,前1世紀のキケロの《弁論家について》その他何点かの著作や作者不詳の《ヘレンニウスへの弁論術》,そして後1世紀のクインティリアヌスの《弁論術教程》などが,古代の理論の代表的なものとして残っている。レトリックは,次々と先行する理論を修正しながら引き継ぎ発展させるというかたちで形成されてきたので,結局,古代ギリシア・ローマ的レトリックの技術体系は,上記のうち最大の《弁論術教程》全12巻に集大成されているとみなすことができる。しかもその後,中世から近世まで,重点がしだいに説得よりは魅力的な文章作法へ移っていったとはいえ,ヨーロッパの伝統レトリックは,基本的にはクインティリアヌスの大成した《弁論術教程》の骨組みを(部分的に省略ないし増補しながら)継承しつづけることになる。その標準体系は,次の五つの技術部門から成り立っていた。
(1)発想 主題をめぐる問題点を見つけだし,それにふさわしい論証の材料や方向をさがしだす技術。(2)配置 発想によって見いだされた内容を,適切な順序に配列する技術。(3)修辞 前の2段階で整理された思想内容に,効果的な言語表現を与える技術。(4)記憶 口頭弁論のために,仕上げられた文章を記憶しておく技術(記憶術)。(5)発表 実際に公衆の前で発表するための,発声,表情,身ぶりなどの技術。
ルネサンス期以降,印刷術の一般化とともに人々のレトリックへの期待がしだいに書きことばへ移行するにつれ,自然に第4・第5部門は省略されるようになった。また,第1・第2部門もむしろ弁証術(のちの論理学)へ譲られる場合が多くなる。したがって,近代の多くのレトリックの体系は第3部門(狭義の修辞)のみに縮約され,その代りにこの修辞部門をきわめて精巧にした形式が多くなっていった。現代において,レトリックがしばしば〈効果的な文章の技巧〉という狭い意味に理解されがちなのは,この,近世に多くなった第3部門中心のレトリック観によるものである。
伝統的な総合レトリックが5部門を含むきわめて大きな構成をもつものだったことはとかく忘れられがちだが,また,第3部門すなわち狭義の〈修辞〉こそもっともレトリック的な問題領域だということも事実である。この部門には,いわば〈文体論〉(文体)の原型となる諸問題が含まれる。そして,多様な比喩(あるいは転義)や〈ことばのあや〉の分類理論が精密に展開されるのもこの部門である。
古代レトリックの平均的な定義は〈よく話す技術〉すなわち効果的な話し方,ということであったが,そこには当然,論証的な説得をめざす方向と魅力的な言語表現をめざす方向という,ある意味では異質な,そしてときには対立しかねない目的が内含されていたので,レトリックの性格は,その歴史を通じていつも,一方では弁証術ないし論理学,他方では詩学という両極の間で揺れ動いていた。アリストテレスは,まさに弁証術的・論理学的な諸著作と《詩学》とで両側からはさむようなかたちで《弁論術》を書いた。しかしそれ以前にプラトンは(したがってその著作に登場するソクラテスは)ソフィスト流のレトリックをはげしく非難していたし,実際その後,主流の哲学は近代に至るまで,おおむねレトリックを嫌悪あるいは無視しつづけることになる。なぜなら,絶対的でかつ確実な真理の探求を使命とする哲学からみれば,説得をめざすレトリックはいつも真理を相対視し,確実性の求められない状況においてこそ効果を発揮するものと思われたからである。
また,16世紀のP.ラムスのように,レトリックのなかから真理と説得にかかわる部門(とくに第1・第2部門)を切り離してそれを弁証術(論理学)の領域へ移すことを主張する哲学者もいた。ラムスの影響もあって,ルネサンス以降,レトリックは〈発想〉と〈配置〉部門を切り捨てて哲学からの非難をかわし,前述のように第3部門〈修辞〉に重点を置くことによってもっぱら魅力的な言語表現に関心を集中する場合が多くなった。他方,近代の科学的言語研究の精神は,伝統レトリックの規範的・教則的な姿勢を否定し,やがて〈修辞〉に代わるものとして〈文体論〉を成立させることになる。
このような経過のなかにあっても中世から近代まで,レトリックはヨーロッパにおける中等教育のなかで,一般教養の仕上げの役割を果たす重要な科目であった。しかし近代の合理主義的ないし実証主義的な思潮は,実質的な思想内容に比べて言語表現の形式的精製は重要ではない,といういわば内容主義の言語観に基づき,レトリックを旧式な無用の学科とみなす。そして19世紀末,ヨーロッパの教育制度からも正式に除外され,伝統的レトリックは消滅した。
すでに16世紀末ごろからキリスト教の宣教師を通じて,レトリックという技術学の存在は日本へも伝えられていたようである。しかし,本格的に西洋のレトリック理論が一般に紹介されはじめたのは,明治時代に入ってからと思われる。尾崎行雄《公会演説法》,菊池大麓訳《修辞及美文》,黒岩大(涙香)《雄弁美辞法》など,明治10年代に始まる理論的なレトリックの紹介・導入ののち,やがて高田早苗,坪内逍遥,島村抱月など多くの人々がレトリックの理論的著作を発表し,明治の末ごろには五十嵐力《新文章講話》という,いわばひとつの完成されたかたちの業績が現れる。しかし大正時代に入ってからは,欧米と歩調を合わせ,短期間の日本のレトリック研究もしだいに消えていった。
なお〈レトリック〉の訳語としては,西周(にしあまね)の〈文辞学〉,尾崎の〈華文学〉,菊池の〈修辞(学)〉,黒岩の〈美辞学〉など,さまざまの例があったが,今日では〈修辞学〉が最も広く用いられている。ただし,明治期に導入された修辞学はたいてい伝統的な総合レトリックではなく,第3部門のみを扱う狭義のレトリックであったから,結果的に,日本語としての〈修辞〉は,総合的なレトリックの全領域をさすよりも,その一部門(第3部門)をさすと考えたほうが適当であろう。
20世紀前半には,新しい意味でレトリックを再検討しようという試みは世界的にきわめてまれだったし,日本でも波多野完治の諸著作など例外的な少数の研究が発表されたのみであった。しかし1970年前後から,レトリックを見直そうという機運が諸国でわずかずつ高まってきた。そこには,レトリックの消滅を招いた内容主義の言語観(重要なのは内容であって表現形態ではない)が,一見正当にみえながら実は大きな誤解を前提としていたのではないか,という反省があった。すなわち,内容は表現を離れて抽象的に存在しうるものではなく,表現は内容を形づくる本質的な側面である,という事実への再認識が新しいレトリック研究の重要な動機となっている。さらに,言語や記号はコミュニケーションの手段であるばかりではなく,むしろ人間の文化の根拠である,という記号学的な考え方もまた無関係ではない。復活しつつある新しいレトリックは,もはや単なる技巧の問題ではなく,人間の言語・記号的認識の動態の探求をめざしている。
→詩学 →論理学
執筆者:佐藤 信夫
体系的なレトリックの伝統をもたなかった日本文学においても,〈効果的な言語表現の技巧〉としてのレトリックはきわめて高度な洗練をみた。レトリックの原初のかたちは口承言語における呪的な律文に求められよう。それは,《古事記》に記された,アマテラスとスサノオの〈うけい〉の段の叙述やオオクニヌシの国譲りの詞章などを通してうかがえるものであり,これらはやがて形式的に整えられて祝詞(のりと)として完成される。《古事記》には〈雉(きぎし)の頓使(ひたつかい)〉〈海人(あま)や,己が物によりて泣く〉などといった〈ことわざ〉もあり,文字どおり〈言(こと)の技(わざ)〉としての警句風の技巧がみられる。他方,詩的な機能をもつレトリックには口承の過程で定着した比喩句としての枕詞がある。これは踊りや所作と結びついた主として五音,七音から成る韻律のなかで発せられたことばで,意味的にあいまいなところからかえって呪的ともいえる力によって詩的な映像とイメージを喚起したのである。この枕詞を創作歌にふさわしく作り変えて自在に駆使したのが柿本人麻呂であった。人麻呂は〈連続声調〉といわれるリズムにのせて,〈大君は神にしませば〉といった一種の誇張法や〈反復〉〈対句〉などの形式美を追求し,歌を踊りや所作から分離して詩的に完成させたのである。修辞的技巧を凝らした祈年祭の祝詞や人麻呂の長歌などには漢文学のレトリックの影響もみられる。
本来,歌の基本的なレトリックは〈物に寄せて思いを陳べる〉といった,景物で〈心〉を比喩するところにあり,その効果的な表現のためにさまざまな技法が用いられた。とくに《古今集》以後,懸詞(かけことば),縁語,物名(もののな),折句(おりく),序詞,本歌取りなどの技法がいちじるしく発達し,さらに歌語(詩語),歌枕が成立して特定の地名とそこの景物を詠み,それと縁のあることばを重ねて一首を作る技巧が流行した。こうして一つ一つの歌語に思い入れされた〈情〉やイメージを連ねてことばによる美的世界を創造する和歌の伝統ができ上がる。《白氏文集》や三代集や《源氏物語》の文章から辞句や意味を引く〈引喩〉によって,古典を媒介とした虚構の美に陶酔したのである。とりわけこうした技巧の極致ともいうべき藤原定家の歌は〈風ふけて〉〈心の奥〉〈春の古里〉といった新奇な詞づかいと技法によってことばに魔性が加わり達磨歌(だるまうた)と称された。
一方,散文においては,文字のなかった和語を漢字で表記するというそもそもの出発点からして,表現上のくふうを必要とした。《古事記》は〈語り〉のことばを,その口調を生かしたまま漢字で表現するという課題を担っていたのである。その意味で太安麻呂によってくふうされた〈音訓交用〉の表記法は,単に文体の問題としてのみならず,ジャンルや様式と不可分に結合されたレトリックの方法としても再評価されなくてはならない。この後,大陸文化の強い影響下で,官人貴族である知識人たちは漢詩文を自在に創作するようになり,それらの成果はいくつかの勅撰詩集やとくに11世紀中ごろに成立した《本朝文粋》に収められている。後者の撰者であり,平安中期の代表的な知識人である藤原明衡はわいせつな戯文〈鉄槌伝〉の作者に比定されている。さらに彼は《新猿楽記》において〈猿楽〉という烏滸(おこ)な芸能と古代末期の社会層を,四六駢儷体系の装飾的な美文の中に多様な俗語を取り込んだ記録体的な変体漢文によって表現した。古代から中世にかけての躍動的な現実と新しい経験を的確に表現する,こうした簡潔で生々とした漢文的レトリックは和語の表現にも新しい技法をもたらした。時代はやや前後するが,李義山の雑纂や十列形式の発想によった《枕草子》は,女流仮名文の情に流された文体とは正反対に,簡潔で技巧を凝らした文体で描かれ,また《史記》をはじめ漢詩,故事をふまえた数多くの修辞によって,仮名文と和歌と漢詩文的世界が混然一体となった作品が《源氏物語》であった。
和文脈のレトリックは〈語り〉の形式を媒介としながら《平家物語》に受け継がれ,やがて謡曲において集大成される。謡曲は物語,和歌,民間伝承,歌論書に記されたさまざまな説話などを典拠として,歌謡の声調,律文,散文さらに仏教世界で独自の発達をとげたレトリックである問答形式を巧みに組み合わせて修辞の粋を尽くしたのである。しかし,謡曲による修辞の完成は同時に,中世の和文脈が,伝統的な美意識や無常感に支配される詠嘆的な抒情に流されて,現実を表現する方法を失いはじめたことをも意味していたといえよう。こうして装飾過剰な和歌的〈雅語〉ではとらえきれない俗世間のありさまを,それに即して表現するためのレトリックが必要となったが,近世のいわゆる元禄文学は新しいレトリックの画期をなすものであった。〈松のことは松に習へ〉という芭蕉のことばは新しいレトリックへの強烈な方法意識に基づくものであり,瞬間的な〈停止〉や〈屈折〉をばねとしたリズムによって旧来の七五調の語りを脱した近松門左衛門の浄瑠璃の技法や,〈飛躍〉と〈断絶〉を内包するダイナミックな俳諧的な散文によって俗の世界に表現形式を与えた西鶴のレトリックが生み出されたのである。さらに天明期前後の江戸中期になると,世態人情を世俗の内側から表現する黄表紙,洒落本,狂歌,川柳などの戯作文学が出現する。これらに共通する技法は古典故事の〈もじり〉(パロディ)であり,硬直化した権威や秩序の滑稽化と茶化しであった。さらに見立てや地口や語呂合せなどのあらゆる表現技巧をこなして軽妙で奇抜な効果を意図したのである。とくに〈うがち〉と呼ばれるレトリックは平凡さのなかに隠されている真実を発見したり,ありふれたことがらを斬新な角度から再発見していく方法であった。こうした意味において,すぐれた戯作文学には,俗に徹することによって逆に内側から凡俗を否定するレトリカルな精神がみられたのである。
執筆者:武藤 武美
中国に初めてヨーロッパでいうレトリックを紹介したのは,明代に中国に来たイタリア人の宣教師アレーニGiulio Aleni,中国名を艾儒略と名のる人物による《西学凡》(1623成立)であるが,そこにおいてレトリックを〈文科〉と訳して解説した。しかしながら話すように書くというヨーロッパのレトリックの考え方は,1917年に始まった〈文学革命〉のよびかけがなされるまでは,中国には定着しなかった。18年に魯迅の《狂人日記》が出現して以降,中国の白話文学(口語文学)が盛んになるのであるが,それまでの中国の古典文学は,話すことと書くこととの間に大きな距離があり,話しことばとは別の次元において,人工的に凝縮した,含蓄ある文にしたてるということに,格別の苦心がはらわれ続けてきた。そして,その方向において中国独自の修辞論がいろいろと展開されていった。
中国の修辞論の最初のものとしては,漢代の《毛詩》の序があり,詩における比喩のあり方として〈賦〉〈比〉〈興〉ということを説く。続いては,魏の曹丕(そうひ)(文帝)の《典論》のなかの〈論文〉や,晋の陸機の〈文賦〉(ともに《文選》に収められている)などが現れて,文学論にあわせて修辞の論に及ぶ。曹丕は,文学においてたいせつなものは〈気〉であると説き,陸機は,〈一篇の警策〉になることばをくふうすることがたいせつだと説いた。六朝文学を背景にして,修辞論を集大成したものが,6世紀に作られた梁の劉勰(りゆうきよう)の《文心雕竜(ちようりよう)》である。《文心雕竜》は50篇から成るが,その後半の神思篇から以降の諸篇において,さまざまの角度から修辞論を展開し,六朝時代の修辞の考え方を集大成する。その後は,世界において最も完備した詩形式である律詩の誕生にともない,詩のあり方についての修辞論が盛んになるとともに,中唐の韓愈,柳宗元を中心にして,いわゆる〈古文〉の修辞論がいろいろと示された。これらを通して,中国の古典文学の修辞論が確立されていくのである。
執筆者:鈴木 修次
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