デジタル大辞泉
「河上徹太郎」の意味・読み・例文・類語
かわかみ‐てつたろう〔かはかみテツタラウ〕【河上徹太郎】
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かわかみ‐てつたろう【河上徹太郎】
- 評論家。長崎県出身。昭和一〇年代、雑誌「文学界」で小林秀雄らと一緒に活動。フランス文学の理解に基づく評論で、日本における近代文芸批評の先駆となった。著「自然と純粋」「日本のアウト‐サイダー」など。明治三五~昭和五五年(一九〇二‐八〇)
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河上 徹太郎
カワカミ テツタロウ
昭和期の文芸評論家
- 生年
- 明治35(1902)年1月8日
- 没年
- 昭和55(1980)年9月22日
- 出生地
- 長崎県長崎市
- 出身地
- 山口県岩国市岩国(本籍)
- 学歴〔年〕
- 東京帝国大学経済学部〔大正15年〕卒
- 主な受賞名〔年〕
- 文学界賞〔昭和12年〕,読売文学賞(第5回・文芸評論賞)〔昭和28年〕「私の詩と真実」,サンケイ児童出版文化賞〔昭和32年〕,新潮社文学賞(第6回)〔昭和34年〕「日本のアウトサイダー」,日本芸術院賞(第17回・文芸部門)〔昭和35年〕,野間文芸賞(第21回)〔昭和43年〕「吉田松陰」,日本文学大賞(第3回)〔昭和46年〕「有愁日記」,文化功労者(第24回)〔昭和47年〕,岩国市名誉市民
- 経歴
- 河上家は代々岩国の吉川藩の藩士の家柄で、その分家からは河上肇らが輩出している。東大在学中に小林秀雄と文芸評論を書き、昭和4年中原中也、大岡昇平らと同人雑誌「白痴群」を刊行。小林秀雄と並行して文壇に登場、7年「自然と純粋」、9年「思想の秋」を刊行。11年「文学界」同人。終戦直後の20年には、日本人の得た自由を「配給された自由」と批判して物議をかもした。その後、近代日本の思想家や文学者の歩みを論じた「日本のアウトサイダー」「吉田松陰」などのほか、エッセイ「有愁日記」「西欧暮色」「近代史幻想」「歴史の跫音」、自伝「私の詩と真実」や音楽評論「ドン・ジョヴァンニ」などでも活躍。37年芸術院会員に推され、47年文化功労者。「河上徹太郎全集」(全8巻 勁草書房)、「河上徹太郎著作集」(全7巻 新潮社)がある。平成2年岩国市で顕彰会が発足。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
河上徹太郎 (かわかみてつたろう)
生没年:1902-80(明治35-昭和55)
昭和期の文芸評論家。長崎市生れ。東大経済学部卒。早くから小林秀雄,中原中也らと交遊,《山繭》《白痴群》に音楽論,ついで文学論を発表した。1932年《自然と純粋》を刊行してフランス象徴主義の影響下に純粋自我という批評原理を確立し,小林秀雄とならぶ近代批評の先駆者となる。シェストフ的不安の流行のきっかけとなったシェストフ《悲劇の哲学》の翻訳(1934,阿部六郎と共訳),ジッドの紹介や,《近代の超克》座談会の主催などの間に《文学界》の編集に尽力した。戦後,《私の詩と真実》(1954)で美と信仰の内的一致を示した後,《日本のアウトサイダー》(1959),《吉田松陰》(1968)で正統への反逆者の精神を追求した。晩年は史伝に関心を寄せ,《有愁日記》(1970),《歴史の跫音(あしおと)》(1977)を刊行した。
執筆者:高橋 英夫
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河上徹太郎
かわかみてつたろう
[生]1902.1.8. 長崎
[没]1980.9.22. 東京
評論家。 1926年東京大学経済学部卒業。在学中に小林秀雄を知り,雑誌『山繭』に『音楽と自然』 (1925) を発表。ドイツ観念論とフランス象徴派の影響を受けた純粋芸術の理論を展開,『ヴェルレーヌの愛国詩』 (29) ,『自然と純粋』 (32) などで文壇に認められた。並行して多くの音楽評論を書き,『楽壇解消論』 (33) で物議をかもし,また L.シェストフの『悲劇の哲学』を阿部六郎と共訳 (34) して「シェストフ的不安」の時期を先導した。 36年『文学界』の編集責任者となり京都哲学派との座談会「近代の超克」を司会した。第2次世界大戦後も批評の筆をとり,敗戦直後の解放状況を批判した『配給された自由』 (45) ,明治以降を個性的に生きた人々を描いた『日本のアウトサイダー』 (58~59) などがある。小林秀雄とともに自我意識に根ざす近代批評の推進者である。 61年日本芸術院賞受賞,62年芸術院会員,72年文化功労者。
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河上徹太郎
かわかみてつたろう
(1902―1980)
評論家。明治35年1月18日、長崎市生まれ。東京帝国大学経済学部卒業。同人誌『山繭(やままゆ)』『白痴群』、さらに『作品』を通じて文芸評論家として登場、1932年(昭和7)第一評論集『自然と純粋』を刊行した。ベルレーヌ、ジッド、フランス文学への理解に基づいた評論、また『音楽と文化』(1938)、『ドン・ジョヴァンニ』(1951)などの音楽評論で知られた。翻訳も少なくない。昭和10年代には雑誌『文学界』にあって、小林秀雄らとともに活動。以後の代表的な著書に自伝的エッセイ『私の詩と真実』(1953)、『日本のアウトサイダー』(1958~59)、『吉田松陰』(1966~68)などがある。62年(昭和37)芸術院会員、72年文化功労者。
[保昌正夫]
『『河上徹太郎全集』全8巻(1969~72・勁草書房)』▽『『河上徹太郎著作集』全7巻(1981~82・新潮社)』
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河上徹太郎【かわかみてつたろう】
文芸評論家。山口県出身。東大経済卒。早くから小林秀雄と中原中也らと交わる。1932年評論集《自然と純粋》によって文壇に認められた。シェストフやジッドを翻訳し,文芸時評や音楽評論を書く。昭和初期のシェストフ的不安の流行のきっかけとなった。《文学界》同人。戦後に《私の詩と真実》《日本のアウトサイダー》《吉田松陰》等がある。
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河上徹太郎 かわかみ-てつたろう
1902-1980 昭和時代の評論家。
明治35年1月8日生まれ。バレリー,ジッドらフランス象徴派の影響をうける。昭和7年「自然と純粋」を刊行して評論活動を展開,小林秀雄とならんで近代批評の先駆者となった。戦後,代表作「日本のアウトサイダー」「吉田松陰」などを発表。芸術院会員。47年文化功労者。昭和55年9月22日死去。78歳。長崎県出身。東京帝大卒。著作に「ドン・ジョヴァンニ」「私の詩と真実」など。
【格言など】人は歳とともに澄んでゆくものである(「私の詩と真実」)
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河上 徹太郎 (かわかみ てつたろう)
生年月日:1902年1月8日
昭和時代の文芸評論家
1980年没
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世界大百科事典(旧版)内の河上徹太郎の言及
【フランス文学】より
… 大正末から昭和10年代半ばまで,フランス文学に対する関心はさらに拡大する。思考する人間の意識,ひいては制作する人間の意識の精密な分析を重視した象徴主義の批評精神に着目し,新しい文学批評の道を開いた小林秀雄,河上徹太郎,ジッドなどを通してつかんだ精神の自由な運動という考えを,文学の拠りどころとした石川淳,スタンダールを熟読し,第2次大戦後になってから,社会の圧力のもとでの個人の生き方を明晰に見つめる小説を書いた大岡昇平など,この時期に出発点をもつ作家は少なくない。また,《詩と詩論》など,シュルレアリスムをはじめとする同時代の文学の紹介に熱意を示す雑誌が,つぎつぎに刊行されたのもこの時期である。…
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