シャガール(読み)しゃがーる(その他表記)Marc Chagall

デジタル大辞泉 「シャガール」の意味・読み・例文・類語

シャガール(Marc Chagall)

[1887~1985]ロシア生まれのユダヤ系画家。エコール‐ド‐パリに属した。故郷への追想、ユダヤ特有の伝統への敬愛などをモチーフに、詩的に構成した幻想的画風で知られる。

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精選版 日本国語大辞典 「シャガール」の意味・読み・例文・類語

シャガール

  1. ( Marc Chagall マルク━ ) ロシア生まれの画家。一九一〇年パリに出てエコール‐ド‐パリで活躍し、第二次世界大戦後は南フランスに定住。幻想的な筆致で色調は光彩に富む。文学作品のさし絵、版画、舞台画、天井画も描いた。(一八八七‐一九八五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「シャガール」の意味・わかりやすい解説

シャガール
しゃがーる
Marc Chagall
(1887―1985)

ロシア出身のユダヤ系画家。7月7日、ロシアのビテプスク(現在はベラルーシ共和国の都市)のユダヤ人地区に生まれる。郷里の画塾で学んだのち、1907年サンクト・ペテルブルグの帝室美術奨励学校に入学。翌1908年にはレオンバクストの美術学校に入って、ヨーロッパ近代美術に関する知識を初めて得た。1910年、代議士ビナベルMax Vinaver(1863―1926)の援助でパリに出、1914年まで滞在。その間、モンパルナスの通称「ラ・リュシュ」(蜂(はち)の巣)に住み、モディリアニスーチンドローネーらを知り、さらには詩人のサンドラールアポリネール、カニュドRicciotto Canudo(1877―1923)らと親交を結んだ。また、1911年のアンデパンダン展に初出品。1914年にはベルリンのデア・シュトゥルム画廊で個展を開くためドイツを訪問、その足で故郷に戻るが、第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)によってそのままロシアにとどまる。翌1915年にはベラ・ローゼンフェルトBella Rosenfeld(1895―1944)と結婚、これはシャガールの絵の重要な霊感源となる(ベラは1944年に死亡)。1917年に十月革命が起こると、ビテプスクの地区美術委員に任命され、さらに美術学校を創設する。マレービチリシツキーを教授に招くが、やがてマレービチと意見を異にしたため、1920年には職を辞してモスクワに移り、国立ユダヤ劇場の壁画装飾などで活躍した。1922年にはベルリン、1923年にはパリに戻る。

 画商ボラールAmbroise Vollard(1866―1939)の依頼でゴーゴリの『死せる魂』の挿絵を手がけるなど、しだいにエコール・ド・パリの有力画家として注目されるとともに、その幻想的な作風はシュルレアリストから高く評価された。1941年、ニューヨーク近代美術館の招きで渡米、第二次世界大戦中はアメリカで亡命生活を送り、バレエの舞台装置や衣装を担当したりもした。1947年、フランスに永住すべくふたたびパリに戻り、1950年には南フランスのバンスに居を定める。1952年、バランチーヌ・ブロドスキーValentina Brodsky(1905―1993)と再婚。名声は世界的なものとなり、20世紀絵画を代表する巨匠として揺るぎない地位を獲得する。1966年にはバンスを去ってサン・ポール・ド・バンスに移り、1985年3月28日同地に没した。その制作活動の幅は広く、油彩、グワッシュをはじめ、版画、パリのオペラ座の天井画(1964)、エルサレムのハダッサ病院のシナゴーグステンドグラス、彫刻、陶器、舞台装飾にまで及んでいる。

 個人的でしばしば自伝的な内容、ロシアへの郷愁、ユダヤ特有の伝統や象徴に対する敬愛の念など、彼の作品の基調は初期にすでに決定していたといってよい。パリでの色彩の発見、キュビスムの影響、サンドラールやアポリネールら前衛詩人との接触は彼の芸術の新たな滋養となった。色彩や形態において自然主義的な考えに束縛されず、イメージを詩的に構成する。キュビスムの影響はやがて色彩の横溢(おういつ)する、より自由なスタイルに道を譲り、以後その幻想的、寓意(ぐうい)表現は大きな変化を被ることはない。ときにそのあまりに個人的な内容は、作品を単なる詩的な謎(なぞ)にもしかねないが、空想的表現と豊かな色彩は、見る者の心を自由に飛翔(ひしょう)させる不思議な魅力を秘めている。ニースにシャガール美術館があり、『聖書のメッセージ』の作品群(1969~1973)を収めている。

[大森達次]

『マルク・シャガール著、三輪福松・村上陽通訳『わが回想』(1965・美術出版社/朝日選書)』『竹本忠雄解説『現代世界美術全集17 シャガール』(1970・集英社)』『ヴェルナー・ハフトマン著、酒井忠康訳『シャガール』(1976・美術出版社)』

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百科事典マイペディア 「シャガール」の意味・わかりやすい解説

シャガール

フランス,エコール・ド・パリの画家。ユダヤ人を両親としてロシアに生まれ,ペテルブルグの美術学校で学んだのち,1910年パリに出た。1915年帰国し,革命後に絵画学校を開いたりしたが,1923年再びパリに戻り,1949年以来南仏で制作。1963年―1964年パリ,オペラ座の天井画を手がける。初期にはキュビスムの影響を受けたが,やがて自由奔放な対象描写とあざやかな色彩により,独特の詩的・幻想的画境に達した。故郷への追憶やさまざまな空想からくる対象の超現実的描写によりシュルレアリスムの先駆者の一人とされる。詩集の挿絵やステンド・グラスによる教会装飾も手がけている。版画を挿絵にした自伝《わが生涯》がある。
→関連項目エコール・ド・パリオペラ座ケルテス高知県立美術館スーティン銅版画ルリエ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「シャガール」の意味・わかりやすい解説

シャガール
Chagall, Marc

[生]1887.7.7. ビテブスク
[没]1985.3.28. サン・ポール・ド・バンス
ロシア出身のフランスの画家,版画家。 1907~10年,ペテルブルグで舞台装置家レオン・バクストに絵を学び,1910年パリに出て修業。 1911年以降アンデパンダン展に出品。キュビスムの技法を取り入れ,故郷の風物の追想や幻想を描いた作品で,エコール・ド・パリの画家として注目される。 1914年帰国し,革命後,美術行政の要職についたが,1923年再びパリに帰る。この頃より銅版画や石版画を手がけ,また画商ボラールの注文でニコライ・ゴーゴリの『死せる魂』,ラ・フォンテーヌの『寓話詩』などの挿絵を制作。 1941~48年ナチスのユダヤ人迫害を避けて滞米。 1948年にはベネチア・ビエンナーレで版画賞を獲得した。重力を無視した空想的空間に,追憶や幻想から得られた風景,動物,人物などを自由に構成するスタイルを特色とする。アンドレ・ブルトンはシュルレアリスムの先駆者の一人と数えたが,シャガール自身は自叙伝『わが回想』 Ma Vie (1931) で,「作品が超現実的にみえようと,ただ昔の思い出を描いただけだ」と述べ,超現実主義者であることを否定している。 1964年パリのオペラ座の天井画を描いた。 1977年レジオン・ドヌール勲章受章。

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改訂新版 世界大百科事典 「シャガール」の意味・わかりやすい解説

シャガール
Marc Chagall
生没年:1887-1985

エコール・ド・パリの画家。ロシアのビテプスクにユダヤ人として生まれ,ペテルブルグに学ぶ。1910年パリに出,アポリネール,M.ジャコブ,R.ドローネー,モディリアニら詩人,画家と知り合う。14年に帰国し,第1次大戦とロシア革命後も祖国にとどまるが,23年来再びパリに住む。第2次大戦中はアメリカに亡命,戦後は南仏で制作する。作風は初期にはキュビスムの影響を受けたが,シュルレアリスムの先駆者として,花束,ビテプスクの思い出,恋人たちなどのイメージを駆使し,愛,祝婚,戦争と平和などを豊かな色彩と奔放な幻想によって描き続けた。J.deラ・フォンテーヌの《寓話》,《ダフニスとクロエ》,聖書などの版画集や天井壁画,舞台装置の制作,自伝《わが生涯》の執筆など広範にわたる活躍が知られる。
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