日本大百科全書(ニッポニカ) 「シュレージエン」の意味・わかりやすい解説
シュレージエン
しゅれーじえん
Schlesien
ヨーロッパ東部、オドラ(オーデル)川とビスワ川上流、スデティ、カルパティア両山脈の北麓(ほくろく)地方。シュレージエンはドイツ語名で、英語名シレジアSilesia、ポーランド語名シロンスクŚląsk。古くから鉱山資源と肥沃(ひよく)な耕地に恵まれ、中世からは麻織物を中心に農村工業として繊維産業も発展していた。上部地方の一部がチェコ領であるほか、第二次世界大戦後、オーデル‐ナイセ・ライン以東はポーランド領となり、ほとんどのドイツ人は追放され、ポーランドの社会主義時代には重要な鉱工業地帯の一つであった。
[進藤牧郎]
歴史
古くからバルト海と地中海を南北に結ぶ「琥珀(こはく)の道」にあたり、交易も盛んであった。ゲルマンの民族移動後はスラブ人の住地となり、神聖ローマ帝国の圧力を受けながら、ポーランド、ボヘミア両王国の係争の地となった。12~13世紀の「東方植民」以後ドイツ人住民の数が増え、三圃(さんぽ)制農法とともに麻織物工業も普及する。ドイツの大空位時代(1254~73)にはボヘミア王国プシェミスル朝の支配下にあったが、オタカル2世がハプスブルク家のルドルフに敗れてのち、ルクセンブルク家の、ついで16世紀からハプスブルク家の支配を受け、18世紀を迎える。三十年戦争後、台頭してきたプロイセンにフリードリヒ2世が現れると、ハプスブルク家のマリア・テレジアへの継承を認める代償にシュレージエンの領有を要求、出兵し、1740年オーストリア継承戦争となり、その結果、一部を除いてプロイセンの領有となる。マリア・テレジアは奪回を図り、ロシアに加えてフランスとの同盟(「外交革命」)に成功、フリードリヒはシュレージエン確保のために軍を進め、七年戦争となり、1763年プロイセン領と確定する。ナポレオン時代にワルシャワ大公国が生まれても、また第一次世界大戦後の共和国でも、ポーランド領とはならず、ウィーン体制から第二帝政、ナチスの時代まで、ドイツ領のなかで重要な工業地帯としてドイツ資本主義・帝国主義の基盤の一つであった。第二次世界大戦後はポーランド領となり、そのもっとも重要な鉱工業地帯となる。しかし、主として石炭に依存する工業のため、社会主義体制が崩壊し、自由主義経済へと移行するに伴い、とくに大気汚染問題も顕著になり、チェコ、ドイツなど隣接地への影響も深刻化し、中欧における汚染の中心とさえいわれている。第二次世界大戦中のナチスによる虐殺を象徴するアウシュウィッツ収容所は、このシュレージエンの東南端(現在のマウォポルスカ県オシフィエンチム)にあった。
[進藤牧郎]