日本大百科全書(ニッポニカ) 「シンガー」の意味・わかりやすい解説
シンガー(The Singer Company)
しんがー
The Singer Company
アメリカの家庭用ミシンの大手メーカー。かつては世界のミシン業界で圧倒的優位を誇り、1世紀以上にもわたって家庭用ミシンの世界的なトップブランドであり続けた。アメリカ初の多国籍企業として、19世紀末にはすでにヨーロッパやラテンアメリカでの現地生産に着手した。1960年代以降、外国のミシン・メーカーの台頭、市場の飽和などにより行き詰まり、脱ミシン・メーカーを図って企業買収による多角化を開始。しかし、多角化による経営再建のほとんどが失敗に終わり、1980年代にミシン部門を売却、1999年には連邦破産法(日本の会社更生法に相当)の適用を申請した。
[奥村皓一]
創業期
1873年2月、シンガー工業Singer Manufacturing Co.としてニュー・ジャージー州で設立登記されたのが発祥である。その前身は、家庭用ミシンの実用化に成功したアイザック・メリット・シンガーが1851年に創立したI・M・シンガー社であり、同社は下取り制度、割賦販売によるミシンの普及に成功、発足後まもなく家庭用ミシンのトップブランドの地位を築いた。1904年には製品の販売会社としてシンガー・ソーイング・マシンSinger Sewing Machine Co.(SSMC)を設立。1907年に最大のライバル企業ウィーラー・アンド・ウィルソンWheeler & Wilsonを買収して、世界一のミシン・メーカーとなった。
[奥村皓一]
多角化時代
第二次世界大戦後、内外での買収による多角化志向を強め、1963年5月社名をシンガーに変更した。かつて世界のミシン業界で圧倒的優位を誇っていたシンガーは、1960年代以降は外国ミシン・メーカーとの競争で業績が悪化、コングロマリット合併ブームのなかで、多角化による「脱ミシン」を目ざすこととなる。1980年代までに、航空宇宙・船舶向け航行・誘導システム、模擬飛行装置、船舶エレクトロニクス・システム、大型スクリーン・ディスプレー装置、電子信号処理システム、通信端末装置、自動車部品、シアーズ・ローバック向けの電動工具へと生産分野を広げ、寝室・食堂家具、OEM販売の電子機器、制御装置、冷暖房器具、家庭用ガスメーター、さらには教育機器へと生産を広げた。
とくに1960年代は多くの高度専門技術企業を買収したが、最大の買い物は事務機器メーカーのフライデン(1963)であり、これはシンガーのコンピュータ進出を意味した。1968年にはエレクトロニクス多角企業のゼネラル・プレシジョンを買収し、航空宇宙やハイテク部門への進出を早めた。1970年代初期には、建設や不動産部門にまで買収の手を広げた。だが、コングロマリット合併の反動はすぐに表れ、1976年には事務機器部門のほとんどを売却。1977年に住宅関連も分離売却してリストラクチャリングを断行した。1970年代末になるとミシン部門の市場飽和で、スコットランドやニュー・ジャージーの工場が閉鎖に追い込まれることとなった。1981年、シンガーは航空宇宙・軍用エレクトロニクスの分野へと進出を開始し、飛行訓練機器メーカーのシミュフライト・トレーニング・インターナショナルを買収する一方、1982年には空調機器子会社や教育機器子会社を売却した。
[奥村皓一]
経営危機・破綻
1986年、シンガーは伝統のミシン・家具部門を子会社シンガー・ソーイング・マシン(SSMC)に統合分離することを決めた。1960年代のコングロマリット合併によって遂行した多角化も、軍用エレクトロニクス・航空宇宙機器を除いてほとんどが失敗に終わり、コアコンピタンス(競争優位分野)として伝統主力部門への回帰を図った。SSMCは、シンガー本社が15%の株式を保有したままスピン・オフ(分社化)したが、1989年、セミテック社Semi-Tech Co.により買収された。
1987年末、企業買収家のホール・A・ビルゼリアン率いる投資会社がシンガー社の普通株全株の買収を申し入れ、1988年1月にはシンガー取締役会はこの投資会社との合併を承認。新たな経営体制の下で、新戦略が打ち出された。その基本路線は、主力の航空宇宙・エレクトロニクス部門を別会社とし、従来部門をシンガーブランドとして残す、という二分案であった。しかし1999年、かねてより抱えていた有利子負債に加え、1997年に買収したドイツのミシン子会社プファフPfaffの倒産が引き金となり、シンガーは連邦破産法による会社更生手続を開始した。
シンガーミシンの最大の生産者であったシンガー日鋼(日本製鋼所とシンガーの折半出資)は、工業用ミシンを主力製品に生産してきたが、世界的な需要低迷、中国製の低価格ミシンの普及により、1998年(平成10)には最盛期の売上げの半分にまで落ち込んだ。米シンガー社が工業用ミシンからの撤退を決めたことから、シンガー日鋼は1999年11月に最終的に本社の宇都宮工場を閉鎖。家庭用の低価格ミシンで世界市場の4割をもつ香港シンガーもシンガー本社の倒産で生産を事実上停止した。2000年には大口買取り先のシアーズ・ローバックが、日本の蛇の目ミシン工業からの調達に切り替え、シンガー日鋼は同年8月に解散した。シンガーブランドの使用権をもつシアーズが、買取り先をシンガーとはライバル関係にある蛇の目ミシンに切り替えたことは、「20世紀はアメリカの時代」を演出してきたスター企業の一つであるシンガーの20世紀末における没落を意味していた。
2004年、シンガーブランドとミシン事業は投資会社KSINホールディングスKSIN Holdings Ltd.に買収された。その後2006年には、他のミシン・メーカーと合併して創設された世界最大手ミシン・メーカー、SVPワールドワイドSVP Worldwideの一部となり、生産されている。
日本での家庭用ミシンの営業はシンガーハッピージャパンが継承している。
[奥村皓一]
『D. C. BissellThe First Conglomerate ; 145 Years of the Singer Sewing Machine Company(1999, Biddle Publishing)』
シンガー(Isaac Bashevis Singer)
しんがー
Isaac Bashevis Singer
(1904―1991)
アメリカの小説家。ポーランドに生まれる。1935年渡米後、イディッシュ語で創作を続け、その作品がほとんど英訳されている特異な作家。主として過去のポーランドのユダヤ村落の歴史や庶民を描く。『ゴライの悪魔』(1955)、『ルブリンの魔術師』(1960)、『奴隷』(1962)は、ユダヤ社会の正統的、異端的生き方の葛藤(かっとう)と救済の問題を扱い、『モスカト家の人びと』(1950)、『領地』(1967)、『資産』(1969)の連作長編は、ユダヤ教本来の強い伝統意識と近代的啓蒙(けいもう)思想の相克のなかで動揺しながら生きてゆく多数のユダヤ人の実像を詳細に描く。ナチスの迫害の悪夢から脱しきれない男の悲喜劇的状況を描いた『愛の迷路』(1972)、成人後も処女性を失わない純潔な女性に対する青年作家の献身を主題とする『ショシャ』(1978)、娼婦(しょうふ)の前歴をもつ一女性をめぐって展開する男女の愛欲図『ヤルメとカイレ』(1979)などは、いずれもヨーロッパとアメリカを舞台にした自伝的要素の濃い長編。ほかにユダヤ民話の語り口を活用して書かれた8冊の短編集、『愛を求める若者』(1978)など4冊の回想録、『恐怖の宿屋』(1967)ほか多数の児童書がある。78年、ポーランド・ユダヤ人の文化伝統に根ざし、普遍的人間条件に生命をもたらした感動的物語の芸術に対してノーベル文学賞が授与された。
[邦高忠二]
短編
シンガーには、『ばかものギンペル』(1957)、『市場通りのスピノザ』(1961)、『短い金曜日』(1964)、『カフカの友人』(1970)のほか、4冊の英語版短編集がある。もとはイディッシュ語で書かれたこれらの諸作品は、平凡な庶民の通用語の土俗的特質や、ユダヤ民話の屈折した語り口が生かされていて、素朴と深遠の独自な融合を示す佳編が多い。
描かれる人物像は、たとえば底抜けに純真で、世間の欺瞞(ぎまん)すら疑うことを知らぬお人よし(「ばかものギンペル」)、スピノザ哲学に没頭して現実生活から遊離してしまう学者(「市場通りのスピノザ」)、実生活では無能そのもののユダヤ社会の精神的指導者(「短い金曜日」)、悪霊に取り憑(つ)かれ固有の伝統から逸脱し破滅に至る男女、過去の苦難の体験から心に深い傷を負い、現実と非現実の区別もつかずちぐはぐの人生を送る不幸な男(「カフカの友人」)などである。
シンガーはこうした作品を通じて、神と悪魔、聖と俗、賢と愚、理性と情念など相反する価値の併存する状況を設定し、一種の唐突感、怪奇性、エロティシズムの漂う独自の世界を描出した。同時に巧妙な寓話(ぐうわ)や風刺の手法を駆使して、特殊な環境を生きる人間像に読者の共感を誘う生き生きとした普遍性を与えた。
[邦高忠二]
『田内初義訳『愛の迷路』(1974・角川書店)』▽『邦高忠二訳『短かい金曜日』(1971・晶文社)』▽『工藤幸雄訳『まぬけなワルシャワ旅行』(岩波少年文庫)』
シンガー(Isaac Merrit Singer)
しんがー
Isaac Merrit Singer
(1811―1875)
家庭用ミシンの実用化と月賦販売による普及に成功した企業家。アメリカのニューヨーク州に生まれる。若くして家を出て、約16年渡り職人として各地を放浪し続ける。1851年ボストンの工場で修理に持ち込まれた一種のミシンを見てその基本原理を知り、さらに改良を加え、鋸歯(きょし)状の布自動送り装置を備えたミシンの特許をとる。すでに特許を得ているE・ハウのものと比べて多くの機能を備えた最初の本格的ミシンであった。1851年エドワード・クラークEdward Clark(1811―1882)と共同でI・M・シンガー社を設立、1860年には世界最大のミシン会社となる。1854年にミシンの基本特許をもつハウに特許侵害で訴えられ敗訴するが、使用料を支払うことで決着した。彼の工場は互換性部品による大量生産方式をとり、販売には割賦制度を導入するなど、生産、販売の両面で新機軸を開いた。
[篠原 昭]