日本大百科全書(ニッポニカ) 「ベロー」の意味・わかりやすい解説
ベロー(Saul Bellow)
べろー
Saul Bellow
(1915―2005)
アメリカのユダヤ系小説家。6月10日、カナダのモントリオール郊外ラシーヌ村で4人兄弟の末っ子として生まれる。両親は1913年ロシアのペテルブルグからのユダヤ移民で、ことばはイディッシュ語、宗教は正統派ユダヤ教(ハシディズム)という家庭環境で育つ。ベローが9歳のとき一家はシカゴに移住、以後青少年期をシカゴで過ごしたベローは「僕はシカゴ育ちで、自分を根っからのシカゴっ子と考えている」と語っていた。
1933年、シカゴ大学を経てノースウェスタン大学に進学、社会学、人類学を専攻し、1937年優等で卒業。師範学校やミネソタ大学など各地の大学で教壇に立つかたわら小説を書き始める。『パーティザン・レビュー』誌に初めて短編『朝のモノローグ二題』(1941)を発表。続いて処女長編『宙ぶらりんの男』(1944)で一部批評家の注意をひいた。ユダヤ人の微妙な被害者意識を描出した『犠牲者』(1947)のあと、シカゴの貧民街に育ったユダヤ系少年の冒険を描く長編大作『オーギー・マーチの冒険』(1953)で全米図書賞を受賞、一躍作家としての地位を確立した。この間1948~1950年グッゲンハイム奨学金を得てパリに遊ぶが、帰国後十余年間はニューヨーク周辺で暮らす。1人の中年男の危機的な1日を描いた『この日をつかめ』(1956)、アフリカの原始的な世界へ放浪の旅に出る男の物語『雨の王ヘンダソン』(1959)、自伝的色彩の強い長編大作『ハーツォグ』(1964。全米図書賞、国際文学賞受賞)を発表、この作品によってアメリカ文壇で第一人者の地位を不動のものにした。1963年シカゴ大学社会思想委員会(人文系大学院に相当)教授、1993年ボストン大学で教鞭(きょうべん)をとり、2000年名誉教授となる。
1970年代に入り、『サムラー氏の惑星』(1970。全米図書賞受賞)、『フンボルトの贈り物』(1975。ピュリッツァー賞受賞)を発表、1976年には「その作品に結合せしめられている人間理解と現代文化の精妙な分析」(授賞理由)が認められ、ノーベル文学賞を受ける。ほかに短編集『モズビー回顧録その他』(1968)、戯曲『最後の精神分析』(1965)、『イスラエル紀行――個人的記録』(1976)、『学生部長の12月』(1982)など。1972年(昭和47)4月に来日、東京、京都に1か月ほど滞在したこともある。
ベローは現代アメリカの最良の作家と目され、賞という賞を取り尽くした観があり(文学賞のほかに、ユダヤ遺産賞、フランス政府から文芸騎士十字勲章など)、功なり名遂げた大作家となったのちも創作意欲に衰えをみせなかった。初期2作品の心理的内向の小世界から『オーギー・マーチの冒険』の全アメリカ的舞台に移ってからは、ベローは人間の内奥の欲求や震えを確実にとらえ、これに絶妙な芸術的表現を与える方法を会得したように思われる。『この日をつかめ』と『雨の王ヘンダソン』は、それぞれ悲劇的、喜劇的起死回生の物語。これと同じテーマを扱ったのが代表作『ハーツォグ』。1960年代の動乱の経験がベローをはっきりと保守主義の立場にたたせた。『サムラー氏の惑星』は論争の書ともいえる。『フンボルトの贈り物』は鋭い文明批評を含む作品で、科学的自然観とビジネス精神が人間の本然の欲求をゆがめ、扼殺(やくさつ)する状況を告発した。
とくに1960年代以降、社会的、思想的領域への関心を強めたベローは、『学生部長の12月』では、資本主義の豊かな国アメリカのシカゴにおける犯罪と、共産主義の貧しい国ルーマニアのブカレストにおける専制官僚主義を対比し、政治体制と人間の生き方の不調和な現実の状況について、読者を改めて深い内省に導いた。
[渋谷雄三郎]
『宇野利泰訳『ハーツォグ』(1970・早川書房)』▽『宇野利泰訳『盗み』(1990・早川書房)』▽『橋本福夫訳『サムラー氏の惑星』(1974・新潮社)』▽『大井浩二訳『フンボルトの贈り物』上下(1977・講談社)』▽『渋谷雄三郎著『ベロー〈回心の軌跡〉』(1978・冬樹社)』▽『渋谷雄三郎訳『学生部長の十二月』(1983・早川書房)』▽『真野明裕訳『埋み火』(1998・角川春樹事務所)』▽『太田稔訳『宙ぶらりんの男』『犠牲者』(新潮文庫)』▽『大浦暁生訳『この日をつかめ』(新潮文庫)』▽『佐伯彰一訳『雨の王ヘンダソン』(中公文庫)』
ベロー(Georg von Below)
べろー
Georg von Below
(1858―1927)
ドイツの歴史家。とくに中世経済史、中世法制史の権威であり、史学方法論においても著名である。ユンカーの子としてケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)に生まれる。同地の大学を経て、ボン、ベルリン大学に学び、1889年マールブルク大学の講師となり、以後ケーニヒスベルク、チュービンゲン、ミュンスター、フライブルクの各大学の教授を歴任した。法制史家としては、中世国家の本質に関する荘園(しょうえん)法説を批判し、中世国家の公的な国家性を強調する未完の名著『ドイツ中世国家論』(1914)を著した。また、農業史研究と荘園法説批判の論文を含む『領邦と国家』(1900)によって経済史家としての地位を確立し、経済史研究の方法としては、K・ビュッヒャー、K・G・ランプレヒトなどの発展段階説や自然科学的実証主義に対して、個性的、歴史的方法を主張した。1907年の創刊以来『社会経済史季報』の編集に参加し、また第一次世界大戦中とワイマール共和国の政治に対し、保守主義の立場から多くの発言をした。主著にはほかに『ドイツ史学史』(1916)、『経済史の諸問題』(1920)、『ドイツ中世農業史』(1927)などがある。
[根本久雄]
『堀米庸三訳『ドイツ中世農業史』(1955・創文社)』