日本大百科全書(ニッポニカ) 「ジェファソン」の意味・わかりやすい解説
ジェファソン(Blind Lemon Jefferson)
じぇふぁそん
Blind Lemon Jefferson
(1893―1929)
1920年代を代表するアメリカのカントリー・ブルース・シンガー、ギタリスト。その名声は活動のベースとしたテキサスにとどまらず、黒人人口の多い地域でも広く支持されていた。本来農作地帯で歌うものだったブルースが、レコードとしても受け入れられるということを証明し、多くのカントリー・ブルースのレコーディングへの道を拓いた。
テキサス州中部のクーチマンに生まれる。生まれつき盲人だったといわれる。1912年ごろにはテキサス州ウォーサム付近のピクニックやパーティー、路上で演奏して小銭を得る。17年ごろにはダラスに住み、歓楽街ディープ・エラム地区で活動する。さらに州南東部のガルベストン、南西部のウェイコといった地域でも演奏するが、徐々に活動範囲はテキサス州を越え、南部一帯へと拡がった。当時、レッドベリーLeadbelly(1889―1949)、キング・ソロモン・ヒルKing Solomon Hill(1897―1949)、ランブリン・トーマスWillard“Ramblin”Thomas(1902―45?)といったテキサス、ルイジアナの重要ブルース・シンガーと共演する。
レコーディングは26年にまず、ディーコン・L・J・ベイツDeacon L. J. Bates名義でスピリチュアル(主に旧約聖書にもとづく教会音楽)を録音、ついで自らのギター1本を携えて自作のブルースをパラマウント・レーベルにレコーディング。売り上げは好調で、初めて持続的に売れるカントリー・ブルース歌手として認知される。部屋にうごめく黒蛇という、自らの性欲をメタファーとした「ザット・ブラック・スネーク・モーン」(1926)が大ヒット、このころにはシカゴにも遠征して演奏し、大いに気を吐いていた。ジェファソンのギター演奏は、主に単弦奏法による高度なテクニックと即興フレーズを駆使したもので、すばらしいリズム感に支えられ、ボーカルに対する精緻なレスポンスは圧巻である。
スズでできた集金用のカップを身につけ、人の集まるところならどこでも演奏するという生活をおくり、放浪する黒人という、社会のはみ出し者として捉えられる危険性とも隣り合わせだった。テキサスの監獄にまつわるブルースも多く、どの程度実体験にもとづいているのかは定かではないが、その迫真性も尋常ではなかった。息のつまるような、高音域主体の声域の広いボーカルも、ブルースの本質的な部分をえぐり出していた。また、それまでブルースの曲構成は自由な組み立て方を許したが、ジェファソンはブルースという音楽の定型化を行った。「ロング・ロンサム・ブルース」「ジャック・オー・ダイヤモンド・ブルース」「ラビット・フット・ブルース」(いずれも1926)、「マッチボックス・ブルース」「イージー・ライダー・ブルース」「シー・ザット・マイ・グレイブ・イズ・ケプト・クリーン」(いずれも1927)、「ブラインド・レモンズ・ペニテンシャリー・ブルース」(1928)、「ピーチ・オーチャード・ママ」(1929)といった曲は、26年から29年という短期間に残した100曲ほどの作品のなかの一握りの代表的傑作である(『キング・オブ・ザ・ブルース1』King of the Blues 1等に収録)。後進のブルースマンたちへの影響も大きく、B・B・キングから、直接的に接触のあったライトニン・ホプキンズに至るまで広範囲にわたっている。29年に雪の降り積もるシカゴで、凍死しているのが発見された。
[日暮泰文]
『Samuel ChartersThe Bluesmen(1975, Da Capo Press, New York)』▽『Robert L. UzzelBlind Lemon Jefferson; His Life, His Death, and His Legacy(2002, Eakin Press, Austin)』
ジェファソン(Thomas Jefferson)
じぇふぁそん
Thomas Jefferson
(1743―1826)
アメリカ独立宣言の起草者。アメリカ合衆国第3代大統領(在任1801~09)。バージニアのプランターの家に生まれる。1762年ウィリアム・アンド・メアリー大学を卒業。67年弁護士となり、69年から74年までバージニア植民地議会の議員を務めて政界で有名になった。当時の反英運動のなかでパトリオット(愛国派)の指導者として活動し、73年には植民地間を結ぶ組織である通信連絡委員会の結成に貢献した。74年『ブリテン領アメリカの諸権利の概観』を著し、本国の諸政策を植民地人の奴隷化を企てるものとしてとらえ、これに反抗すべきであると説いて、パトリオットのイデオローグとしての立場を不動のものにした。第1回、第2回の大陸会議にバージニア代表の一人として参加。第2回大陸会議では、他の4人とともに独立宣言の起草委員に任命され、第一草稿を単独で起草した。この草稿は、起草委員会ならびに大陸会議においてそれぞれ若干の修正を受けたのちに、76年7月4日に公布された。アメリカ独立革命の理論は、すでに前記『概観』によって明確にされていたが、独立宣言は有名な「すべての人間は平等につくられている」という一文にみられるように自然権思想を格調高くうたいあげて、アメリカ政治史上の古典となった。79年から81年までバージニア邦知事を務め、83~85年には連合会議の代表となり、85~89年は駐仏公使であった。この間、86年成立の「バージニア信教自由法」を起草して政教分離の原則を打ち立て、また87年成立の「北西部公有地条例」を起草して以後の公有地政策の基本を定めた。
ジェファソンは、1790~93年には初代国務長官となったが、経済政策をめぐって財務長官ハミルトンと対立した。96年の大統領選挙にはリパブリカン(反連邦派)の候補として出馬したが、フェデラリスト(連邦派)のJ・アダムズに次ぐ得票となり、次点者が副大統領になるという当時の選挙法によって翌年副大統領に就任。1800年の選挙では、アダムズを破ったが、リパブリカンの副大統領候補A・バーと同数になり、下院の決戦投票で第3代大統領に当選し、2期を務めた。ジェファソンは、おおむね前政権の経済政策を踏襲し、また03年にはフランスからルイジアナを買収して領土を倍増させた。07年、イギリス・フランス戦争中に公布した出港禁止法は、アメリカの貿易を停止させて経済的な波紋をよんだ。
ジェファソンは、独立宣言の起草者として、またジェファソニアン・デモクラシーの指導者として政治史上大きな貢献をなし、政界引退後はバージニア大学を創立して教育史にも足跡を残している。思想家としての名声は不動のものであり、「アメリカ哲学協会」の会長も務めた。しかしまた、彼がこの時代の「財産と教養」の代表者にみられる限界をもっていたことも忘れてはならない。それは、彼が人間の平等を唱える一方で、終生、平均200人の黒人奴隷を所有する大プランターであったことに象徴されているのである。また、インディアンに対しても迫害を行い、白人民衆の政治的能力についても不信感をもっていた。彼の唱えた共和主義とは、「自然の貴族」、つまり生まれながらに有能な少数者が多数者を指導すべきだ、というものであった。
ジェファソンは、政治家、思想家としてだけではなく、フランクリンと同様に自然科学者としても知られている。とくに建築の方面に才能を発揮し、彼の設計はジェファソン風古典建築とよばれている。モンティセロの広壮な自宅も自身の手になるものである。1826年7月4日、独立宣言公布の記念日に、この貴族的な大邸宅でその生涯を閉じた。
[島川雅史]
『富田虎男著「ジェファソンと農本主義」(『講座アメリカの文化 3 農本主義から産業主義へ』所収・1969・南雲堂)』▽『明石紀雄著「ジェファソンとアメリカの建国」(『アメリカ世界 1』所収・1980・有斐閣新書)』▽『T・ジェファソン著、中屋健一訳『ヴァジニア覚え書』(岩波文庫)』