奴隷制とは、一個の人格が他の人格=その労働力を所有し、支配・搾取する制度であり、所有された人格は、ローマのウァルローが奴隷を「ことばをしゃべる道具」instrumentum vocaleとよんだように、その人格性を否認され、物とみなされる。この直接生産者である奴隷を、奴隷所有者が所有し、暴力的に支配して強制的に物質的生産を行わせることを、奴隷制生産方法とよぶ。奴隷制は、古代社会において、オリエント、インド、中国、日本、ギリシア、ローマなどで存在したが、近代においても南北アメリカや植民地などのプランテーションで存在しえた。一つの社会の物質的生産(とくに農業生産)において、奴隷制が決定的な役割を果たした社会を奴隷制社会とよぶが、こうした意味では古代社会こそが奴隷制社会であり、原始社会の崩壊とともに成立した最初の階級社会であると把握された。しかし、オリエント、中国、日本などの古代社会では、奴隷は存在するが、彼らは生産の重要な部分を担当したとはいえず、農民が国家によって奴隷制的に把握された総体的奴隷制allgemeine Sklavereiであるとされている。同じ奴隷制社会といっても、奴隷制が典型的に展開したギリシア・ローマの社会とは異なった特徴をもっている。
しかし、この奴隷制把握に太田秀通(ひでみち)は異議を唱えている。太田は奴隷制概念を検討し、奴隷を従来の把握に加えて、共同体との関係でとらえ、自己の共同体を失った隷属民を奴隷、共同体をもつ者を隷属農民として範疇(はんちゅう)的に区別した。この見解では、従来、総体的奴隷制ととらえられていたオリエントなどの古代社会は、この隷属農民を主要な生産者としているので、マルクスが『経済学批判』の序言で表示したアジア的生産様式として規定されている。
[土井正興]
奴隷制は、原始社会のなかで、社会の生産力が高まり、土地を含めた生産手段の私有が始まり、剰余生産物を自己のものとする者が現れた段階で発生した。ラテン語の奴隷セルウスservus(「殺さないで保存した者」)が示すように、いままで殺していた戦争捕虜などを生かして奴隷として使うほうが有利となったのである。こうした奴隷は、すでにミケーネ社会やホメロスの詩にも認めることができるが、ここでは奴隷制はまだ重要な役割を果たしていない。奴隷制が社会で一定の役割を果たすようになると、奴隷所有者は部族同盟の民主的諸機関を奪って、人民を収奪・支配する暴力装置に転化し、ここに少数の搾取者が多数の被搾取者を抑圧する機関=国家が成立した。アテネなどのギリシアの都市国家やローマ帝国は、こうした意味で奴隷制国家であった。
スパルタは、ヘイロタイとよばれる被征服民を国有奴隷化し、農業生産に従事させ、生産物の半分を貢納させ、いわば、7000のスパルタ市民が支配者集団として国家を組織し、20万のヘイロタイを抑圧していた点では奴隷制国家といえる。しかし、奴隷身分であるヘイロタイが共同体と家族をもち、生産用具をもった点で、財産の獲得・所有、結婚、家族の形成を許されなかった一般のギリシア・ローマの奴隷とは異なっていた。ヘイロタイの規定をめぐって、奴隷か農奴かという論争が繰り返されてきたが、太田は第三の範疇=隷属農民と規定している。なお、これと類似の土地・小屋・家族をもつクレタのクラロタイ、テッサリアのペネスタイなど、いわゆる「小屋住み奴隷」castiなども存在しており、これを奴隷制のなかにどのように位置づけるかが問題であろう。
ギリシア・ローマでは一般的に、初め奴隷は「ファミリア」とよばれ、家族の一員とみなされ、家父長的奴隷としての性格が強く、取扱いも比較的温和であった。それはやがて、奴隷が家族とは差別されつつも家の一部で生活する家内奴隷制に移行し、さらに労働奴隷制に発展した。大農場、大牧場、手工業、鉱山などに、生産労働のために奴隷が多数集められて使用された。家内奴隷制の段階では小規模の奴隷所有が主要な形態であったが、労働奴隷制の段階になると、厳しい監督のもと、農場では400人、大牧場や鉱山では1000人もの奴隷が酷使されることもあった。紀元前5世紀のアテネでは、総人口30万のうち奴隷が10万、また前1世紀のイタリアでは、総人口750万のうち奴隷が300万に達したと推定されている。
ギリシア・ローマで大規模な奴隷制が展開しえたのは、奴隷の補給源を抜きにしては考えられない。ギリシア・ローマにおいて、共同体成員の債務による奴隷化は、ソロンの立法や前326年のポエテリウス法などによって原則として禁止されており、奴隷は外国人であった。このことは、奴隷制を発展させたギリシア・ローマの中心部が、奴隷の供給を絶えず保障する周辺=辺境部の存在を不可欠とした。奴隷の補給源は戦争捕虜と購買奴隷であった。前者は、奴隷獲得のための侵略戦争を絶えず行うことによって、たとえばローマの場合、第二次ポエニ戦争(前218~前201)で8万2000、前167年エピルスで15万、前105年ゲルマン人16万などにみられるように、多数の住民が戦争によって奴隷とされた。戦争に伴うローマ領域の周辺への拡大、属州化のなかで、後者は、これら地域での海賊、徴税請負人が、人さらいや債務によって奴隷として供給した。奴隷貿易の中心地はデロス島で、1日に1万以上の奴隷が取引されたといわれている。
農業、牧畜、手工業、鉱山などでの大規模な奴隷制の展開のなかで、故国から切り離された奴隷の取扱いは過酷となった。生殺与奪の権を握る主人のもとで、奴隷は鉄鎖をつけられ、「なにか用事をしているか眠っていなければならない」として、鞭(むち)で労働に駆り立てられ、その全生産物は収奪された。生命をかろうじて維持できるだけの「飼料」しか与えられず、主人に反抗すれば厳罰に処せられ、働けなくなったり病気の奴隷はテベレ川の島に遺棄された。もちろん、奴隷のなかには、労働奴隷のほかに、闘技場で真剣勝負によって仲間同士の殺し合いを強いられたグラディアトル(剣奴)もいれば、歌い手、踊り子、医師、秘書、司書、家庭教師など才能を買われた奴隷、下僕・下女などの家内奴隷もいた。グラディアトルを除いて、これらの奴隷は、労働奴隷ほどには過酷な扱いを受けず、そのなかには、主人の「温情」にすがって解放されることを望む者も少なくなかった。
[土井正興]
しかし、生産労働における奴隷制の大規模な展開は、小農民を没落させるとともに、奴隷所有者と奴隷との間の矛盾を激化させ、奴隷の逃亡・反抗を招いた。ギリシアでは、ヘイロタイの蜂起(ほうき)やペロポネソス戦争(前431~前404)時のアテネ奴隷2万の逃亡を除いて、公然たる奴隷蜂起はあまりないが、共和政末期のローマでは、奴隷制的大土地所有制が展開していたイタリアやシチリア島で大規模な奴隷蜂起が起こった。前139年の第一次シチリア奴隷蜂起は20万を結集し、前104年の第二次シチリア奴隷蜂起には10万近くの奴隷が参加し、前73年のスパルタクス蜂起は12万に達して、ローマの支配階級を脅かした。シチリア島では、奴隷が奴隷所有者を打倒して奴隷王国をつくり、もとの主人や自由農民をその支配下に置いた。これに対してスパルタクス蜂起では、彼ら自身支配階級に成り上がることを拒否し、イタリアを脱出して原始的共同体が残存する故国に帰り、人間的な自由な生活を回復することを目ざした。いずれにしても、奴隷は、現実の奴隷制的搾取の仕組みを認識できず、奴隷制を廃棄して新しい社会を展望することができなかった。
[土井正興]
確かに、奴隷制は原始社会よりも社会の生産力を増大させた。しかし、奴隷制の発展に伴う、その内在的矛盾の激化、奴隷の反抗の増大、奴隷労働の非能率性は、奴隷所有者をして、奴隷に妻帯を認め、その財産の一部をペクリウムとして与えるなど、奴隷のコロヌス(小作人)化を促進させ、コロヌスによる小作制を普及させることとなった。それは、2世紀以降のローマ帝国の領土拡大の停止に伴う奴隷源の枯渇などと相まって、より促進された。このころから「コロヌスに類似した奴隷」servus quasi colonusなども現れ、厳しかった自由人と奴隷との間の差別もしだいになくなり、ローマ帝国末期には奴隷制は衰退した。
[土井正興]
奴隷労働を前提とする「閑暇」のなかで、市民は古代文化(哲学、科学、芸術)を開花させた。そのことをエンゲルスは、「奴隷制によって……古代世界の花であるギリシア文明が可能となった。奴隷制がなければ、ギリシアの国家も、ギリシアの芸術や科学もなかったであろう。奴隷制がなければローマ帝国もまたなかったであろう」(『反デューリング論』)と指摘している。奴隷のなきがらのうえに築き上げられた古代文化が生み出した代表的な哲学者アリストテレスは、生き物は精神と肉体とからなり、精神が肉体を統治するように、主人が奴隷を統治するのは当然であり、自由人と奴隷とは本来肉体的にも異なっているので、奴隷制は正義にかなっているとして、奴隷制を容認した。これは、当時の市民の奴隷制についての一般的な考え方でもあった。このころになると、家内奴隷制初期段階のヘシオドスの「勤労は恥にあらず怠惰こそ恥なれ」とする考えは、市民の間では消滅し、労働するのは奴隷であって、市民の本分はそこにはないとして、労働を蔑視(べっし)する考え方が一般化した。
従来、古代社会=奴隷制社会とする定式が自明のものとされてきたが、近年、奴隷制研究の進展と、奴隷、奴隷制、奴隷制社会の概念の検討などによって、奴隷制社会と規定できるのは、古典期アテネと共和政末期から帝政初期のローマだけではないかとする見解も出されているが、これらについては理論的、実証的にさらに吟味される必要があろう。アメリカ合衆国における奴隷制については「黒人奴隷制度」の項を参照されたい。
[土井正興]
オリエントにおいても、文献資料のある最古の時代からすでに奴隷は存在した。シュメールでは男奴隷をイル、女奴隷をゲメと称し、それらは「男」と「山」、「女」と「山」の会意文字で示された。奴隷(イル、ゲメ)とは本来シュメール周辺の山岳地帯出身者をさしたと思われる。「蛮族」出身者は、戦争捕虜か、もしくは購入されてきたと思われるが、シュメール初期王朝時代(前24世紀)はもっぱら商人によるエラム地方からの購入例が散見できる。戦争捕虜の早い時期の例証としては、ウル第三王朝時代(前22~前21世紀)の文書に記録された戦利品中の、家畜などとともにあげられた奴隷がある。エジプト新王国時代(前16~前11世紀)、アッシリア帝国時代(前7世紀ごろ)のような、大規模な領土拡張期に大量の戦争捕虜が出現したが、ある意味で短期的、偶発的事象である。
エジプトを含め古代オリエントにあっては、ローマのごとき労働奴隷制は実現しなかったとされる。事実、シュメールにおける奴隷は、資料から判断して、小家族内の補助労働力たる家内奴隷が第一義である。ウル第三王朝時代以降、都市(自由)民が負債奴隷に転落する傾向がみられる。初期には富裕な市民が奴隷主となり、労働形態からも家内奴隷的存在であった。新バビロニア時代(前7世紀)に至る後期には、神殿も奴隷主となる傾向が一方にあるが、これも労働奴隷でなく、家事雑務、祭儀上の雑務に従事した家内奴隷的存在であった。具体的数字は不明だが、人口割合においても奴隷は相対的に少数者であったと思われる。したがって、アッシリア帝国の一時期など特定の時代を除いて、古代オリエントでは制度としての奴隷制は発展しなかったといえる。
オリエントの奴隷制は、アジア的生産様式、アジア的専制君主制から多く論議される。しかし現存資料による限り、王の経済は、少なくともメソポタミアのシュメールから古バビロニア時代(前20~前17世紀)まで、ウェーバーのいうオイコス経済、すなわち不自由人労働を含む大家計内の自給自足的自家生産(それは家族共同体の拡大自家経済から直接生まれたものではない)にもっとも近似する。したがって、家父長制的奴隷制の国家規模への拡大でもなく、隷農的アジア共同体からの出自でもないだろう。古代オリエントがアジア的総体的奴隷制を含めた奴隷制によって、その生産関係、階級関係を規定されていたかどうかについては、なお問題を含むところである。
[前田 徹]
マウリヤ朝初期(前4世紀末)にインドを訪れたギリシア人のメガステネスは、見聞記のなかで「インド人はみな自由であり奴隷はいない」と記している。しかしインドの古文献は、都市や農村にかなりの数の奴隷がいたことを伝えている。インドでは、物とみなされ売買贈与の対象とされる人間をダーサ(女性はダーシー)とよんだ。ダーサという語は、アーリア人のインド来住初期に彼らに敵対した先住民の呼称であったが、そうした先住民が征服されたため、この呼称に「奴隷」の意味が加わり、のちにはもっぱら後者の意味に使われるに至ったのである。
奴隷の供給源は、奴隷の子(家生奴(かせいど))、困窮者、捕虜やさらわれた者などである。マウリヤ朝の前後に成立した諸文献にみいだされる奴隷のなかには、いわゆる「労働奴隷」に近い者もわずかに存在するが、その他の大部分は家内奴隷である。彼らは家父長に従属する家族の一員としての性格をもっており、扱いも当時のギリシアの労働奴隷ほど過酷ではなかった。多くの学者は、メガステネスの誤伝の原因をこの点に求めている。生産活動において奴隷労働の占める役割は副次的なものであった。古代インドを奴隷制社会としてとらえようとする試みもなされたが、説得力に欠けている。総体的奴隷制の概念をインド古代に適用できるか否かの検討は、今後の課題である。なお法的には1843年の奴隷廃止令に至るまで、現実にはそれ以後においても、古文献にみられる奴隷と近似した不自由人がインド各地に広範に存在していた。
わが国では、4バルナ(種姓)の最下位に置かれるシュードラに「奴隷」という訳語を与えることが多い。確かにヒンドゥー法典では、シュードラを上位3バルナ(バラモン、クシャトリヤ、および農牧商に従事する庶民バイシャ)に奉仕すべく生まれた者と定め、彼らを社会的、経済的、宗教的に差別している。しかしシュードラは家族や財産をもつことのできる隷属民であり、「もの」として扱われる奴隷とは範疇(はんちゅう)を異にしている。また身分のうえでは彼らの下に不可触民階層が存在した。シュードラの範疇は時代が下るとともにあいまい化し、7世紀までには農民を含む生産大衆がシュードラとみなされるに至っている(バイシャは商人階級のみをさす)。
[山崎元一]
中国の奴隷制をどの時代に比定するかについては、現在のところ定説がなく諸説が多様に分かれている。これは、奴隷制の概念について、個別的史実の理解について、解釈が異なるためである。
[五井直弘]
日本では前田直典が、秦(しん)・漢・六朝(りくちょう)期の生産奴隷の存在や均田農民の半奴隷的性格を根拠に、唐(618~907)の中葉までを奴隷制と規定し、仁井田陞(にいだのぼる)、西嶋定生(にしじまさだお)らによって、前田説の補強が試みられた。なかでも西嶋は、漢代(前202~後220)の豪族を家父長的家内奴隷所有者としてとらえ、秦・漢帝国はそれが拡大されたものであったとした。これに対して、奴隷制的隷属関係を否定する守屋美都雄、秦・漢時代の基本的生産関係を、広範に存在した一般農民と皇帝との間に求めるべきだとする浜口重国らの批判を受け入れ、西嶋は、賜爵制度の究明を通じて、秦・漢帝国の国家権力の性格は、皇帝による人民の個別人身的支配であったと改説した。一方、浜口などがいう一般農民は、春秋時代における氏族的邑(ゆう)共同体の分解の結果析出されたもので、析出された農民を再組織し、新たに形成されてくる郡県制的外郭機構、官僚制などを内面から支え、規定している自律的な社会関係、共同体的秩序の存在を指摘したのが増淵竜夫(ますぶちたつお)である。西嶋、増淵の見解は、秦・漢統一国家の専制的性格を前提としたうえで、支配の形成ならびにその存立を可能ならしめた歴史的条件を究明したものであるが、両者には奴隷制もしくは封建制などの議論はまったくみられない。これは、中国社会の歴史的展開が著しく特殊であるうえに、これに西欧社会の歴史展開のなかから抽象された概念および法則を安易に適用することは、西欧的立場による中国社会観を再生する危険をもつとする考えからである。
一方、小農民を析出したとする氏族共同体崩壊以前の社会については、これを奴隷制の氏族的形態とも、またマルクスが『資本制生産に先行する諸形態』のなかで指摘した総体的奴隷制と解する説があり、さらに増淵が指摘した秦・漢時代の共同体に関連して、農民の個別経営が未成熟であったから、共同体は基本的にアジア的共同体の段階にとどまったとして、ここに総体的奴隷制を考える見解もあるが、現在のところ議論は深められていない。なお、増淵が提起した共同体は、共同体的社会組織ともいうべきもので、コミューン(共同体)ではない。
[五井直弘]
わが国における奴隷制論が不発に近いのに対して、中国におけるそれはきわめて活発である。しかしこれまた定説はなく、奴隷制、封建制の分期については、大別して7種類の意見がある。奴隷制の下限を、〔1〕殷(いん)末(前11世紀)、〔2〕西周末(前8世紀なかば)、〔3〕春秋末(前5世紀末)、〔4〕戦国末(前3世紀後半)、〔5〕秦末・楚(そ)漢の際(前3世紀末)、〔6〕前漢末(後1世紀初)、〔7〕後漢(ごかん)末(後3世紀前半)とするなどの諸説である。ただ、同じく殷・周時代を奴隷制とみる場合にも、郭沫若(かくまつじゃく)説のように衆臣、庶人や殷墟(いんきょ)にみられる大量の殉死者を奴隷と解し、また殷民六族、殷民七族などを種族奴隷と解して、古典古代的な集団奴隷を想定する見解や、呂振羽(りょしんう)、侯外廬(こうがいろ)などのように奴隷制の中国的特殊形態を考え、これをアジア的生産様式ととらえる見解があって、かならずしも一様ではない。
アジア的生産様式にも大別して5種類の解釈があり、そのうち、これを奴隷制社会とみる説は、古典古代的奴隷制と並行して存在したアジアにおける奴隷制社会、すなわち総体的奴隷制社会で、私有制の欠如を特色とするととらえる。またこの土地所有の問題に関連して、いわゆる井田(せいでん)制についても議論が多いが、公田を庶人(共同体成員)によって共同耕作される公有地、私田を定期的に割り換えられる個別的占有地ととらえ、農村共同体とする意見が多い。農村共同体とは、マルクスが『ベラ・ザスーリッチへの手紙』の草稿のなかで、家屋と付属の菜園は耕作者に属し、耕地は共有で定期的に共同体成員に割り換えられるといっているものであって、一般には原始的社会構成体の最後の段階で、奴隷制、封建制などの二次的社会構成への過渡段階とされているものである。ただ、この農村共同体が分解して私有制が確立する時期をいつとするかについては意見が分かれる。さらに私有制の開始はかならずしも封建社会の形成に帰結するとは限らず、むしろ農民の没落を招いて奴隷制を発展させるとするのが漢代奴隷制論者の主張で、漢代の農民反乱は、自由農民が奴隷に転落するのに反対した闘いであり、それは奴隷と奴隷主間の闘争以上に激しく行われたとしている。
[五井直弘]
日本の奴隷制は『魏志倭人』(ぎしわじん)伝にみえる生口(せいこう)が初見とされ、奴隷制の萌芽(ほうが)はすでに2、3世紀にみられる。その後、大和(やまと)王権の時代を通じて奴隷制は徐々に発達したと思われるが、律令(りつりょう)制下の奴婢(ぬひ)は多くみても人口の1割程度と推定され、大勢は家事労働に従う家内奴隷制段階にとどまり、社会的生産が奴隷労働によって担われる労働奴隷制にまでは発達しなかったとみられている。
このような日本の奴隷制の未発達に関連して、日本古代の社会構成を奴隷制とみるか否かをめぐる1930年代以来の長い論争がある。革命後のソビエト歴史学は、日本に奴隷制は存在したが、奴隷制的社会構成はついに成立しなかったとして、大化改新以降を封建制とした。こうした考え方は早川二郎らによって支持され、そうした観点から古代史の研究が進められたが、これに対し渡部義通(わたなべよしみち)は、奴隷制自体は未発達ではあったが、部民(べみん)制と結合することによって日本型奴隷制の社会構成が成立したとした。第二次世界大戦後、マルクスの総体的奴隷制概念(『資本制生産に先行する諸形態』)が紹介されると、これをアジア的専制君主に対する人民の奴隷的隷属関係を表現する奴隷制の一形態と解する説や、あるいは奴隷所有者と家内奴隷および国家と班田農民(共同体成員)との二重の隷属関係の相互規定とする安良城盛昭(あらきもりあき)の見解などが現れ、日本古代の社会構成を総体的奴隷制概念で説明する説が有力となった。
1957年(昭和32)塩沢君夫はアジア的生産様式概念の復権を唱え、それは原始共同体と奴隷制との中間に位置する共同体による共同体の支配としての貢納制という独自の階級関係であるとし、日本古代の社会構成はアジア的生産様式を基礎とした古代専制国家とすべきであり、その解体ののちに家父長的奴隷制の社会(中世)が形成されるとした。60年代になると、芝原拓自(たくじ)・原秀三郎は、総体的奴隷制とは原始共同体における集団と個人との一般的関係、すなわち共同体に対する個人の人格的奴隷状態を意味する概念であって階級関係ではないとし、日本の古代社会では、こうした関係が十分解体しないまま未発達の奴隷制(家内奴隷制)と結合し、専制君主のもとに人民が非自由民=半奴隷として隷属する国家的奴隷制が成立したとした。
[原秀三郎]
『ソ同盟科学院経済学研究所著『経済学教科書 第1分冊』(1955・合同出版社)』▽『M・I・フィンレイ編、古代奴隷制研究会訳『西洋古代の奴隷制』第二版(1974・東京大学出版会)』▽『太田秀通著『奴隷と隷属農民』(1978・青木書店)』▽『土井正興著『古代奴隷制社会論』(1984・青木書店)』▽『香山陽坪訳・編『奴隷制社会の諸問題』(『ソビエト史学叢書I』1958・有斐閣)』▽『山崎元一著『古代インド奴隷制の性格』(松井透・山崎利男編『インド史における土地制度と権力構造』所収・1969・東京大学出版会)』▽『太田幸男著『共同体と奴隷制アジア』(『現代歴史学の成果と課題2』所収・1974・青木書店)』▽『堀敏一著『近年の時代区分論争』(『中国歴史学界の新動向』所収・1982・刀水書房)』▽『塩沢君夫著『アジア的生産様式論』(1970・御茶の水書房)』▽『原秀三郎編『日本原始共産制社会と国家の形成』(『歴史科学大系I』1972・校倉書房)』
人格を否認された人間が所有主により労働を搾取されるのが奴隷であり,歴史的には原始共同体内部の階級分化により生まれたとされるが,共同体の間の戦争による捕虜も大きな奴隷供給源をなした。共同体内部についてみれば,刑罰や家父長による家族員の売却などが奴隷の発生要因としてまず考えられるが,身体を抵当とする借財も重要である。このようにして私的に所有された奴隷が家族員とともに家父長権のもとにたち,主として家内労働に使われた場合には家父長制的奴隷と呼ばれ,手工業や鉱山業あるいはまた規模の大きな農場経営においてもっぱら生産労働に使われた場合には労働奴隷と呼ばれる。奴隷の存在は,洋の東西を問わず,古代から近世にかけて広くみられるが,労働奴隷制が発展したのは,アテネのラウリオン銀山やイタリア各地のラティフンディウムに代表される古代のギリシア・ローマと,各種プランテーションの発展をみた近世の新世界(新大陸)においてであった。その他の世界では,これらの場合のように労働奴隷制が発展せず,奴隷と自由人との間の身分的差別も徹底しなかった。イスラーム法の規定によれば,人が奴隷とされるのは,(1)戦争捕虜,(2)生まれつきの奴隷の二つの場合に限られていた。子供の身分は母親の身分に従うものとされたが,主人が女奴隷の子供を認知すれば,その子供は自由人とみなされた。奴隷は主人の所有物として売買,相続,贈与の対象になったが,一方では奴隷にも信仰の自由があり,結婚や蓄財も可能であった。イスラームの奴隷制度は,19世紀以後,ヨーロッパ諸列強の圧力によって徐々に廃止の方向に向かった。中国では,奴隷的なものはすでに殷(いん)代から存在したが,それが社会の主要な生産力の担い手であったかどうかについては意見が分かれている。史料上は「奴婢(ぬひ)」といわれ,宮廷や家内の雑事に用いられる慣行は1909年まで続いた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…南北戦争のとき合衆国から脱退した南部11州が結成した連合。奴隷制度の可否を焦点とする南北対立のなかで,1860年奴隷制反対の共和党からリンカンが大統領に当選すると,サウス・カロライナをはじめミシシッピ,フロリダ,アラバマ,ジョージア,ルイジアナ,テキサスの7州は次々に連邦を脱退,61年2月4日からアラバマ州モンゴメリーで会議を開き〈アメリカ南部連合〉を結成した。その憲法は,奴隷貿易は禁止するが奴隷制は認め,保護関税を禁止するなどの特徴を持っていたが,だいたいアメリカ合衆国のそれに似ている。…
…なぜなら奴隷とは,人格を含めて身ぐるみ所有の対象,動産とされた人間であるからである。
【西洋古代】
奴隷の人格否認が最も徹底したのは,奴隷制社会を生み出した古典古代においてであった。ギリシアのアテナイでは奴隷は〈生きた道具〉とされ,ローマでは〈話す道具〉とされた。…
…自由主義思想の高まるなかで,主として19世紀前半,イギリス,フランスなどの西ヨーロッパ主要国やアメリカ合衆国で,奴隷貿易および奴隷制の廃止をめざした運動。廃止運動を推進した要因は宗教的・人道主義的なものにとどまらず,経済的・政治的要因が複雑にからみあっていた。…
※「奴隷制」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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