デジタル大辞泉
「ラファイエット」の意味・読み・例文・類語
ラ‐ファイエット(Marie Joseph Paul Yves Roch Gilbert Motier La Fayette)
ラ‐ファイエット(Marie-Madeleine Pioche de La Vergne La Fayette)
ラファイエット(Lafayette)
米国ルイジアナ州南部の都市。18世紀にカナダから移ってきたアカディア人の子孫が数多く住む。アカディア人の歴史と文化を紹介するジャン‐ラフィット国立歴史公園や、18~19世紀の町並みや生活を再現した野外博物館などがある。
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ラ‐ファイエット
- [ 一 ] ( Marie Madeleine Pioche de la Vergne, Comtesse de La Fayette マリー=マドレーヌ=ピオシュ=ド=ラ=ベルニュ、コンテス=ド━ ) フランスの女流小説家。代表作「クレーブの奥方」はフランス恋愛心理小説の古典とされる。(一六三四‐九三)
- [ 二 ] ( Marie Joseph La Fayette マリー=ジョゼフ━ ) フランスの軍人、政治家。貴族出身の自由主義者。アメリカ独立戦争に従軍して勝利に貢献。帰国後フランス革命に参加して一七八九年人権宣言を起草したが、のち立憲君主制の維持の立場から共和派と対立し、亡命。一八〇〇年帰国。ナポレオン体制下には引退生活を送ったが王政復古後、政界に返り咲き、自由主義政党を指導、七月王政の成立に貢献した。(一七五七‐一八三四)
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ラ・ファイエット
らふぁいえっと
marquis de La Fayette, Marie Joseph Motier
(1757―1834)
フランス革命期の政治家、軍人。オート・ロアール県のシャパニックの侯爵家に9月6日生まれる。旧貴族の門閥として、16歳で軍職に身を奉じた。アメリカ独立革命が起こるや、ただちに渡航して義勇軍に加わる。ワシントンの知遇を得、各地で奮闘。「両世界の英雄」とたたえられた。1787年2月名士会に勅選され、三部会の開催を強く要望、議会主義への志向を表明した。1789年5月の三部会に貴族部門から出馬し、そのまま憲法制定議会の議員として活動。フランス革命の精神を内外に宣揚すべき「人権宣言」の起草にあたった。1790年7月14日の連盟祭には、主催側を代表し、儀式の司会役を演じた。同時に国民衛兵の総司令官に就任し、ミラボーと並び初期革命の大立て者とうたわれた。宮廷にも食い入り、革命の激化につれ、立憲王制を守りぬこうとしてフイヤン・クラブを結成。1791年7月、王の退位を要求するコルドリエ・クラブら主催のシャン・ド・マルス人民集会を弾圧し、デモ隊に多くの死傷者を生ぜしめた。「1791年憲法」を支持し、立法議会の同志議員を院外から支援した。1792年4月、革命戦争の勃発(ぼっぱつ)後、ジロンド派内閣に請われて全軍の司令官に就任。6月20日パリ市民の宮廷乱入事件の報を聞くや、無断で前線からパリに直行し、議会でジャコバン・クラブはじめ過激な諸機関の閉鎖と、乱入事件の責任者の処罰を要求したが、いれられなかった。また国王に対し腹心の部下の守るコンピエーニュ宮への移転を促したが、王妃の反対を浴び、これまた失敗した。前線に帰った彼は、8月10日のパリ市民によるチュイルリー王宮襲撃事件と王政の停止を聞き、もはやフランスに身の置き場もないと考えてか、幕僚とともに敵オーストリア軍に降伏した。その後オルミュッツ(チェコ名オロモウツ)に拘禁され、1800年に帰国したが、ナポレオンの治下では隠棲(いんせい)を続け、王政復古とともに政界に帰り咲いた。1830年の七月革命には、自由派の市民の指導者として活躍。一時は大統領候補のうわさにも上るが、七月王政の成立とともに、ルイ・フィリップ王の国民軍司令官を務めるにとどまった。1834年5月20日没。
[金澤 誠]
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ラ・ファイエット
La Fayette, Marie-Joseph-Paul-Yves-Roch-Gilbert du Motier, Marquis de
[生]1757.9.6. オーベルニュ,シャバニャック
[没]1834.5.20. パリ
フランスの軍人,政治家。富裕な武門の貴族出身で名誉心が強く,1777年アメリカ独立戦争に参加し G.ワシントンを助けて活躍,アメリカ,フランス両国から「新世界の英雄」とたたえられた。帰国して陸軍少将に昇進。 87年名士会の代表として政界に乗出し,89年5月オーベルニュの貴族代表となって全国三部会に参加。同年7月憲法制定国民議会が成立すると,アメリカ独立宣言をモデルとする「人権宣言」の第1次草案を提出し,議会の副議長に選出された。バスティーユ攻撃のとき,パリ市民軍司令官となり,この軍隊を国民衛兵軍として組織した。 90年7月シャン=ド=マルスの虐殺事件を指導,これがラ・ファイエットの人気と政治力の頂点であった。やがて議会内での彼の立場は,王党派からは革命派として,また急進派からは穏健派として攻撃されるようになった。サン=キュロットを弾圧し,立憲王政を主張してジャコバン派から離れ,91年フイヤン・クラブを結成。 92年8月 10日の革命により,軍団から指揮権を奪われ,彼の軍団も民衆側につき,議会からも追放された。アメリカ亡命を望んで国境を越えたが,オーストリア軍に捕われ5年間投獄された。 99年執政政府が成立するとフランスに帰国。その後ナポレオン帝政に反対して引退したが,1815年百日天下の際,下院議員として公生活に復帰し,議会の副議長としてナポレオン1世の退位に指導的役割を演じた。 30年の七月革命に再び国民衛兵司令官となりルイ・フィリップの立憲王政の樹立に尽力した。
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ラ・ファイエット
Marie Joseph Paul Yves Roch Gilbert Motier, marquis de La Fayette
生没年:1757-1834
フランスの政治家,大革命の指導者。オーベルニュ地方の侯爵家に生まれる。多額の遺産を相続し,軍人となるが,1777年単身アメリカに渡り,義勇兵として独立戦争に参加した。帰国後,87年に名士会,89年には全国三部会に貴族身分の議員として選出された。すでに〈新大陸の英雄〉として人気を博していた自由主義貴族ラ・ファイエットの名声はこれによりいっそう高まり,同年7月のバスティーユ事件の直後パリ国民軍司令官に指名され,〈両大陸の英雄〉となった。また革命勃発にあたっては人権宣言を起草した。しかしフーイヤン派に属する彼の政治的立場は立憲君主制の維持強化を図ることにあり(フーイヤン・クラブ),91年のシャン・ド・マルス事件では共和政請願のために集まった群衆を弾圧した。92年,共和政樹立を阻止するために軍事クーデタを企てたが失敗し,前線よりオランダに逃亡,オーストリア軍に〈革命家として〉逮捕された。5年の拘留ののち帰国し,王政復古期に自由主義的政治家,革命の象徴として人気を取り戻し,1830年七月革命で再度,国民軍司令官に指名された。
執筆者:小井 高志
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「ラファイエット」の意味・わかりやすい解説
ラ・ファイエット
フランスの軍人,政治家。貴族出身だが自由主義者で,アメリカ独立戦争(アメリカ独立革命)に従軍して名声を博した。旧制度を批判,フランス革命時に三部会議員。人権宣言起草に参加,パリ国民軍司令官となるが,フーイヤン派の領袖(りょうしゅう)として立憲君主制を主張して共和派と対立,1792年共和政樹立に際して亡命。1800年帰国後も自由主義的立場から反ナポレオン・反王政復古の態度をとり,1830年七月革命では再び国民軍司令官に推された。
→関連項目フーイヤン・クラブ
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ラ・ファイエット
Marie-Joseph, marquis de La Fayette
1757~1834
フランスの将軍,政治家。貴族の出でアメリカの独立戦争に従軍して自由主義者の名声を博し,革命勃発後はフイヤン派の領袖としてパリ国民軍司令官,ついで中央軍司令官となるが,1792年国外に亡命。ブリュメール18日後帰国したが,ナポレオン,復古王政に終始反対して89年革命の象徴的存在となった。七月革命で再びパリ国民軍司令官になる。
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ラファイエット
Marie-Joseph Motier, Marquis de La Fayette
1757〜1834
フランスの軍人・政治家
アメリカ独立戦争に参加。帰国後,三部会には貴族議員として選出され,自由主義貴族の中心となって革命を支持して人権宣言を起草し,国民軍司令官となった。フイヤン派の結成に参加し,立憲君主制を主張して国王と議会の仲介をはかったため,1792年の8月10日事件後は逮捕を恐れてオーストリア軍に投降。1800年の帰国後,第一帝政・復古王政には反対の態度をとり,七月革命には再び国民軍司令官となって活躍し,七月王政の成立に貢献。
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ラファイエット
《La Fayette》フランス海軍の航空母艦。1947年に退役したアメリカ海軍のインディペンデンス級航空母艦「ラングレイ」をフランスが借り受け、改称して再就役させたもの。1951年就役。インドシナ戦争、第二次中東戦争などに派遣。1963年、退役してアメリカに返却。
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世界大百科事典(旧版)内のラファイエットの言及
【国民軍】より
…その性格は時代と共に変化している。 1789年7月14日のバスティーユ攻撃の前夜,パリの選挙人集会が市民軍の結成を決議し,15日ラ・ファイエットを総司令官に任命し,国民軍60大隊を組織することとした。これに地方の各都市も呼応し,91年10月の法令によりその法的枠組みが定められた。…
※「ラファイエット」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」