ドイツの外科医。明治期のお雇い外国人の一人。1874年ハイデルベルク大学で医学を学び、ドクトルとなる。在学中プロイセン・フランス戦争に従軍、その後ベルリン、フライブルクの大学などで外科医学を学んだ。1881年(明治14)シュルツェEmil A. W. Schultze(1840―1924)の後任として東京大学医学部に招かれた。外科手術に優れ、温和で恬淡(てんたん)な気質で人気があり、1901年(明治34)名誉教師の称号を贈られ東京帝国大学を退任するまで在職20年に及び、ベルツが日本医学の父とよばれるように、彼は日本外科学の恩人と敬慕されている。日本で最初の腎臓(じんぞう)摘出手術や、縫合に絹糸を用いたことなどが知られている。
陸軍軍医総監で侍医の橋本綱常(1845―1909)、枢密顧問官青木周蔵らと親交があり、宮中、貴顕に交際が広く、大学の外科学教授としてだけでなく、陸軍軍医部における軍陣外科学、同衛生学、またベルツとともに中央衛生会委員として検疫、防疫体制の発展に尽力した。大学退任後は聖路加病院外科主任となり明治38年病没。日本人の妻神谷ヤスとの間に3男がある。
[神谷昭典 2018年8月21日]
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(長門谷洋治)
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…明治になるや政府は軍事病院(東京府大病院)と幕府時代の医学所とを合わせて医学校兼病院(のちに大学東校と改称)としたが,これが東京大学医学部の前身である。医学校兼病院長であったW.ウィリスはイギリス人であるが,その後(1869年,明治2年6月)ドイツ医学採用の政府決定により,ドイツ人のミュラーL.Müller,シュルツェW.Schultze,J.スクリバの順に大学東校(または東大医学部)教師として外科の講座を担当した。こうして明治以来,日本の医学はドイツ医学の影響を強く受けてきたが,第2次大戦後はアメリカ医学の影響下に置かれ,外科も例外ではなかった。…
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