コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

スティリコ

百科事典マイペディアの解説

スティリコ

ローマ帝国末期の軍人。バンダル族の出身。テオドシウス1世に見いだされ,ホノリウス帝(帝妃はスティリコの娘)の下で最高司令官となり,西ゴート王アラリックのイタリア侵入を撃退。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト百科事典マイペディアについて | 情報

世界大百科事典 第2版の解説

スティリコ【Flavius Stilicho】

365ころ‐408
ローマ帝政後期の将軍。ローマ軍に勤務するバンダル人の息子として生まれ,383年ころローマ軍将校となり,ペルシアへの使節団に参加した。帰国後テオドシウス1世の姪セレナと結婚,385年ころ親衛将校団長(コメス・ドメスティコルム)に昇進。392年ころおそらくはトラキアの全軍司令官となり,394年にはティマシウスTimasiusとともにエウゲニウス討伐戦の指揮を執る。戦勝後,帝国西部の全軍最高司令官に任じられ,395年1月テオドシウス帝の死に臨んで西帝ホノリウスの後見をゆだねられて,帝国西部の事実上の支配者となった。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

スティリコ
すてぃりこ
Flavius Stilicho
(365ころ―408)

西ローマ帝国の将軍。ローマ人の母とゲルマン民族のバンダル人の父との間に生まれる。テオドシウス1世の宮廷に仕え、数々の戦功をたてて昇進し、皇帝の姪(めい)セレナを妻とした。帝国の東西分治後、スティリコは2人の娘を相次いで西帝ホノリウスの妻とし、自身は西帝国の全軍最高司令官として絶大な権力を振るった。当時ゲルマン民族の本格的移動が始まっていたが、彼は帝国の防衛に努め、アラリックの率いる西ゴートの進出に対しては、マケドニア、ダキアの支配権をめぐって対立していた東帝国側のたび重なる妨害にもかかわらず、たびたびこれを撃破し、ついにポレンティア(402)とベロナ(403)でアラリックの軍を打ち破り、イタリアから退却させた。さらに405年、ラガダエススの率いる20万以上のゲルマン人の大軍を撃退した。
 その後、スティリコはアラリックと結んで東帝国に対抗しようとしたが、まもなくバンダル人、スエビ人、アラマン人などの侵入が起こり、さらにブリタニア軍団の擁立した簒奪(さんだつ)帝コンスタンティヌスが勢力を広げ、西帝国の情勢は悪化した。他方スティリコとホノリウス帝との対立が強まり、スティリコが息子エウケリウスとホノリウス帝の異母妹ガッラ・プラキディアとの結婚を画策すると、これが息子を皇帝にしようとする野望との疑いがかけられ、さらに当時高まっていたゲルマン人に対するローマ人の反感もあって、408年に捕らえられ、処刑された。[島 創平]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

世界大百科事典内のスティリコの言及

【オリュンピウス】より

…西ローマ政府の高官。黒海地方出身で,ホノリウス帝治下にスティリコを介して宮廷官職を得る。同帝とスティリコの間に生じた不和を利して,軍隊の間に反スティリコ・反ゲルマン気運を高め,スティリコ処刑に至らしめた(408年8月)。…

【ローマ】より

…西では,ホノリウスの死後,簒奪者ヨハンネスの間奏曲を挟んで,ホノリウスの異母妹ガラ・プラキディアの息子ウァレンティニアヌス3世(在位425‐455)が帝位を占めた。ホノリウス治世の前半はバンダル出身のローマ軍司令官スティリコが政治の実権を握り,ウァレンティニアヌス3世の治世は母ガラ・プラキディア(450没)の影響下にあった。このテオドシウス朝期の西の帝国は相次ぐゲルマン諸族の侵入と帝国領内での建国,帝国政府の直接統治領の縮小,そして税収の枯渇によって特徴づけられる。…

※「スティリコ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

スティリコの関連キーワードテオドシウス[1世]アラリック[1世]ガラ・プラキディアクラウディアヌスヘラクリアヌスアルカディウスエウトロピウスオリュンピウスルフィヌスギルド

今日のキーワード

異常天候早期警戒情報

5日から 8日先を最初の日とする 7日間の平均気温がかなり高い,またはかなり低い確率が 30%以上と見込まれる場合に注意を呼びかけるため気象庁から発表される情報。低温や猛暑が長く続くと,人の活動や農作...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android