翻訳|Sumatra
インドネシア西部、大スンダ列島の西端に位置する島。北西から南東方向に長く、延長約1750キロメートル、最大幅450キロメートル、面積43万3800平方キロメートルで、同国第2位、世界第6位の大島である。人口4330万9707(2000)。構造的にはアルプス造山帯に属し、島の西岸沿いを走る脊梁(せきりょう)山脈、とくに南部のバリサン山脈には最高峰のクリンチ火山(3805メートル)をはじめ約90の火山が連なる。同山脈中には高原、盆地、湖水などが多数点在し、標高が高いことから赤道直下であるにもかかわらず温和な気候に恵まれる。このため北部のトバ、中部のパダンなどの高原は人口稠密(ちゅうみつ)地域となり、スマトラ島の経済活動の中心的存在をなしている。島の中・南部の東側は広大な沖積平野が展開する。これは巨大な脊梁山脈から流れ出すムシ、バタン・ハリ、インドラギリ、カンパルなど幾筋かの大河川によって形成されたもので、大部分が低湿地をなし、密林に覆われる。耕地は、東流する諸河川に沿って開けているにすぎない。海岸は、西岸はインド洋に面し山地が海に迫るため断崖(だんがい)が随所にみられ、またサンゴ礁および隆起サンゴ礁段丘が発達している。これに対して東岸は、東経100度線上のタンジュンバライ以東は低湿なデルタの海岸からなる。気候は、山間の高原地帯を除けば概して弱い乾期のある熱帯モンスーン気候である。年平均気温26~29℃、年降水量2333ミリメートル。もっとも雨量の多い西岸地方は南西モンスーンの影響を強く受けるため、年降水量4000ミリメートル以上を記録する。
スマトラ島には多数の民族が居住し、その分布、言語、文化はきわめて複雑である。すなわち、中部のパダン高原を中心とするミナンカバウ、トバ湖周辺のバタック、北西部のアチェー、南部のランポンの4民族が大きな集団をなし、そのほかガヨ、マレー、ニアスなどいくつかの民族が独自の文化と慣習をもち居住している。
スマトラ島の経済開発は、1904年にオランダが植民地として支配するようになってからである。東部の山麓(さんろく)や沖積平野のタバコ、天然ゴム、コーヒー、コプラ、紅茶などのエステート(大農場)と、石油を中心とした地下資源の開発を二本柱としたものであった。その後、土着農業が商品作物の生産に結び付き、急速な発展を遂げた。とくに天然ゴムの生産はインドネシアの大半を占め、同国はタイに次ぐ世界第2位の生産国(世界総生産の26.3%、1998)であり、原油、天然ガス、石油製品に次ぐ重要な輸出品となっている。一方、油田は東部の南スマトラ州、北西部のナングロ・アチェー・ダルサラム州に分布しており、全国産油量の70%以上を占める。前者の州にはスマトラ島第二の大都市パレンバンがあり、巨大な精油所が建ち並び、名実ともにインドネシアのみならず東南アジア最大の油田地帯を形成している。その開発は20世紀の初期、イギリス、オランダの両国によって行われたものである。また、近年、森林資源の開発も行われている。
行政上は、ナングロ・アチェー・ダルサラム、北スマトラ、西スマトラ、リアウ、ジャンビ、南スマトラ、ベンクル、ランポン、バンカ・ビリトゥンBangka Belitungの9州からなる。
[上野福男]
7世紀後半スマトラ南部に興ったシュリービジャヤは、マラッカ海峡の交易を支配した海洋貿易国家であると同時に、交易を通じてインドの文化を受容した仏教王国でもあった。王国の版図は一時スマトラの大半、マレー半島、西ジャワにも及んだが、11世紀初め南インドのチョーラ朝による二度の攻撃のためその勢力は衰え始め、14世紀なかばごろジャワのマジャパヒト王国の攻略を受けて滅亡した。当時スマトラ北端の小王国にイスラム教が浸透し始め、16世紀初頭にはこれらを統一したイスラム王国アチェーが成立した。一方、ポルトガルのマラッカ占領(1511)以降、ヨーロッパ勢力は急速にマラッカ海峡地域へ進出し始めた。スマトラ各地も17世紀初頭から19世紀なかばごろまでに主としてオランダに領有されていった。1871年の条約によりイギリスはスマトラから撤退し、オランダが同島の植民地経営を行うこととなった。頑強に抵抗していたアチェーは1904年に、バタックも07年にオランダに敗れ、スマトラ全島はオランダの植民地となった。オランダは19世紀後半から鉱山開発に着手し、1883年には早くもランカット油田の採掘をヨーロッパ企業に許可した。20世紀に入るとゴム、タバコ、コーヒー栽培がスマトラ東海岸地域を中心に拡大された。1920年代に反植民地運動が活発化すると、スマトラ(とくにミナンカバウ)は多数の指導者を輩出した。第二次世界大戦中は日本軍に占領され、1945年の独立以後スマトラはインドネシア共和国の一部を構成した。しかし、一部にはジャワ中心の政治体制に不満を抱く勢力もあった。彼らは1956年末に反政府反乱を起こしたが、まもなく鎮圧された。
[大木 昌]
インドネシア西部の大きな島。面積47万3600km2で世界6位。人口4330万(2000)。大スンダ列島の西端をなし,西海岸に沿いヒマラヤ系統の高いバリサン山脈が島を北西から南東に貫く。この山脈は火山活動を伴い,最高峰クリンチ山(3805m)をはじめ,多数の高山がそびえる。また,この山脈は並行した数条の山系からなり,その間にミナンカバウ高原や肥沃な多くの谷,トバ湖その他の湖水を含み,古くからスマトラの人間活動の重要な舞台となった。一方,東海岸はスンダ海棚の陸化した広大な低地で,バリサン山脈に発源する多くの大河が蛇行する。下流は大湿原をなすが,マラッカ海峡からの可航河川として役割は大きい。赤道が島の中央を通り全体に高温多湿で,ことに南西モンスーンに直面する西海岸は雨が多く,パダンでは年間4000mmに達する。このため一般に熱帯密林に覆われる所が多い。直径1mもの世界最大の花をもつラフレシアはスマトラの原産である。動物はジャワに近いにもかかわらずボルネオと同一系統のものが多い。
民族は地域により複雑である。西岸沖合ニアス島のニアス族,本島中部のバタク族などはプロト・マレー系であるが,北部のアチェ族,西部高原のミナンカバウ族,南部のランポン族,東海岸のマレー人などはいずれも開化(第2次)マレー系である。このほか海岸各地にインド・アラブ系,中国系住民もおり,南部にはジャワ族の集団移住地もみられる。スマトラは地理的位置が東西交通の要地に当たるため,早くから外来人と接触したが,特にインド文化の影響は大きく,初めはヒンドゥー教,ついで仏教が優勢となり,7世紀にはパレンバンに都したスリウィジャヤ国が栄え,のちにはミナンカバウ族が島の大部分を支配した。さらに14世紀ころから東進してきたイスラム勢力は,アチェ族を改宗させて強大なスルタン王国をつくらせた。近世にはイギリスとオランダが島の支配権を争ったが,結局オランダが全島を領有した。しかしアチェ族の抵抗は20世紀初めまで続いた。現在,行政的には3州に分けられている。
スマトラはジャワと異なり,人口はまだ過剰でない。しかも資源の豊かな地域で,現在,インドネシアの輸出用産物の過半を産し,国の外貨獲得にとって重要な地域となっている。土着農業はまだ焼畑による所も多いが,オランダ領時代から開発されたゴム,コーヒー,タバコ,コプラなどのプランテーション農業は今も続く。しかし第2次大戦後は経営が現地住民の手による小規模なものに変わった。天然ゴムは世界の生産の1/4近くを占め,マレーシアに次いでいる。国際的に最も重要なものは地下資源で,特にパレンバン,テラナイプラ(ジャンビ)などの油田はインドネシア石油の70%を占める。ボーキサイト,スズ(いずれも属島から),石炭も産出する。さらになお全島の60%を覆う森林も貴重な資源で,政府はスマトラを第2のジャワとすべく開発に努めている。近年の発展はめざましく,都市人口の増大,交通網の整備,日本の協力をうけたアサハン川の水力発電と工業化などは,その具体例である。
執筆者:別技 篤彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…これに対しサフール海棚はニューギニアとともにオーストラリア大陸と連接し,浅いアラフラ海を形成する。そしてこの二つの海棚間に第三紀の強い造山運動によってスンダ山系を生じ,スマトラ島から東へ連なる大小スンダ列島を生じた。これは遠くヒマラヤ造山帯に連なる山系で,激しい火山活動を伴い,世界的な火山地帯となっている。…
※「スマトラ島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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