日本大百科全書(ニッポニカ) 「スマローコフ」の意味・わかりやすい解説
スマローコフ
すまろーこふ
Александр Петрович Сумароков/Aleksandr Petrovich Sumarokov
(1717―1777)
ロシアの劇作家。名門貴族の出身で、幼年学校卒業後しばらく軍隊に勤務し、エリザベータ女帝の寵臣(ちょうしん)ラズモフスキー伯爵の副官などを務める。軍務のかたわら、ラシーヌ、モリエールなどフランスの作家の影響を受けて『ホレーフ』(1747)、『シナフとトルウォル』(1750)、『僭称(せんしょう)者ドミトリー』(1771)など、歴史上の人物を主人公とする九編の悲劇を書いて、劇作の分野におけるロシア古典主義文学の代表者となった。これらは時、場所、筋の三一致という古典主義の厳密な規則に従ったロシア最初の作品で、どの悲劇にも共通してみられるテーマは、個人的感情と国家への義務の相克であり、つねに後者が勝ちを収める。劇作家としての経歴を買われ、ペテルブルグに創設されたばかりの国立劇場の支配人に任命され、レパートリーの選定や俳優の演技指導から財政や広告面の仕事まで一手に引き受けて活躍(1756~61)。また1759年にはロシアで初めての文芸雑誌『働き好きな蜜蜂(みつばち)』を創刊した。悲劇のほかに、現実のロシアの日常生活に題材をとった『母は娘の相談相手』(1772)、『けんか好きな女』(1772)、『妻を寝とられたと想像した男』(1772)など12編の喜劇や、数多くの寓話(ぐうわ)詩、頌詩(しょうし)、叙情詩などがある。晩年はエカチェリーナ2世の側近と折り合わず、窮死した。
[中村喜和]