改訂新版 世界大百科事典 「スムータ」の意味・わかりやすい解説
スムータ
Smuta
ロシア語で〈動乱〉の意であるが,歴史用語としては17世紀初頭のロシアの動乱をいい,〈動乱時代Smutnoe vremya〉とも呼ぶ。ソ連邦の歴史学は,1917年の革命前に普及していたこの〈スムータ〉という術語・概念を排し,〈外国干渉と農民戦争〉という側面を強調している。
ボリス・ゴドゥノフ政権が〈フロプコの蜂起〉鎮圧に忙殺されていた1603年,ポーランドにロシアの皇帝イワン4世の皇子ドミトリーと自称する青年が現れる。ポーランドの貴族や国王は,その青年を利用する策を立てた。04年10月,偽ドミトリーはポーランド人部隊を率いてロシアに侵入し,ここに〈スムータ〉が始まる。ゴドゥノフ政権に不満をもつロシアの民衆は偽ドミトリーのモスクワ進撃に次々と参加した。モスクワの貴族たちも本物のドミトリーと信じこまされ,彼の入城を盛大に迎え,05年7月には即位式が挙げられた。しかし1年余を経てモスクワに反ポーランド人蜂起が起こり,偽ドミトリーは殺害され,名門貴族のワシーリー・シュイスキーが皇帝に推される(ワシーリー4世,在位1606-10)。一方,この年の夏,北ウクライナのコマリツカヤ郷に始まった農民蜂起は,従軍ホロープ(奴隷)出身のイワン・ボロトニコフを指導者として急速に勢いを増し,南ロシア各地の農民,コサック,ホロープ,さらに士族の一部の参加をも得てモスクワに迫った。しかし,決戦に敗れてトゥーラに退き,4ヵ月の攻防戦のあと,07年10月に降伏した(ボロトニコフの乱)。
そのころ第2の偽ドミトリーがポーランド人部隊を率いてロシア国内に侵入していた。08年夏にはモスクワ近郊のトゥシノに本営を構え,多くの都市を占領したが,モスクワを陥落させることはできなかった。シュイスキー政権も独力でトゥシノを下すことができず,09年2月の条約で国境の領土を犠牲にしてスウェーデンの援助を受けることにし,同年内に若干の都市を回復した。10年に入ると,シュイスキーに対抗して偽ドミトリー2世の側に立っていた貴族たちがポーランド国王ジグムント3世に働きかけて軍事同盟を結び,代りにその王子ウワディスワフをロシア皇帝に迎えることを約束した。見捨てられた偽ドミトリー2世はカルーガに逃れたが,そこで殺された。スウェーデンと結んだシュイスキーは,モスクワの貴族たちからも反感をもたれ,10年7月に退位させられた。実権を握った〈七人貴族政府〉は,同年9月ポーランド軍のモスクワ占領を許した。この時点からロシア国民にとって首都解放が課題となった。10年末から11年初めにかけて解放のための武力闘争を呼びかける檄が現れたが,モスクワ総主教ゲルモゲンGermogenの諸都市への回状も国民に奮起の念を呼び起こした。リャザンの軍令リャプノフProkopii Lyapnov,偽ドミトリー2世から貴族の位を授けられたトルベツコイDmitrii Trubetskoiおよびコサックの首領ザルツキーIvan Zarutskiiの3人を指導者とする第1次解放軍が結成された。しかし,解放軍内部で士族とコサックが対立し,11年7月リャプノフが殺害されて,モスクワ攻略の前に解体した。ポーランド軍がスモレンスクを占領,スウェーデン軍がノブゴロドを支配し,状況はさらに深刻化した。11年秋ニジニ・ノブゴロドの商人たちがクジマ・ミーニンKuz'ma Mininの提唱に応じて軍資金を拠出したのを契機に第2次解放軍が編成され,ポジャルスキーDmitrii Pozharskiiを総指揮者として,12年10月ようやくモスクワの解放を達成した。13年2月,全国会議で皇帝に推されたミハイル・ロマノフは,7月に即位式を挙げ,ここに〈スムータ〉は一応終りを告げる。
国内の治安の回復と荒廃からの立直りには多くの年数がかかった。スウェーデン,ポーランドとの戦争も長引き,17年のスウェーデンとの講和ではバルト海への出口,18年のポーランドとの休戦ではスモレンスクを回復できなかった。〈スムータ〉は対外的警戒心や宗教的民族感情の高揚などロシア人の思想や文化にも一定の影響を与え,またこの後ミーニンとポジャルスキーが民族解放の英雄とされ,モスクワの〈赤い広場〉にも1818年その記念碑が建てられた。
執筆者:石戸谷 重郎
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