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セスペデス Céspedes, Carlos Manuel de

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

セスペデス
Céspedes, Carlos Manuel de

[生]1819.4.18. バヤモ
[没]1874.2.27. サンロレンソ
キューバ独立運動の先駆者。フルネーム Carlos Manuel Perfecto del Carmen Céspedes y del Castillo。大農園主のもとに生まれた。スペインで法律を学び,帰国後,秘密裏に独立運動を組織した。1868年10月10日,オリエンテ地方のヤラの町で独立を宣言し(→ヤラの叫び),スペインに対する独立戦争を始めた(→十年戦争)。1869年には革命政府の大統領に選ばれたが,1873年辞任。翌 1874年スペイン軍に殺害された。(→キューバ史

セスペデス
Céspedes, Pablo de

[生]1538. コルドバ
[没]1608. コルドバ
スペインの画家,彫刻家,詩人。ラ・デ・エナレス大学で学び,1560年代にイタリアを旅行してミケランジェロやラファエロの作品を模写。またマニエリスムの画家ツッカロの工房に出入りする。ローマで彼はサンタ・マリア・ダラコエリ聖堂およびトリニタ・ディ・モンティ聖堂のために壁画を描く。帰郷 (1576~77) 後コルドバの大聖堂に『最後の晩餐』 (セビリア美術館) を制作。2度目のローマ旅行 (83~85) ののち,セビリア大聖堂の円天井に装飾画を制作 (のちにムリリョによって修復される) 。作風はコレッジオとツッカロの影響を強く受けており,強い明暗の対比と極端な短縮法を特徴とする。詩『絵画術』の著者としても知られている。

セスペデス
Céspedes y Meneses, Gonzalo de

[生]1585? マドリード
[没]1638. マドリード
スペインの小説家。『兵士ピンダロの多難な運命』 Fortuna varia del soldado Píndaro (1626) が代表作。政治的著作が当局の忌諱に触れ,サラゴサとリスボンに亡命したが,のちにフェリペ3世を賛美する歴史書を書き,王室おかかえの歴史家となった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

セスペデス Cespedes, Gregorio de

1551-1611 スペインの宣教師。
イエズス会司祭。天正(てんしょう)5年(1577)長崎に来着。京坂各地で布教,豊臣秀吉謁見。15年細川ガラシャの入信を手引きした。文禄(ぶんろく)の役には小西行長にしたがって朝鮮にわたる。慶長7年より細川忠興(ただおき)の城下豊前(ぶぜん)小倉(福岡県)で活動,慶長16年11月同地で病死。60歳。マドリード出身。

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朝日日本歴史人物事典の解説

セスペデス

没年:慶長16.11(1611)
生年:1551
スペイン人イエズス会士。マドリード生まれ。1569年イエズス会入会,75年インドのゴアで司祭になり,天正5(1577)年来日し大村(長崎県)で日本語を学んだのち,岐阜,大坂で布教。同15年大坂の教会で細川忠興夫人玉子の来訪を受ける。玉子はこれを契機にキリシタンとなり,ガラシアの名を持つ。秀吉のキリシタン追放令で平戸へ移る。文禄の役に際し小西行長と朝鮮へ渡る。ガラシア夫人の指導司祭であったことから忠興の信頼を得,慶長6(1601)年忠興が小倉を領すると同地にレジデンシア(コレジョに属する分区)を創設,ガラシアの命日には荘厳な追悼ミサを挙行。同16年小倉で急死。それまで教会を保護していた忠興は宣教師を領内から追放した。

(片岡瑠美子)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について | 情報

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