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タンネンベルクの戦い タンネンベルクのたたかいBattle of Tannenberg

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

タンネンベルクの戦い
タンネンベルクのたたかい
Battle of Tannenberg

グルンワルトの戦いとも呼ばれる。 1410年7月 15日のドイツ騎士団ポーランド=リトアニア軍との戦い。ポーランド=リトアニア軍は,ボヘミア傭兵を配下におき,またロシアの支援を得て大勝を博しプロシアに進出,ドイツ騎士団衰退の端緒となった。なお,タンネンベルクはポーランド北東部,オルシュティン南西約 40kmにある村で,ポーランド名ステンバルク。またグルンワルトはタンネンベルクに隣接する村。

タンネンベルクの戦い
タンネンベルクのたたかい
Battle of Tannenberg

第1次世界大戦初期,1914年8月26~30日に戦われたドイツとロシアの会戦。ロシア軍総司令官ニコライ大公は,同盟国フランスに対するドイツ軍の圧力を緩和するため,パーベル・レンネンカンプ率いる第1軍とアレクサンドル・サムソノフ率いる第2軍にドイツ領東プロシアへの侵攻を命じた。ロシア第1軍は 8月20日グンビンネンでの戦いで優位に立ったが,第2軍との連携を欠いていた。ドイツ軍指揮官パウル・フォン・ヒンデンブルクとエーリヒ・ルーデンドルフは,参謀マックス・ホフマンが立案した作戦を推し進め,ウズドボ付近で孤立していたロシア第2軍に対して全兵力を投入した。第2軍は数日のうちに戦力のおよそ半分を失い,サムソノフは 8月29日に自殺,ロシア軍兵士およそ 9万2000人がドイツ軍の捕虜となった。ロシア軍はさらに 3万の死傷者を出したのに対し,ドイツ軍の死者は 1万3000にとどまった。戦いはロシア軍の惨敗に終わったが,西部戦線からドイツ軍 2個軍団を引き離すこととなり,マルヌ川の会戦でフランス軍が勢いを取り戻す要因の一つとなった。

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デジタル大辞泉の解説

タンネンベルク‐の‐たたかい〔‐たたかひ〕【タンネンベルクの戦い】

第一次大戦初期の1914年8月、ドイツ東部国境、タンネンベルク付近でヒンデンブルクの指揮するドイツ軍が、サムソノフ率いるロシア軍を全滅させた戦い。

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大辞林 第三版の解説

タンネンベルクのたたかい【タンネンベルクの戦い】

第一次大戦初期の1914年八月、タンネンベルクで、ヒンデンブルク指揮のドイツ軍がロシア軍を包囲作戦により破った戦い。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

タンネンベルクの戦い
たんねんべるくのたたかい

ポーランド北東部のタンネンベルクTannenberg(現ステンバルクStbark)で行われた二つの戦い。(1)ポーランド等がドイツ騎士団を決定的に打破した1410年7月15日の戦い。ポーランドではグルンバルトGrunwaldの戦いとよぶ。13世紀にバルト海沿岸北部を支配していたドイツ騎士団は、勢力拡張を図ってリトアニアを攻撃した。ウワディスワフ2世Wadysaw (在位1386~1434)の率いるポーランド、リトアニア、ルーシ連合軍はこれを打破、ドイツ東進を食い止めた。(2)第一次世界大戦緒戦期に、ドイツが大勝した1914年8月26~30日の戦い。ヒンデンブルク将軍指揮下のドイツ軍が、奇襲と包囲作戦によって、サムソノフ将軍のロシア軍に壊滅的打撃を与えた。[木戸 蓊]

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