タンマラカ(英語表記)Tan Malaka

改訂新版 世界大百科事典 「タンマラカ」の意味・わかりやすい解説

タン・マラカ
Tan Malaka
生没年:1897-1949

インドネシアの思想家,革命家。西スマトラの敬虔なイスラム教徒の家に生まれ,1913年オランダに留学。滞在中,第1次世界大戦とロシア革命に触れて社会主義への傾斜を深め,祖国解放を目ざす。帰国後,教員生活を経てインドネシア共産党に入党,21年同党議長に就任し反植民地闘争を指導したが,翌年追放。以後42年に帰国するまで,ソ連,中国,フィリピン,タイ,シンガポールなどで,初めはコミンテルンの工作員として活動し,27年には武装蜂起で壊滅した共産党に代わるインドネシア共和国党を設立し独自の運動を行った。日本軍侵攻後ひそかに帰国,3年間の潜伏生活を経て45年8月17日の独立宣言後に活動を再開。スカルノらに対抗して闘争同盟を結成し独立闘争を指導したが,49年ゲリラ戦中に死亡した。インドネシア,フィリピン,タイ,ベトナム,ビルマ(現,ミャンマー)および熱帯部オーストラリアを包括する社会主義共同体(アスリア連合)を唱え,また共産主義イスラムの両立を目ざすその遠大な革命思想は,インドネシア史に特異な位置を占める。主著は《大衆行動》《唯物論・弁証法・論理学》,自伝牢獄から牢獄へ》。
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世界大百科事典(旧版)内のタンマラカの言及

【七月三日事件】より

…この事件では,後者がシャフリル首相ら外交派の政府要人を拉致し,権力の奪取をはかったとされる。計画は失敗してタン・マラカら闘争派は封じ込められ,以後,シャフリルの親西欧協調路線が大枠としてインドネシアの政治をリードする契機になった。事件には謎が多く,反対派の一掃を狙った政府の陰謀という説もある。…

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