改訂新版 世界大百科事典 「ダルマツィア」の意味・わかりやすい解説
ダルマツィア
Dalmacija
クロアチアの南海岸部の名称。正確には北はリエカとザダル間のベレビットVelebit山塊(最高峰1746m)から,南はユーゴスラビアのコトル湾までの海岸線を,東は後背地のディナル・アルプス山脈,西部はアドリア海中央以東の島々を含む。主要都市はスプリト,ザダル,シベニク,ドゥブロブニク。北西部や南端の一部を除くとすべて起伏のはげしいカルスト地帯なので,可耕地はきわめて少ない。暑い夏と穏やかな冬という典型的な地中海式気候のため,ブドウ酒用のブドウ,野菜,果物とくにオリーブ,イチジク,アーモンドなどが栽培されている。地下資源はボーキサイト,泥炭,アスファルトなど。クルカ川,ツェティナ川は水力発電に利用されている。
ダルマツィアは,先住者であるイリュリア人のダルマタエ族にちなんでローマ人が名付けた。ただし当時のダルマティア州はイストラ半島からシュコダル湖まで,内陸部はサバ川から西モラバ川まで及んだ。5世紀以降,ビザンティン領となっていたこの地へ,7世紀初めスラブ人が移住した。しかしローマ人の一部はなおいくつかの都市部に12世紀ころまで残存した。10~11世紀にはクロアチアの領土となった。その後ハンガリーとベネチアの係争地域として目まぐるしく支配者が替わったが,15世紀から18世紀末まではベネチアが覇権を握り,ザーラ(ザダル)に総監督官,各地に監督官を置いて統治した。オスマン・トルコとの絶えまない交戦にもかかわらず,イタリア文化の影響は大きく,人文主義者のマルリッチMarko Marulić(1450-1524),詩人グンドゥリッチ,科学者ボシュコビッチRudjer Bošković(1711-87)が輩出して,他の南スラブ地方に見られぬ知的水準に達していた。18世紀末ナポレオン戦争の結果ダルマツィアはオーストリアへ譲渡され,1805年にはフランス領となり,15年のウィーン会議で再びオーストリアに帰属した。1905年のフィウメ決議やザーラ決議でクロアチアとの連合を要求したが,ハプスブルク帝国の分断政策はこれを許さず,第1次大戦後ようやく新生ユーゴスラビアへ編入された。このときイタリア領土とされたザダルなど二,三の都市も第2次大戦ですべてユーゴスラビア領となった。
伝統的な漁業のほか,戦後はセメント・アルミニウム・造船・繊維・食品工業が発達した。見のがせないのは観光産業で,ヨーロッパ随一の日照時間を誇るフバル島,いたるところに見られるギリシア時代からベネチア支配時代までの遺跡と,見るべきものにこと欠かない。とくにローマ時代の中心地サロナ遺跡,スプリトのディオクレティアヌス帝宮殿(3世紀),ザダルの聖ドナト教会(9世紀),シベニクの大聖堂(16世紀),中世の城塞都市ドゥブロブニクなどは,西洋文明が辺境でいかに根づいたかをうかがうかっこうの教材であろう。
執筆者:田中 一生
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報