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チベット問題 チベットもんだい

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

チベット問題
チベットもんだい

政教一致の文化をもつチベット人が中国からの独立や高度の自治を求めて生じている紛争。近来は中国当局によるチベット人の宗教・自由の抑圧が人権問題だとして国際問題化している。チベットは 18世紀後半に中国の版図となり,清国が宗主権をもつが内政はダライ・ラマ政庁が握る状態で推移した。 1911年の辛亥革命後,イギリス,チベット,中国がチベットの帰属問題を協議 (13年シムラ会議 ) ,事実上の独立国だとするイギリス,チベット側と中国が対立し,合意にいたらないまま,中華人民共和国が樹立された。中国は軍隊を派遣,チベット側と協定を結び (51.5.) ,西部チベットに限って「区域自治」方式で統合を進めた。 59年3月,改革の強制や漢民族の移住に怒ったラマ教指導者が反乱を起したが鎮圧され,ダライ・ラマ 14世はインドに亡命,ダルムサーラに亡命政府を樹立した。 64年にはダライ・ラマに代ったパンチェン・ラマ 10世もその座を追われ,65年チベット自治区が成立。文化大革命中には大規模なチベット仏教 (ラマ教) 寺院の破壊が行なわれた。 80年からチベット反乱者の名誉回復,信教の自由,ダライ・ラマの中国帰還に許可など融和策をとりつつ,漢化が進められ,その後もチベットでは独立運動,反漢民族の暴動が起っている。 89年3月には人民解放軍が出動,1年あまりラサ地区に戒厳令が敷かれた。ダライ・ラマは,チベットの平和地帯化,人権尊重,漢民族の移住禁止,核兵器生産の停止などとともに,「チベット全土を中華人民共和国と協同して民主的な自治地帯にする」よう求めている (87.9.21.アメリカ下院での演説,88.6.15.ストラスブール・ヨーロッパ議会での演説) が,中国政府は「チベットは中国の不可分の領土」だと主張し,歩み寄りの気配はない。 89年にダライ・ラマがノーベル平和賞を受賞して以来,世界の関心がチベットに集っている。

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知恵蔵の解説

チベット問題

チベットでは1988年の春と秋に、漢民族のチベット支配に抵抗し、独立を求めるラマ僧ら数千人規模のチベット族の反乱デモが起こった。89年3月には1万人規模の暴動に発展して、首都ラサ及び周辺地区に3月8日、当時の胡錦涛(フー・チンタオ)チベット自治区党委書記の下で戒厳令が公布された。チベットでは、59年のチベット動乱で宗教的指導者ダライ・ラマ14世がインドに亡命して以来、パンチェン・オルドニ・チェジチェンツアン(パンチェン・ラマ)が指導者となったが、89年1月末、チベット自治区で急死。追悼大会が2月上旬にラサで催された直後から、チベット情勢は険悪化し、3月上旬にはチベット動乱30周年の大暴動となった。中国当局は、チベット族に対する文化大革命期の強圧策への自省もあってチベット族優遇政策を講じてきたものの、チベット自治区への漢人の大量移入が進み、雇用機会が大幅に減少するなど、チベット族の不満が高まっていた。外貨収入を得るために「チベット観光」が始まり、ラマ教寺院の修復も行われたりはしたが、半面、ラマ教の布教の自由を奪ったままチベット族政治犯を過酷な状態に放置しているという現実があった。中国当局は「西部大開発」の一環としてチベットの経済基盤を強化する政策をとっているが、漢民族のチベット支配という構造は変化せず、「抑圧―反乱―抑圧」が繰り返されている。このような中、89年度のノーベル平和賞が同年10月、ダライ・ラマに与えられた。戒厳令は90年5月1日に解除され、91年5月にはチベット解放の和平協定40周年を迎えたものの、93年5月、96年5月にも大規模な反乱が生じた。亡命中のダライ・ラマは、95年5月、青海省生まれのチベット人少年をパンチェン・ラマの「転生霊童」と認定したが、中国当局はこれを承認していない。97年3月、ダライ・ラマが初めて台湾を訪問するなど国際的関心が高まり、中国当局はテレビ・ドキュメント「ダライ・ラマ」を放映するなどして、ダライ・ラマの相次ぐ台湾訪問、米国訪問を非難した。2000年1月には、チベット仏教のカギュー派最高位の活仏カルマパ17世(当時14歳)がヒマラヤを越えて中国を脱出、インド領ダラムサラの「チベット亡命政府」に逃れて内外に衝撃を与えた。しかし、近年はダライ・ラマの一族が訪中するなど、関係がやや改善されつつあるが、07年のダライ・ラマの訪米やドイツ訪問による両国首脳との会談に中国は強く反発していた。

(中嶋嶺雄 国際教養大学学長 / 2008年)

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

チベット問題

1949年の新中国成立から間もない51年、人民解放軍がラサに進駐。チベット族側の反発が広がった。59年の動乱を軍が鎮圧。ダライ・ラマ14世はインドに脱出し、亡命政府を樹立した。65年、中国でチベット自治区が成立。その後も抗議行動が続き、89年にはラサに戒厳令が敷かれた。08年にもラサなどで大規模な騒乱が起きた。中国のチベット族居住地域はチベット自治区のほか、青海、甘粛、四川、雲南各省にある。

(2015-09-01 朝日新聞 朝刊 1外報)

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百科事典マイペディアの解説

チベット問題【チベットもんだい】

チベットの地位をめぐる問題。チベット仏教(ラマ教)という高度な精神文化をもつチベット人は,17世紀以降ダライ・ラマを宗教・政治の頂点としてチベット地域を支配していたが,18世紀半ば中国の清朝はチベットを保護国化した。
→関連項目シムラ会議チベット[人]南アジア

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世界大百科事典 第2版の解説

チベットもんだい【チベット問題】

チベット問題とは,国際的には主として中印国境問題であり,国内的には漢族とチベット族の関係すなわち少数民族問題およびチベット自治区の民主改革問題のことである。チベットは清朝統治下にあっても,ダライ・ラマを頂点とする独特の宗教支配をたもってきた。19世紀末にイギリスがインドからチベットをうかがうにいたり,世界の屋根につらなるこの秘境も列強の勢力拡張競争の一舞台となった。ヤングハズバンドに率いられたイギリス軍は1904年(光緒30)ラサを占領してチベット・インド条約を結び,チベットにおけるイギリスの優越的地位を確保した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

チベット問題
ちべっともんだい

チベット仏教にもとづく、政教一致の文化をもつチベット人が中国からの独立ないし高度な自治を求めていることから生じている紛争、および諸問題。近来、当局に抵抗する僧侶の焼身自殺が頻発し、チベットでの宗教や自由への圧迫が人権問題だとして国際問題化している。宗教指導者ダライ・ラマ14世は1959年にインドに亡命、ダラムサラに亡命政府(ガンデンポタン)をつくっている。中国に住むチベット人は682万人、うち270万人がチベット自治区に、他は青海(せいかい)・甘粛(かんしゅく)・四川(しせん)・雲南(うんなん)などの自治州に住む(2010年中国人口センサス)。[毛里和子]

三つの「チベット」

チベット問題は新疆(しんきょう)ウイグルや内モンゴルの問題より複雑である。まず「実際上の独立」の歴史が長く、中華人民共和国になっても1959年3月の反乱でようやく本土への統合が始まり、行政系列に入ったのは1965年にチベット自治区ができてからである。次にチベットがもつ政治的、宗教的、文化的特殊性、さらには海抜4000メートルを超える自然の要害という条件も統合をむずかしくしている。また、「チベットとは何か」が中央権力とチベット人の間で異なっている。ダライ・ラマ14世・チベット亡命政府が主張する「大チベット」構想では、ウツァン(中央チベット)を囲む周辺チベット(アムドは青海ほぼ全域と甘粛の一部、カムはかつての西康西部、いまの四川西部と雲南北部)に多数のチベット人が散在し、彼らは「大チベット」「チベット人がすむところ」が「チベット」だと考える。つまり、三つのチベットがあることになる。いまの自治区の2倍の領域である。1987年以来、ダライ・ラマ14世は、この「大チベット」を念頭に、「中国との提携関係のもとで」「民主チベット、核兵器のない中立のチベット」を求めている。他方、中央政府のいうチベットはチベット自治区に限られる。[毛里和子]

1959年3月チベット反乱

1951年の中国人民解放軍のチベット進攻後、チベット側3方(ダライ・ラマ勢力、パンチェン・ラマ勢力、アワン・ジグメNgapoi Ngawang Jigme(1910―2009)勢力)と中央政府の間で「17条の和平協約」が結ばれ、チベットが「共和国の大家庭にもどった」ことが確認される一方、チベット地域の当時の政治制度、宗教制度は変えないことが約束された。だが、1957年から情勢は激変する。「民主改革」、農牧業の集団化が始まるのである。
 1959年3月、ラサを中心にチベット仏教僧侶、旧支配者が反乱を起こした。中共当局がダライ・ラマ14世を観劇に招待すると、「ラマが北京(ペキン)に拉致(らち)される」と考えたラサ住民(一説では3万人)がノブリンカ離宮を包囲、「チベット独立、漢人は帰れ」と騒いだ。離宮では旧チベット政府のカロン(閣僚)が人民会議を開き、チベット僧俗人民の名で政教一致のチベット独立を宣言した。中央政府は、旧チベット政府軍と武装した反乱者(一説では7000人)が人民解放軍に抵抗したので、3月20日解放軍が5000人のチベット勢力を殲滅(せんめつ)したという(死者は545人)。この間にダライ・ラマ14世は5000メートルの山々を越えてインド北部に脱出、チベットの事実上の独立の歴史や、中共によって1951年協約が反故(ほご)にされたことなどを国際社会に訴えた。このチベット反乱の背後には、カム、アムドで土地改革、農牧業の集団化、宗教的特権の廃止などが始まって旧社会を破壊し、旧支配者や僧侶が「衛教軍」などをつくって抵抗したことがあり、チベット社会旧勢力の多数がこの反乱に加わった。対して中央政府は、1959年から1962年にかけて人民解放軍が熾烈(しれつ)な殲滅(せんめつ)作戦を展開し、おびただしい死者を出した。[毛里和子]

チベット亡命政府とダライ・ラマ14世の主張

ダライ・ラマ14世下の亡命政府(十数万の難民として暮らす)は1961年以来「自由チベット憲法」草案で動いてきたが、1992年、ポスト・ダライ・ラマを想定して、亡命チベット憲法草案を制定した。2011年3月ダライ・ラマ14世が政治的地位からの引退を表明、「チベットおよびチベット人の守護者であり、象徴」と規定された。政治的リーダーには代表者会議で選出された首相ロブサン・センゲLobsang Sangay(1968― )が就任し、首相のもとに、宗教・文化省、財務省、内務省、教育省、保安省、情報・国際関係省、保健省をおき、亡命チベット代表者会議(国民会議)を立法機関とする。なおセンゲは、ハーバード大学で学んだ国際法の研究者でもある。
 1980年代は胡耀邦(こようほう)政権(1981~1986年)が「チベット休養政策」をとり、宗教政策も緩和した。ダライ・ラマ14世は国際的発信に力を注いだ。1987年9月アメリカ議会下院では、(1)「大チベット」の平和地帯化、(2)チベットへの漢人移住政策の停止、(3)チベット人の基本的人権と自由の尊重、(4)核廃棄物の処理を含むチベットの自然環境の回復、(5)「チベットの将来の地位、チベット・中国関係についての真剣な交渉」などを訴えた(5項目提案)。
 翌1988年の6月ストラスブール欧州議会演説では、(1)ウツァン・カム・アムドとして知られるチベット全土(大チベット)を「中華人民共和国と共同して、民主政体の自治地帯とする」、(2)中国政府はチベットの外交政策に責任をもち、チベット政府は憲法・基本法を通じてチベットおよびチベット人に関する全決定権をもつ、(3)関係諸国の平和会議でチベットの非武装中立を実現する、(4)中国政府はチベットでの人権侵害をやめ、漢人移住政策を放棄するなど、その主張はより具体的でクリアなものとなった。ダライ・ラマ・グループは「チベットの分離独立」を求めているわけではなく、大チベットを中国と共同して「高度の自治地帯とする」というのが基本構想なのである。[毛里和子]

二度のラサ騒乱と僧侶の焼身自殺

1980年代末からチベットでは宗教的自由を求める騒乱や僧侶の焼身自殺などが多発する。新疆ウイグルなどと同様、自決や分離という原理的な要求というより、弱者であるチベット人(ウイグル人)の日常的な不満の爆発だといえる。
 チベット反乱30周年の1989年3月5日から7日にラサで大きな衝突があった。「チベット独立」を求めるデモと公安・警察が衝突したのである。中国側公式報道では死者は10名、西側報道では80~150名と伝えられた。事態を重視した政府は3月7日ラサに戒厳令をしいた。建国以来初の戒厳令である。なお5月19日には天安門広場をデモが埋めている北京市でも戒厳令がしかれた。
 この騒乱から19年後、2008年の3月10日にふたたびラサで騒乱が起こった。チベット仏教の僧侶たちによる宗教弾圧に対する抗議デモがきっかけとなり、14日には暴徒化したチベット人が漢人や回族の商店を襲撃、テレビ放映の影響もあって一挙に国際化した。暴動は自治区外のチベット人地区にも飛び火し、16日、四川省アバ州でも、独立派チベット人が開いていた集会を回族が襲撃し、銃撃を含む衝突になった。チベット人と漢人との対立の構図から、諸民族を巻き込んだ複雑な抗争になっていった。
 チベット亡命政府は死者数203人、負傷者は1000人以上、5715人以上が拘束されていると発表した(4月29日)。一方、新華社報道(2010年7月10日)では、3月14日のラサ騒乱での死者は23人、逮捕者は953人で、うち362人が自首、116人が裁判中であり、4月末に30人の裁判が結審し、懲役3年から無期懲役が言い渡され、6月に12人の裁判が結審、放火、窃盗、社会秩序騒乱罪、国家機関襲撃罪など19の罪状が認定された、とする。
 なお、2009年からは僧侶の焼身自殺が頻発している。2013年に亡命政府の首相ロブサン・センゲは、「中国のチベット統治失敗に対する究極の不服従」声明を発し、僧侶の焼身自殺が100名を超えた、と中央政府を非難した(中国年鑑2014)。[毛里和子]

チベット問題の根源にあるのは何か


騒乱の原因をめぐる三つの説
「(2008年ラサ騒乱は)ダライ・ラマ集団が組織的、策謀的かつ入念に画策煽動(せんどう)し、内外のチベット独立分裂勢力が互いに結託して引き起こしたもので、平和的なデモではまったくなく、暴力犯罪である」というのが中国当局の公式見解である。
 チベットでの騒乱については3種の言説がある。一つは、「ダライ・ラマ集団が組織的策謀的かつ入念に画策煽動し、内外のチベット独立分裂勢力によるもの」とする中国およびラサ当局の主張、第二がチベット亡命政府に代表される、民族問題、宗教問題、人権問題だとする言説である。第三が、チベット騒乱の根源には、チベットのおくれた経済、中央政府によるチベットの一方的開発などの経済要因があるとするもの(経済言説派)である(大川謙作「チベット問題における経済言説の再検討」『中国21』34巻、2011年3月)。
 経済言説派の代表が開発経済学者でロンドン大学教授のアンドリュー・フィッシャーAndrew M. Fischer(1967― )である。彼の分析によれば、1990年代なかばからチベットにおける都市・農村の経済格差は5.6倍となり、全国レベル(3.4)や新疆(3.7)と格段の差がついた、という。経済格差からくる差別、教育格差、漢語の習熟度、各種ネットワークへの情報格差の面でも、チベット人は漢人や回族と大きな差があるという(Andrew M. Fischer,“Perversities of Extreme Dependence and Unequal Growth in the TAR”,Tibet Watch Special Report, August 2007)。なお、むしろチベット人内の富裕層と貧困層の格差の広がりが深刻で、市場経済のインパクトがチベット人アイデンティティを危機に追い込んでいるとする説もある(村上大輔「ラサにおける民族内格差とチベット人アイデンティティの行方」『中国21』30巻、2009年1月)。[毛里和子]
中華とチベットの歴史問題
だが、チベット問題の根はもっと複雑で、市場化、植民、経済格差以外にも、次の要因がある。
(1)チベット人が自分が住む地域を中華世界とは考えていないし、自らを「中華世界」の一員だとは考えていないなかで、一方的な統合政策や援助はなんの役にも立たない。
(2)もっと根の深い問題は中華とチベットの「歴史問題」である。かつてチベットは中華とは違う文化圏をもち、中華とは異なる政治世界でもあった。
(3)1959年のチベット反乱にまつわる「悲劇」について「和解」が可能かどうかという問題もある。1959年反乱では、チベット人地区全域ですさまじい殺戮(さつりく)があった。中国の軍事史専門家(礼峰)によれば、中央政府は、1958年3月から8月にかけて青海の「反革命武装反乱」を鎮圧、合計11万6000人を「殲滅」した。また1959年3月の反乱から1962年3月までの掃討作戦では中央チベットで9万3000人を「殲滅」(死亡・負傷・捕虜)したという。
 この虐殺の歴史的決着はついていない。しかも、1989年3月の騒乱、2008年3月の騒乱で多数の犠牲者をふたたび出し、傷はますます深くなっている。チベット独立のシナリオがないとすれば、チベット問題の解決には「歴史的和解」が不可欠だが、中国の権力にとっては1989年の天安門事件の見直しよりもむずかしい課題だろう。[毛里和子]
ダライ・ラマの存在
チベットと新疆などにおける問題との違いは、チベット人がダライ・ラマという篤(あつ)い信仰の対象をもつことであり、それによりチベット亡命政府と中央政府との話し合いのチャネルは細いが機能している。2008年には、ダライ・ラマ側特使と中共中央統一戦線部部長との公式交渉が何回かもたれ、両者間の溝は埋まらないが、対話のチャネルは切れてはいない。
 しかしチベット固有の不安材料もある。ダライ・ラマ14世自身の後継問題である。1935年生まれのダライ・ラマは、2011年に政治指導者として引退を希望すると表明、チベット亡命政府は「憲章」を改正して、ダライ・ラマは「チベットとチベット人の守護者であり、象徴」とし、亡命政府新首相にロブサン・センゲを選んだ。だが、宗教指導者ダライ・ラマの後継をめぐっては中央政府の介入もあり、複雑な抗争が起こるだろう。[毛里和子]
『加々美光行著『知られざる祈り――中国の民族問題』(1992・新評論) ▽A・T・グルンフェルド著、八巻佳子訳『現代チベットの歩み』(1994・東方書店) ▽西蔵自治区党史資料徴集委員会編『中共西蔵党史大事記1949-1994』(1995・西蔵人民出版社) ▽毛里和子著『周縁からの中国――民族問題と国家』(1998・東京大学出版会) ▽ダライ・ラマ著、木村肥佐夫訳『チベットわが祖国――ダライ・ラマ自叙伝』(中公文庫) ▽山際素男著『チベット問題』(2014・光文社新書) ▽外文出版社著・刊『チベット問題』(1959・北京) ▽Warren W. Smith, Jr.Tibetan Nation----A History of Tibetan Nationalism and Sino-Tibetan Relations(1996, Westview Press)』

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