中国の政治家。湖南(こなん/フーナン)省劉陽(りゅうよう)県出身。1933年中国共産党員。1934年中国共産党秘書長鄧小平(とうしょうへい/トンシヤオピン)のもとで共産主義青年団秘書長兼組織部長となり、長征に参加。1937年延安(えんあん/イエンアン)抗日軍政大学に学ぶ。同大学政治部副主任、第二野戦軍兵団政治部主任などを務める。1957年共産主義青年団第一書記となり、鄧小平党総書記の助手として活躍。1960年日中共青共同声明調印。1965年陝西(せんせい/シャンシー)省党第一書記。1966年「文化大革命」で共青書記局を解散させられ、1967年劉少奇(りゅうしょうき/リウシャオチー)・鄧小平路線の手先とされて失脚。1972年部分的復活。1975年科学院副秘書長となるが鄧小平第一副首相の命を受けて書いた「科学院活動報告」を「毒草」として非難され、1976年鄧小平とともにふたたび失脚。毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)死後、1977年鄧小平再復活と同時に党中央委員。中央党学校副校長。党組織部長。1978年党政治局員、1979年党秘書長と党宣伝部長を兼任。1980年党常務政治局員兼総書記。1981年華国鋒(かこくほう/ホワクオフォン)にかわり党主席に昇進。1982年党主席制の廃止により、党総書記として改革開放を進めた。1986年の民主化運動に理解を示したため、1987年1月総書記を辞任させられる。1989年胡の死去を契機に、同年6月第二次天安門事件が起きた。
[高市恵之助・渋谷 司]
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1915~89
中国現代の政治家。湖南省瀏陽(りゅうよう)県の人。共産主義者青年団をへて1933年に共産党に入り,長征に参加。青年運動で頭角を現す。文化大革命で失脚するが,72年に復活。82年党総書記となり,鄧小平(とうしょうへい)の改革・開放路線を推進したが,保守派と対立して87年に総書記を辞任した。89年の憤死は天安門事件の引き金となった。
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…社会主義の道,プロレタリア独裁,共産党の指導,マルクス・レーニン主義と毛沢東思想の堅持を〈四つの基本原則〉として掲げつつ,毛沢東思想の真髄は〈実事求是〉(事実にもとづいて真理を求める)にあるとして,その継続革命論を否定し,改革・開放政策を推し進めた。81年6月には〈建国以来の党の若干の歴史問題についての決議〉を中央委員総会(11期6中全会)で採択して毛沢東の評価を相対化し,華国鋒を降格させて胡耀邦をこれに代えた。 12回大会(1982年9月)は計画経済を主体とし,市場調節を従とする方針を提示し,世紀末までに国民総生産を4倍化するという目標をかかげた。…
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