チュオン・チン(読み)ちゅおんちん(英語表記)Truong Chinh

日本大百科全書(ニッポニカ) 「チュオン・チン」の意味・わかりやすい解説

チュオン・チン
ちゅおんちん
Truong Chinh
(1908―1988)

ベトナムの政治家。本名ダンスアン・ク。チュオン・チン中国共産党の行った「長征」のベトナム語読み。1930年インドシナ共産党創立に参加。1931~1936年フランス植民地当局により投獄。1941年党書記長となり、ベトナム独立同盟ベトミン)の結成を指導。1951年ベトナム労働党への改称に際し書記長。農地改革失策を問われ1956年辞任。しかし、1958年副首相、1960年国会常任委議長としてふたたび台頭。1975年南北統一交渉では北の代表団長。1976年(第6期)、1981年(第7期)国会議員総選挙に当選。1981年国家評議会議長(大統領に相当)兼国防評議会議長。1986年7月死去したレ・ズアンの後任として党書記長に就任したが同年12月引退。

[黒柳米司]

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百科事典マイペディア 「チュオン・チン」の意味・わかりやすい解説

チュオン・チン

ベトナムの革命家,政治家。ベトナム北部のナムディン省出身。チュオン・チンは政治家としての名で,中国革命の〈長征〉の音による。本名はダン・スアン・クー。1928年ころから抗仏独立運動に参加,1930年に香港で創立されたベトナム共産党に入党し,国内で活動,1933年に逮捕されるが,1936年のフランス人民戦線政府成立で釈放され,公然面での党の代表となる。1939年共産党が非合法化されると,中国雲南省に逃れ,ホー・チ・ミンの側近として活躍,1941年に再びベトナムに戻り,書記長としてベトミン結成を指導した。ベトナム民主共和国成立からインドシナ戦争,ベトナム戦争の全期間を通じて,政治局員として指導的な位置にあり,1981年の南北ベトナム統一後,1987年の引退まで国家元首。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「チュオン・チン」の意味・わかりやすい解説

チュオン・チン
Truong Chinh

[生]1910. ナムディン
[没]1988.9.30. ハノイ
ベトナムの政治家。ハノイ大学に入学し,1928年ホー・チ・ミンの青年革命同志会支部書記となった。 30年インドシナ共産党の創立に尽力し,31~36年入獄。 41年インドシナ共産党書記長。 45年 11月,労働党の前身マルクス主義研究会会長,51年の労働党結成後,書記長となったが,56年土地改革の失敗の責任を問われ書記長を辞任。 58年5月副首相,60年国会常任委員会議長。レ・ジュアンと並んで労働党の理論的指導者として活躍し,南ベトナム政権崩壊後も南北統一のための政治会議議長をつとめた。 76年7月の統一国会で,再びベトナム社会主義共和国国会常任委員会議長に選出された。 86年7~12月国家評議会議長。同年 12月引退。グエン・バン・リン指導部によるドイ・モイに道を開いた。

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20世紀西洋人名事典 「チュオン・チン」の解説

チュオン・チン
Truong Chinh


1907.2 - 1988.9.30
ベトナムの政治家。
元・ベトナム国家評議会議長。
ナムディン省(ベトナム)生まれ。
本名ダン・スアン・ク〈Dang Xuan Khu〉。
1930年にインドシナ共産党に入党する。’39年中国に脱出する。’41年に本国へ侵入し、党の書記長となる。’56年に書記長を退任後、’81年に統一ベトナムの新憲法により、国家評議会議長に就任した。’86年レ・ズアンの後任として党書記長に就任したが、同年末に引退する。ホー・チ・ミンの側近として活躍して、党の理論的指導の実績がある。チュオン・チンは中国共産党が行った「長征」をベトナム語読みしたもの。

出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報

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