翻訳|tempera
今日では卵をおもな展色剤として顔料を練って作った絵具およびこの絵具で描いた絵画を指すことが多い。テンペラは中世ラテン語のテンペラレtemperare(〈粉体と液体をかきまぜる〉の意)から派生したイタリア語で,中世には単に〈絵具〉の意味で使われていた。しかし15世紀中期以後油絵が絵具の主流を形成するようになるとともに,卵,膠(にかわ),アラビアゴム,麦糊,カゼインなどを用いた水性絵具の総称に意味が転じた。この用語法は18世紀中ごろまでごく一般的で,フランス語ではデトランプdétrempe,英語ではディステンパーdistemperの表記を用いた。しかし,18世紀にグアッシュ,水彩が技法として独立した評価を受けるようになると,〈テンペラ〉は一時,死語あるいはイタリア語のみの地方的表現になった。広い地域で通用する技術用語としては,わずかにフランス語表記の〈デトランプ〉が,もっぱら舞台美術・装飾用の膠やデンプン糊を用いた泥絵具類の意味で生き残った。テンペラが新しい意味をもつ技術用語として再興するのは19世紀中期以降である。15世紀初めに書かれたC.チェンニーニの技法書《芸術の書Libro dell'arte》をもとに,ロンドン大学にいたトンプソンDoerner Thompsonを中心とした学者や画家グループが,13,14世紀イタリアで行われていた古い彩色技術を復興する研究を行った。この結果,卵黄をおもな展色剤とする古典技法を発見しこれをあらためてテンペラと命名し普及した。以後単にテンペラといえば卵をおもな展色剤とする〈卵テンペラ〉を指すことが多くなった。
卵を用いた技法自体はギリシア・ローマ以前から存在し,中世の装飾写本,中世末からルネサンス期にかけての板絵の祭壇画,東欧のイコンなどでは主要な技法であった。フレスコの補助技法としても使われ,しっくいが乾いてから描くセッコと呼ぶ技法に使われる絵具の大半は卵テンペラである。15世紀中ごろから油絵が普及し始めると,テンペラは色の透明感,光沢などの点で劣り,取扱上の制約も大きいために急速に主流技法の地位を失うが,デッサンやエスキースにはその後も広く使われた。ドイツ,スイス,イタリアなどでは16世紀初めまで油彩とテンペラが併用された。
展色剤に用いる鶏卵は卵白,卵黄,全卵のいずれも可能であるが,仕上がり効果に若干の差がある。卵黄を用いたものが堅牢性は高いが色味が重くなるとして嫌う人が一部にある。卵はいずれの場合も十分にときほぐしたのちチョウジ油,食酢などを滴下する。これら添加物は絵具の界面活性剤,防腐剤として作用する。この卵液と顔料をガラスまたは大理石の板上で指頭や専用の練棒を用いてよく練り合わせる。卵液の保存がきかないので絵具は1日の使用分のみ作る。多量の水を加えると絵具が剝げやすくなる。描画面は顔料の接着がよくなるよう吸水性の大きいものを用い,板や羊皮紙は表面を白亜,セッコウの類を膠液の混合物で加工し,完全に平滑になるよう磨いて使う。とくに古典時代の板絵の場合は,粗目のセッコウgesso grossoと濃い膠で下層を作り,きめの細かい二水セッコウgesso sottileとやや薄めた膠で仕上げ層を重ねて完全平滑面を作るくふうがされたが,再興技法では仕上げ層のみを入念に作ることが多い。筆は柔らかいテン毛などを用いる。絵具は粘度が高いうえに,生乾きのときに再び水を含むともどりが生じるために,広い面積に色を重ねると,下に塗った色が剝がれたり濁ったりする。またぼかしやなだらかな色の階調を作ることは困難が伴う。したがって,こうした場合には形を単純化したり階調を明・中・暗,または濃・中・淡に三分して彩色を手順よく行うなど彩色前に綿密な配色計画が必要である。とくに微妙な混色は網目状の細線で重ねるなど,特殊な技術を使うこともある。卵の液の中に乾性油を滴下しながらよく攪拌した乳状液(エマルジョン)を展色剤として練った絵具を〈混合テンペラ〉と呼び,この絵具で描く技法を混合技法と呼ぶ。とくに15,16世紀のドイツ,オーストリアの地方で使われ,最近は細密描写に適した技法として再び利用者が増えている。なお欧米の一部の画材店ではグアッシュ,ポスター・カラーの類をテンペラと呼ぶ風習が今も残っている。前述のように卵を展色剤とした絵具は腐敗しやすい。テンペラの名でチューブ詰商品として市場に出されているものは,おおむねカゼイン(まれに膠)を展色剤としたもので,これらは〈カゼイン・テンペラ〉〈膠テンペラ〉と呼んで卵テンペラと区別している。
執筆者:森田 恒之
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
西洋絵画技法のうちもっとも伝統的なものの一つ。本来は、顔料(がんりょう)を水だけで溶いて描くフレスコの技法に対し、なんらかの液体のメディウム(顔料のつなぎ剤、固着剤)や展色剤を顔料と混ぜ合わせて絵の具をつくることをテンペラーレtemperareといい、そのような絵の具、またはその絵の具を使って描く絵画技法をテンペラと称した。したがって、フレスコ以外の液状の絵の具を使う絵画技法はすべてテンペラ技法に含まれていたということができる。しかし、16世紀になって油彩画が盛んになり始めると、「テンペラ」は従来の伝統的な絵画技法、なかでも卵をメディウムとして使う卵テンペラの技法をさすようになった。
今日では、水溶性のエマルジョン(乳剤)、とくに卵黄と水のエマルジョンをメディウムとする絵画技法をテンペラと称するということができるであろう。しかし、卵は卵黄だけに限らず、卵白だけでも、両方ともに用いられることがあり、卵と油のエマルジョンも用いられる。
卵テンペラを描くには、顔料を水でよく練ってペースト状にしたものをつくっておき、描く直前にほぼ等量の卵黄を混ぜ合わせる。基底材(グラウンド)には吸収性のよいジェッソ(白亜または石膏(せっこう)の地塗り)を施したパネルを用いる。テンペラ絵の具は速乾性で、混ぜ合わせることができず、細いレッド・セーブル筆の先端を使って描かねばならない。肉づけ(モデリング)や明暗の変化を表現するためには、無数の平行線の色調を少しずつ変化させていくハッチングの技法に頼らねばならない。しかし、乾燥すると強固な耐水性の絵の具層を形成する。
15世紀から16世紀にかけて、テンペラに油性のグレーズglazeをかけたりする方法から、ついに油彩画そのものへと技法が変化していったのは、テンペラの技法的特質が写実表現を求める時代の流れに適合しなかったためである。テンペラの技法が絵画表現においてもっとも発展したのは、ジョットからフラ・アンジェリコに至る時代であった。17~19世紀にはカンバスを基底材とする油彩画が隆盛し、テンペラはほとんど顧みられなかった。19世紀末になって、ロセッティら象徴主義の画家によってふたたび取り上げられ、今日でもワイエスら一部の画家によって愛用されている。
なお、本来水溶性絵の具の総称であるデトランプdétrempeがテンペラと同義に用いられることがあるが、組成の単純な水のみに可溶な媒剤によるものをデトランプ、複合的な乳剤タイプの媒剤によるものをテンペラとよぶ傾向がある。
[長谷川三郎]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
…素地は,当初は板が多かったが,16世紀以降麻布(キャンバス)がおもに用いられる。油絵の登場以前は,卵黄,卵白,にかわなどを媒材としたテンペラが写本装飾や板絵などに広く用いられていた。水彩画は,油絵より手軽で簡便なため,風景のスケッチなどに広く用いられ,とくに18世紀以降,イギリス風景画で大きな役割を果たした。…
…このように壁面を3段に分けることは,西洋では後世まで行われ,腰羽目は一般的には木の縦板であった。漆喰(しつくい)の壁面にテンペラまたはフレスコの技法で絵をかいて装飾とすることは古くから行われ,そのもっとも完全な遺品はやはりポンペイに見いだされる。ここでは3段に分けたうちの中央区がもっとも広く,この区に主要の絵,たとえば,神話から取材した絵や家人の肖像などが描かれた。…
※「テンペラ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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