ローマ皇帝。在位284-305年。ダルマティア(現,ユーゴスラビア領)の貧農出身の兵士であったが,軍人として頭角を現し,カルスM.A.Carus変死後東方で軍団から皇帝に推戴され,以後20年間帝国の再建に尽力して軍人皇帝時代に終止符を打った。彼はニコメディア(現,トルコ領イズミト)を居所とし,まず僚友マクシミアヌスを西方の皇帝に任じ,さらに2人の副帝を置いてそれぞれの正帝を補佐させるテトラルキア(四分治制)を採用した。皇帝の神的権威を強調して,正帝はユピテル,ヘラクレスを守護神としてその地上の代理人だと称し,ペルシア風の皇帝への拝跪礼や豪華な衣装を導入した。また自らを〈主にして神(dominus et deus)〉と呼ばせた。ここにローマ帝国は専制君主政(ドミナトゥス)の時代を迎える。
彼は他の皇帝を指導し,軍団数を倍増し,騎馬軍・特殊部隊をいっそう整備してマクシミアヌス,コンスタンティウス1世にはガリアのバガウダイの乱を,ガレリウスには東方のササン朝ペルシアを鎮圧・撃退させて,国境の安定をもたらした。そして軍事力による安定維持のために行・財政の組織化・効率化に着手した。軍政・民政の別を明瞭にして,ことに官僚組織の階層序列化を進め,高官や法律家を帝室顧問会議に集めて政策決定に参与させた。帝国を4道に分け,その下に12の管区,約100の属州を置いた。財政負担にこたえるため税制を改革した。かつては軍事職であった近衛軍総督という役を財務長官とし,全帝国に厳格な土地測量と人頭の申告を行わせ,土地にユガ,人頭にカピタという抽象単位を当てて課税した。これをカピタティオ-ユガティオといい,他の産物も同じ価値基準で課税されることになり,地方により旧来の税制を残したり,二つの税体系が統合された所もあったが,収税体制はきわめて能率化した。しかしそれだけでは巨額の軍事防衛費はまかなえず,皇帝領の管理強化,さまざまな物資の取引の国家独占,国営仕事場の設置,手工業者を強制的に組合に入れて統制下に置くなどの経済統制策を進めた。また現物納・金納を問わず多様な税を設け,都市上層民には諸税の徴収責任を負わせ,のみならずその他の奉仕義務を課した。このような強制国家への傾斜により帝国民の階層化,身分・職業の固定化が進み,自立的中産市民が没落して,皇帝・国家への従属度の強い臣民が中心の社会となっていった。ディオクレティアヌス主導のテトラルキアでは,立法・軍事・経済において各帝統治区域間に差はなく,おおむね平和が保たれた。しかし経済不振と貨幣改鋳は物価の騰貴を招き,彼は301年に〈最高公定価格令Edictum de pretiis〉を発して,あらゆる物品の価格の上限を定めたが,その結果市場から物資は姿を消して,かえって逆効果であった。また,在位末期に着手したキリスト教徒への大迫害は,混乱と政治不安とをもたらすことになった。
彼は伝統のローマ宗教に熱心でその復興に努め,皇帝権力がユピテル,マルスそれに太陽神などの庇護下にあることを貨幣や碑文の銘で宣伝し,皇帝イデオロギーを強化した。一方,キリスト教徒は軍隊や宮廷内にも増加しており,軍役や異教の祭儀を拒否する事件が多くなっていた。このような状況の中でディオクレティアヌスは統治の終り近くになって,303年全帝国規模でキリスト教徒迫害を命じるにいたった。キリスト教を特に敵視していた副帝ガレリウスの圧力によったとする史料もあるが,ディオクレティアヌスがローマ的伝統護持と宗教統一のために主導権をとって開始したのであろう。第1勅令は教会堂の破壊,聖書の没収,高位教徒の追放を,第2勅令は聖職者逮捕を命じた。シリア,パレスティナ,エジプト,アフリカやローマ市,小アジア,パンノニアなど,広範囲にわたって迫害が行われ,ことに東方では教徒も熱狂的にふるまい,弾圧は激化した。この間ディオクレティアヌスは重病にかかり,ようやく回復したのち自発的に退位し,それまでの2副帝を正帝とした。イタリア中部,スポレトに隠棲して余生を送り,数年後に病死した。
→ドミナトゥス
執筆者:松本 宣郎
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ローマ皇帝(在位284~305)。帝国の危機を克服、後期ローマ帝国―専制君主政を樹立した皇帝。ダルマチアの下層農民出身。父は奴隷だったともいわれる。兵士となって昇進し、東方遠征中、カルス帝(在位282~283)の変死で軍団兵により皇帝に推戴(すいたい)された。
彼は、きわめて実際的で有能かつ指導力に富む人物で、登位後は着々と帝国再編策を実施した。まず、将軍マクシミアヌスを西方の共治帝として分割統治を採用し、293年にはコンスタンティウス、ガレリウスを西と東の副帝に任じ、2正帝とあわせ、4人の皇帝によるテトラルキア(四分統治制)が成立した。彼自身はニコメディアに宮殿をもち、小アジアからエジプトまでを担当し、マクシミアヌスとコンスタンティウスはガリアの農民反乱を鎮圧し、ガレリウスはペルシアを破るなど分治の効果はあがった。が、立法、軍事、経済面で帝国の統一はなお保持されていた。まず、アウレリアヌスの策を受け継いで、軍団の再編強化を行い、軍団兵は数十万に達し、異民族からなる特殊部隊、騎兵も増強された。平和の確立と並行して行政機構再編を行い、全帝国を四帝統治の4道に分け、その下に12の管区(ディオエケシス)と約100の属州を設け、行政、司法の実効性を高めた。官僚の数を増やし、軍事と行政を分離して、しだいに厳密な位階制を打ち立てていった。皇帝の立法権、軍指揮権、行政権は比類なく強化され、四帝分治とはいえ、ディオクレティアヌスの権威は絶大であった。
彼は、帝権の絶対性をイデオロギー的に強化するため、伝統のローマの神々への信仰を重視して、これらの神殿や祭儀を復興し、自らはユピテルの地上の体現者たるヨウィウスと称し、他の皇帝にもそれぞれ守護神を選ばせた。また、臣民と謁見するに際しては、ペルシア風の儀礼を導入し、豪華な衣装で玉座に座り、人々に拝跪礼(はいきれい)を行わせたという。そのほか、大建築、道路建設、開墾なども盛んに行われたが、これらおよび軍隊維持のための財政負担は甚だしく、行政再編の主目的は徴税等の能率化だったともいえる。彼の下で帝国に統一的税制が導入された。これは、人間1人当りに課する人頭税(カピタティオ)と、納める産物はなんであれユガという土地の単位に換算して課する土地税(ユガティオ)とを統合したもので、エジプトや小アジアの一部を除く各地に適用され、徴税の便に益するところは大であった。しかし、軍隊、宮廷、官僚の肥大化による財政負担は、このような徴税合理化によって都市民に重くのしかかり、経済も不振に陥った。都市上層民の没落と都市からの逃亡、大土地所有貴族の都市からの離脱も目だち始めた。帝国は、都市民の義務履行を強制的に守らせ、身分・職業を固定化してこの傾向を抑えようとし、また貨幣改悪に伴う物価騰貴に対しては、最高価格令を発して抑制に努めた(301)。総じて帝国は皇帝専制の下に国民が階層序列化され、対国家奉仕義務を強制される体制に向かい、ここに専制君主政(ドミナトゥス)が始まったといわれるのである。
ディオクレティアヌスは、治世末の303年、ニコメディアの教会を兵士に破壊させたのを皮切りに、キリスト教徒大迫害を命じた。宮廷内教徒を処刑、追放し、ついで教会を閉じて礼拝を禁じ、聖書を没収し、聖職者を逮捕、拷問した。これは、とくにキリスト教に敵意をもっていた副帝ガレリウスの教唆によるとする説が、すでに同時代のラクタンティウスらによって出されているが、やはりディオクレティアヌスが帝国の支柱たる伝統宗教を護持する立場から、神々への祭儀に加わらず、宮廷や軍隊で反抗的態度を示すことが多くなっていた教徒の排除―改宗を自ら命じたものであろう。迫害のさなか、ディオクレティアヌスは重病になり、ようやく回復したものの、305年5月、もう1人の正帝マクシミアヌスとともに帝位を辞し、一市民としてスポレトで余生を送った。その後政権争いが苛烈(かれつ)となり、迫害は失敗に帰して、彼の妻、娘も追放、殺害され、彼も失意のうちに病没した。
[松本宣郎]
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240?~313頃(在位284~305)
ローマ皇帝。初めディオクレスといい,兵卒から身を起こし皇帝となるや,帝国を2人の正帝と2人の副帝により分治する制度(四分統治)を始めた。国内や辺境の反乱を収め,帝国を統一して後期ローマ帝国の基礎を置いた。特に全国の行政制度を根本的に改革し,またカピタティオ・ユガティオと呼ばれる農業課税制度を始めて財政の建て直しを図ったが,貨幣価値の切下げにも頼ったため物価騰貴を招き,301年最高公定価格令を発した。伝統を守る立場から,303年キリスト教徒大迫害を開始したが失敗,退位した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…したがってアドラティオは国家的な面でも私的な生活でも配慮されるべきものであったが,帝政期には皇帝のアドラティオが重みを増した。特にディオクレティアヌスはペルシアにならって皇帝の前での拝跪礼(ギリシア語でプロスキュネシス)を要求するに至ったが,この拝跪礼をもラテン語でアドラティオと呼ぶようになった。【松本 宣郎】。…
…しかし帝政前半期については,課税対象となる住民の範囲,課税額などは,一部の属州を除いて明らかではなく,地域によってかなりの差があったものと思われる。300年ごろディオクレティアヌスが再編した課税制度(カピタティオ・ユガティオ制)のもとでのカピタティオの内容は,比較的明確に知られている。それによると,課税の単位であるカピタcapitaは,自由人,コロヌス,奴隷,さらには家畜をも含んだ。…
…パンノニアの貧農の出。ディオクレティアヌスに抜擢されて東方副帝となり,テトラルキア(四分治制)の一員となる。298年2度目のペルシア遠征で大勝して声望を高めた。…
…しかしそれも一時的で,迫害がすぎ去ると屈服した教徒も教会に復帰し,3世紀末には皇帝の宮廷や軍隊にまで教徒は進出した。3世紀末に帝国を再建したディオクレティアヌスの時代,まず軍隊で熱狂的なキリスト教徒が殉教する事例が相つぎ,303年全帝国にキリスト教徒迫害を命ずる勅令が発布された。この大迫害は小アジア,シリア,エジプト,アフリカでとくにはげしく,教会は破壊され聖書が没収され,祭儀強制も行われて多数の聖職者や熱狂的な教徒が殉教したり,鉱山などで労役に投ぜられたりした。…
…元首の例外的な権力は,元老院および民会における公職諸権限の付与によって合法化されたが,その地位は元首本人の一生に限られていたので,後継者を決定する原則は確立しなかった。五賢帝時代には養子縁組による後継者選出が定着したかに見えたが,3世紀にいたって,軍隊の勢力を背景として元首の擁立戦が繰り返されるなかで,軍人皇帝の乱立する危機の時代が訪れ,その混迷を収拾したディオクレティアヌスによって専制君主政が樹立されるにおよんで,共和政的自由と第一人者の権威との共存する元首政は名実ともに終息した。したがって,元首政の時代はローマ帝政前期とも言われ,専制君主政のローマ帝政後期とは区別するのが通例である。…
…伝説では紀元40年代に福音書記者のマルコがアレクサンドリアで布教したのが最初だとなっているが,実際にエジプトのキリスト教化が進むのは,だいたい2~3世紀で,その間に聖書のコプト語訳もなされた。 ローマ帝国は最初キリスト教に対して迫害を加えたが,エジプトも例外でなく,ディオクレティアヌス帝(在位284‐305)のとき,激しい迫害が行われ,のちこれを記念して,この皇帝が即位した284年を元年とするコプト暦を定めた。これはエジプトの農業に有用な古代以来の太陽暦を受け継ぐものであった。…
…ローマ時代にはユダヤのヘロデ大王の息子たち3人も分封領主(テトラルケス)と呼ばれた。しかし最も有名なテトラルキアは,3世紀末にディオクレティアヌスが広大な領域を分割統治するために定めたもので,東西に2人ずつの養子縁組した正帝(アウグストゥス)と副帝(カエサル)をおき,ユピテル,ヘラクレスなどの神々の保護を強調した。この制度でペルシア,ガリア方面が安定し,帝国の再建がなった。…
…後期ローマ帝国(ディオクレティアヌス以後)の専制君主政をいう。皇帝が臣民に自らを〈われらの主dominus noster〉と呼ばせたことから,それ以前の,都市国家・共和政的要素をなお残していた元首政と区別するため想定された概念。…
…たとえば,それを,コンスタンティヌス1世による〈第二のローマ〉としてのコンスタンティノープル開都式(330年5月)に置くことは,この首都が,続く歴史において,文字どおり帝国の中心として比類なき役割を果たした点で,決して不当ではないが,それにはなお1世紀近くを要したのであって,むしろ4世紀は,アレクサンドリア,アテナイ,アンティオキア,エルサレムなど,古い伝統をもった帝国東半部の諸都市の並存によって特色づけられる時代であった。また統治機構の点からみれば,ビザンティン帝国の礎は,コンスタンティヌス1世よりも,ディオクレティアヌス帝にさかのぼり,テオドシウス1世の死(395)後に始まる東西分治も,広大な領土を治めるためディオクレティアヌスが定めた四分治制に基づく行政措置の適用例にすぎない。そして文化の点でも,たとえば文学史上,4世紀はヘレニズムの延長としてまとまった単位をなさず,キリスト教教父の文学活動という点では,すでに3世紀前から始まっていた。…
…次のタキトゥス(在位275‐276)は小アジアでゴート族を破り,プロブス(在位276‐282)は北部国境の守りを固め,カルス(在位282‐283)はメソポタミアに侵入した。283年にはさらにカリヌス(在位283‐285),ヌメリアヌス(在位283‐284)が立ったが,ディオクレティアヌス(在位284‐305)の即位をもって,混乱の軍人皇帝時代は終わる。
[第4期――専制君主政期(284‐395)]
ディオクレティアヌスは統治と防衛をより効果的なものにするために,帝国を4分割し,自分とマクシミアヌスの2人を正帝とし,ガレリウスとコンスタンティウスを副帝とする四分治制(テトラルキア)を敷いた。…
※「ディオクレティアヌス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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