翻訳|Augustus
ローマ帝国の初代皇帝。在位,前27-後14年。騎士身分のガイウス・オクタウィウスGaius Octaviusとカエサルの姪アティアAtiaの間に生まれ,初めオクタウィウスと称する。父は前58年に死去。学芸をたしなみ祖先の遺風を重んじるべく教育された。嫡子に恵まれなかったカエサルの愛顧を受け,アフリカ凱旋やスペイン遠征にも同伴した。生涯の友アグリッパと共にアポロニア遊学中に,カエサルの暗殺とその遺言による養子相続人への指名を伝え聞き,帰国後名門ユリウス氏族の後継者としてガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌスGaius Julius Caesar Octavianusと名のった。資産相続の正当性をめぐってカエサル派の実力者アントニウスとは不和になったが,暗殺者の共和派の残党を追撃するなかで和解が成立した。前43年,アントニウスを支持するレピドゥスを加えて,〈国家再建三人委員〉を結成し,元老院の承認によって独裁官の全権を得ると,彼自身は北アフリカ,シチリア,サルディニアおよびコルシカを勢力基盤とする。前42年,フィリッピの戦で共和派の残党を一掃した際には,頭目ブルトゥスの首をカエサルの彫像の前にささげたといわれる。
その後,退役兵への土地分配をめぐってアントニウスとの間に亀裂が生じ,彼は海上に勢力を振るうセクストゥス・ポンペイウスSextus Pompeius Magnus Piusと一時結んだが,前40年ブルンディシウムの協約によって再びアントニウスと和解した。この頃,彼の姉オクタウィアはアントニウスと結婚し,両者の協力関係は強まったかに見えたが,前36年ポンペイウスの艦隊が撃破され,レピドゥスが失脚して,彼が西地中海の覇者となると,東地中海を勢力範囲とするアントニウスとの間の緊張は高まった。彼がダルマティアの地域に遠征している間に,アントニウスはパルティア討伐に失敗しながらも,エジプト女王クレオパトラを溺愛し,彼女とその息子を遺言状(これはおそらく捏造されたものである)で相続人に指名するありさまであった。さらに,アントニウスがオクタウィアと離婚するに及んで,両者の衝突は不可避となり,前32年宣戦が布告された。前31年9月,アクティウムの海戦でアントニウスとクレオパトラの連合軍を破り,翌年にはアレクサンドリアを包囲して両人を自殺に追い込み,エジプトをも彼の全権下の属領とした。前29年8月にはローマにおいて大凱旋式が挙行され,前28年には三頭政治時代のすべての指令の無効が宣告された。
前27年1月の元老院会議において,オクタウィアヌスは共和政再建のために自分の権力のすべてを元老院と民会に返還することを言明した。しかし,元老院の要請によって国政の責任を元老院と分担することになり,ほぼ半数の属州の総督命令権がゆだねられた。彼自身は軍隊による警備の必要な属州を統治したことから,事実上,全ローマ軍の最高司令官となった。また,元老院からアウグストゥス(〈崇高なる者〉の意)という尊称を授与された。前23年には共和政の国制遵守の回復を理由に統領(コンスル)への連年就任を辞退したが,護民官職と上級統領代行権が終身付与され,また,前19年には統領の権限とこれに伴う栄誉権をも終身のものとして与えられ,ここに国家全体における卓越した実力者の地位を完全に確定したのである。アウグストゥスは内戦の破局を除去し,万人の求める平和を国家にもたらした功績によって,万人を凌駕する権威(アウクトリタスauctoritas)を与えられ,国家における第一人者(プリンケプス)そのものになった。彼によって元首政が成立したというゆえんである。臨終時における彼の肩書は〈最高司令官・カエサル・神の子・アウグストゥス・大神祇官長(ポンティフェクス・マクシムス)・統領13回・最高司令官の歓呼20回・護民官職権行使37年目・国父(パテル・パトリアエ)〉である。
国制の上では,元老院の数度にわたる改編によって議員定数を600名と定め,議員の適格審査および公職候補者の査定にあたる権限を掌中に収めた。元首の権限の重要な基盤となる軍事力の強化のためには,各兵員6000名から成る28軍団を総兵力とする常備軍が創設された。また,ローマ市民の正規軍団の補強のために属州民による補助軍を編成し,ミセヌムとラベンナには艦隊を常設して,これらの勤務年限満了後の退役兵にはローマ市民権を付与した。さらに,身辺警護のために9部隊の親衛隊を置き,母市警備隊や消防隊を常設して首都の保安に努めた。軍隊の維持,属州統治,穀物供給,道路の管理や公共建築の造営等々の実施に伴う巨額の出費に備えて,元老院管轄属州の収納国庫のほかに皇帝所管の財庫を独立させるとともに,退役兵への除隊金の支出のためには軍事金庫を設けている。徴税の基礎となる人口調査を属州ごとに一定期間を隔てて実施し財政を整備した。帝国の全般的政策においては,ローマ市民権の付与およびローマ型都市行政の浸透によって属州地のローマ化を企てるとともに,都市の自治を促進した。また,姦通処罰法,奢侈取締法,婚姻奨励法によって社会秩序の安定化を図り,不法徴発や刑事訴訟事件の解決のために,従来の陪審裁判と並んで特別公職者裁判を多用して皇帝裁判確立の基礎を固めた。外征領土政策の面では,イベリア半島の土着民の抵抗を最終的に鎮圧し,ドナウ川以南のパンノニア,ダキアの種族を征服した。しかし,ゲルマン部族に対しては,後9年のトイトブルクの戦でローマの3軍団が壊滅されたために守勢にまわり,ライン川とドナウ川を結ぶ線で帝国北境を画した。東方では,パルティアと友好関係を結び,ユーフラテス川を境界に定めた。こうして,彼の治世には平和(〈パクス・アウグスタPax Augusta〉)が実現し,多数の詩人や学者が輩出してラテン文学の古典期とも呼ばれている。
個人生活の面では,いくぶん冷酷で不機嫌な気質の印象を与えるものの,彼自身は質素で実直な生活を好んだ。友人や同調者を選ぶ慧眼に恵まれていたが,後継者問題では,意中の人物に次々と先立たれたことによって心の痛手も深かったようである。結婚生活では3度目の妻リウィアを深く愛し53年間連れ添ったが,前妻との間に一人娘ユリアを得たのみで,子どもには恵まれず,このユリアも彼の晩年には不貞の評判で彼を悩ましつづけた。結局,リウィアの連れ子ティベリウスを養子として後継者に指名せざるを得なかった。元来病弱であったにもかかわらず,77歳まで生き永らえ,後14年8月19日,南イタリアのノラで死去した。その死後,カエサルの先例にならって神格化された。彼の霊廟は今日でもローマに残り,墓前には《業績録》の青銅板が設置されたと伝えられている。
執筆者:本村 凌二
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古代ローマの政治家、ローマ帝国初代の皇帝(在位前27~後14)。前名をガイウス・オクタウィウスGaius Octaviusといい、同名の父とカエサルの姪(めい)アティアとの間に、紀元前63年9月23日誕生した。父の死後、大伯父カエサルの保護を受け、カエサルの暗殺(前44)後、遺言により主要な相続人・養子とされていることを知ると、ただちにローマに赴き、ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌスGaius Iulius (Julius) Caesar Octavianusと改名、権利を主張した。カエサルの遺産をめぐり、カエサルの旧部下マルクス・アントニウスと対立し、キケロを指導者とする元老院派に味方し、前43年4月ムティナの戦いでアントニウスを敗走させ、元老院に強制してコンスルに選ばれた。
[島田 誠]
前43年11月、オクタウィアヌス、アントニウス、カエサルの旧部下マルクス・アエミリウス・レピドゥスは、ボノーニア(ボローニャ)で会見し、三頭政治を樹立した。私的盟約であった第1回三頭政治と異なり、公式に「国家再建のための三人委員」に任命され、まずキケロを筆頭に多数の反対派の追放、処刑、財産没収を行った。オクタウィアヌスは西方を、アントニウスは東方を、レピドゥスはアフリカを分担支配した。オクタウィアヌスは、シチリア島を本拠に三頭政治に反対してイタリアを海上封鎖したセクストゥス・ポンペイウスとの戦いを担当、苦戦したが、アントニウスの支援と部下アグリッパの指揮により勝利を得、その際レピドゥスを三人委員の地位から追放し、アフリカを支配下に置いた。その後、ふたたびアントニウスと対立し、彼とエジプト女王クレオパトラとの関係と、彼女へのローマ民衆の反感を利用し、前32年クレオパトラに対し宣戦を布告した。前31年アクティウムでクレオパトラとアントニウスの艦隊を破り、翌30年アレクサンドリアを陥落させた。クレオパトラとアントニウスは自殺し、1世紀余り続いた内乱は終結した。
[島田 誠]
前29年オクタウィアヌスはローマに帰還し、盛大な凱旋(がいせん)式をあげ、元老院首席(プリンケプス・セナトゥス)になった。前31年以来、連年コンスルであり富裕なエジプトを私領化していたが、前27年、属州を元老院と分担し、軍隊の駐屯する属州の大部分を管轄することになり、元老院よりアウグストゥス(尊厳者)の称号を与えられた。普通これを帝政の始まりとする。
彼は属州行政の整備、スペインでの征服戦争に奔走したが、反対派が存在し、前23年陰謀が発覚した。彼の重病も重なり、重大な政治危機が生じたが、回復後コンスル職を共和政派に譲って辞任し、かわりに完全な護民官権限と上級のコンスル代理命令権(元老院管轄属州を含む全帝国への命令権)とを与えられ、ギリシア、小アジアなど東方旅行に出発した。この両者の権限を得ることにより彼の地位はむしろ強化された。さらに前22年には独裁官と穀物供給管理官との地位を提供され、後者のみを受けた。前19年コンスル命令権を与えられ、その地位は確立した。対外関係も、前20年パルティアからクラッススの敗北により奪われた軍旗が返還され、人質も送られ、東方では安定した。残る課題は内乱の時代以来、小規模な侵入、移動を繰り返す北方のゲルマン人の制圧のみとなった。
前18年、彼は共和政時代以来の公私両面の悪習を除くための立法を行った。すなわち、公職を得るため贈賄した者を締め出すことを定めた「選挙買収についてのユリウス法」、元老院議員身分中、結婚し子供をもつ者に特権を与え、未婚の者に不利益を課した「結婚規制についてのユリウス法」、姦通(かんつう)を刑法上の犯罪とした「姦通処罰についてのユリウス法」の3法である。「結婚規制法」は紀元後9年パーピウス・ポッパエウス法により強化された。
このころアクティウムの海戦以後に成人した世代が政界に登場し、アウグストゥス体制は安定した。彼らを代表し、彼の継子ティベリウス・ドルスス兄弟などがゲルマニア遠征中、ローマ市およびイタリアの行政整備に努め、ローマ市長官の任命、消防隊の設置、ローマ市の行政区画の再編などを行った。前12年には、レピドゥスの死後、大神祇(じんぎ)官長となり、ローマの宗教上の最高の地位を得た。以後、大神祇官長の職は皇帝たちの専有物となった。前2年には国父の栄誉称号を与えられた。アウグストゥスの政権が安定すると、彼の後継者が問題となった。まず、ひとり娘ユリアの夫たち、甥(おい)のマルケルス、有能な部下のアグリッパが後継者に擬された。ついでアグリッパとユリアとの息子、ガイウスとルキウスの兄弟が養子とされたが若死にした。最後に、やはりユリアの夫であったティベリウスを養子とし、後継者とした。
アウグストゥスは紀元後14年8月19日、イタリアのノラの町で病没した。彼は死後に神とされた。遺書とともに、自らの治績を記録した『業績録』を作成して残しており、碑文として現存している。
[島田 誠]
アウグストゥスの時代は、文化面ではローマ文学史上の最盛期でもあった。散文では、ローマの建国以来の歴史を著したリウィウスが知られる。ラテン詩は、アウグストゥスの側近マエケナスなどの有力者の保護下に黄金時代を迎え、大詩人が輩出した。ローマ建国神話を題材とした『アエネイス』を著したウェルギリウスや、ホラティウス、プロペルティウス、ティブルス、オウィディウスなどが代表である。
[島田 誠]
『スウェートーニウス著、角南一郎訳『ローマ皇帝伝 上』(1974・社会思想社)』▽『E・マイヤー著、鈴木一州訳『ローマ人の国家と国家思想』(1978・岩波書店)』▽『弓削達著『ローマ帝国の国家と社会』(1964・岩波書店)』▽『弓削達著『ローマ帝国論』(1966・吉川弘文館)』▽『弓削達著『地中海世界とローマ帝国』(1977・岩波書店)』▽『国原吉之助著『皇帝アウグストゥスと詩人たち』(『ギリシア・ローマの神と人間』1979・東海大学出版会・所収)』
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前63~後14(在位前27~後14)
古代ローマの初代皇帝。母はカエサルの姪。カエサルの養子。本名はガイウス・オクタウィウス。カエサル暗殺後,オクタウィアヌスと改名した。前43年にアントニウス,レピドゥスと第2回三頭政治を成立させ,カエサル暗殺者を撃破した。さらにレピドゥス失脚後,前31年にアントニウスをアクティウムの海戦で破り覇権を握った。前28年元老院の第一人者(プリンケプス)の称号を受け,さらに前27年アウグストゥスの称号を元老院から得,君主支配を始めた。その統治は元首政(プリンキパトゥス)と呼ばれるが,名目上は共和政,実質上は帝政であった。内乱後の秩序の回復に努め,ローマ市の装いを新たにし,属州統治に力を尽くすなど内政の充実を図り,「ローマの平和」の時代をもたらした。
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…ウェルギリウスは前19年に死ぬまで,この作品の執筆に10年余りの歳月を費やしており,しかもまず散文で下書きをしたのち,六脚律の詩形に書き直したと伝えられているが,そのみがきぬかれた文体,多彩な詩的イメージの駆使,韻律の微妙な変化等は作品の完成度をきわめて高いものにしている。 作品成立の政治的背景にはアウグストゥスによる内乱の収拾と平和の確立があり,それをたたえる個所は作品中にも散見されるが,地上における平和と正義の実現をそこに至るまでの苦難と犠牲も含めて神の意志とみなす作者の敬虔な思想は,政治的党派を超えた深みを作品に与えている。また,滅びゆくものに対して作者が示す深い愛情は,作品が時代を超えて人間的共感を呼ぶ原因となっている。…
…オクタウィアヌス(アウグストゥス)が,前31年アントニウスとクレオパトラの連合軍を破った古代ローマの海戦。共和政最末期すでに海外に大領土を有していたローマでは,イタリアおよび西方諸地域を統治したオクタウィアヌスと,おもに東方諸地域を管轄したアントニウスの2人に実権が握られていった。…
…まずカエサルの部将として活躍を始め,前50年卜占官,前49年護民官,カエサルの副司令(レガトゥス)に任ぜられたのち,前48‐前47年,独裁官副官=騎兵長官としてカエサルに代わってローマ・イタリアを統治,前44年にはコンスル(執政官)に就任するなど,カエサルの腹心として重用された。前44年3月,カエサルが暗殺された後,追悼演説で人望を集め,その後継者たらんとしたため,オクタウィアヌス(後のアウグストゥス)と元老院との3者の間に権力争いが展開した。しかし前43年11月にオクタウィアヌスおよびレピドゥスとともに5年間の国家再建三人委員会を形成し(いわゆる第2回三頭政治),政敵を追放し,元老院勢力の中心キケロを抹殺した。…
…なおプトレマイオス朝エジプトでは,公用便に関して,駅場網や馬の整備による早飛脚および普通便の制が完備した。 共和政期のローマでは,郵便は公私それぞれ,おもに奴隷または解放奴隷からなる飛脚によって運ばれたが,東方,とくにエジプトの制度を範にアウグストゥスによって駅伝の制度が整えられた。本来は軍事的な目的から,しかししだいに広く,人間および郵便の輸送が組織化されてゆく。…
…彼の窮極の狙いが,王政であったか否か,という問いは同時代人にまでさかのぼるが,共和政の破壊者とみなす説,逆に帝政の礎石をすえた人物とする説というように,政治家としての評価も定まらない。しかし世界帝国ローマを統御するには1人の力によるしかないという認識は,養子のオクタウィアヌス(アウグストゥス)によるいわゆる帝政の成立により現実のものとなった。政治家としてのスケールの大きさ,つまり世界帝国的視野を一応認める説が有力であるが,異論もないではない。…
…この間にキケロの哲学,修辞学に関する著作が次々と生み出された。前44年になるとキケロは政治の世界に再び登場し,オクタウィアヌス(後のアウグストゥス)を支持して,アントニウスを攻撃する演説《フィリッピカエ》を次々と行った。しかし,前43年オクタウィアヌスとアントニウスの妥協が成立し,レピドゥスを加えた三頭政治が始まると,キケロはオクタウィアヌスの支持を得られず,危機に立たされた。…
…正確には《神皇(しんのう)アウグストゥス業績録》といい,ローマ初代皇帝アウグストゥスが自分の政治的経歴について書きしるした記録。彼は生前に遺書を作成して,その一部には彼自身の治績を記録し,青銅板に刻印して陵墓の入口に設置することを希望していた。…
…共和政期には政務官も私人も自分の召使を派遣して通信せねばならなかった。アウグストゥスはイタリアや西部で使者を中継する制度を用いていたが,東方,とりわけエジプトで行われていた一定間隔で馬や荷車を備えた駅を置く制度に変えた。これによって1人の使者が駅で馬を乗り替えることにより全行程を行くことができ,必要な場合には口頭で報告することもできるようになった。…
…そうした中にあって最後まで独立国の体裁を保てたのはプトレマイオス朝エジプトであった。クレオパトラはこの王朝の伝統に従って弟プトレマイオス13世と共同統治者として即位して以来,弟を支持する宮廷内の勢力との確執に苦しみ,ローマ(この場合はカエサル)の後ろ盾をえて宮廷内の実権を握るとともに,圧倒的なローマの存在を女性の体一つで引きうけて,王朝の最後の落日を輝かせるとともに,ローマの一方の将軍アントニウスと結んでオクタウィアヌス(アウグストゥス)の心胆を一時は寒からしめたのであった。アントニウスとの連合王国の野望がもし成功していたなら(パスカルの〈もしクレオパトラの鼻がもう少し短かったら〉世界史は違ったものになっていたろう,という警句も,この限りで現実味をおびてくる),世界史は事実違った姿を呈したかもしれない。…
…ローマ皇帝アウグストゥスによって確立されたプリンケプス(〈元首〉あるいは〈第一人者〉)の統治体制(プリンキパトゥス)を意味する用語。共和政末期の内乱を収拾して国家最大の勢力家となったアウグストゥスは,養父カエサルの独裁政樹立の挫折を考慮して共和政の国制に手を加えず,〈余は権威においては万人に勝りしも,公職にある同僚たちを凌ぐ権力を持たず〉と言明し,〈ローマ市民の第一人者〉と呼ばれた。…
…その方法は顔貌,体つき,動作,声などについてある動物との類似を求め,その動物の性質を人に当てはめるもので,アプレイウスの作とされた《人相学》もこの動物類推の方法を用いている。 またヨセフスの《ユダヤ戦記》には,父ヘロデ王によって処刑されたアレクサンドロスを詐称して偽の男が面会に来たのを,その人相から見破ったアウグストゥスと部下の話がある。ローマでは前139年に占星術師を追放したが,後に再び勢いを得て,カエサルも占星術を信じ,アウグストゥスは占星術師を顧問に加えていた。…
…彼らの権威は絶大で,その庇護を仰ぐ人々にとって,彼らは王者のごとき保護者であった。そこで,共和政末期の内乱の収拾にともなって収斂した権力の頂点に立ったアウグストゥスは,地中海世界全域の支配者たる自らの地位を表す言葉として〈プリンケプス〉を用いた。これは,共和政のたてまえを尊重して,〈権威においては万人を凌駕するも,同僚の官職保持者に優る権力をもっているわけではない〉ことを示す体裁であり,その地位がローマ世界の諸派閥を統合した最大の保護者,つまり事実上の皇帝たることに相違はない。…
…この任地でのプロコンスル命令権を地中海全域にわたる非常大権に拡張したのがポンペイウスである(前67)。彼は海賊征討の任務終了後,全権を返上したが,前23年,アウグストゥスは終身の上級プロコンスル命令権を取得し,元老院所管属州の総督(プロコンスル,プロプラエトル)を監督し,元首所管属州へプロプラエトル命令権をもつ元首代行(レガトゥスlegatus)を送り,全属州を掌握した。公職から分離した命令権は元首政への道を開いたのである。…
…また暦の第1月も彼の名を冠してヤヌアリウスJanuarius月と呼ばれ,ここから英語のJanuaryなど,近代西欧語の1月名が来ている。彼はローマ市のフォルムに小さな社をもち,その東西両端の扉は戦時には開け放たれ,平和時には閉ざされる定めであったが,アクティウムの海戦(前31)でアントニウスとクレオパトラの連合軍を破ったオクタウィアヌス(のちのアウグストゥス帝)が,前29年,ローマに凱旋してこれを閉ざしめたときが,建国以来3回目の閉扉であったという。ヤヌスはすでにローマ最古の銅貨に前後に顔をもつ双面神に描かれており,全身像の場合は左手に鍵,右手に笏(しやく)をもつ姿で表現された。…
…超俗の賢者エピクロスの思想は国家や政治に絶望した人々の心をとらえて流行していたから,ルクレティウスもまた時代の子であった。
[アウグストゥス時代(前40年代末~後10年代)]
100年にわたる内乱と恐怖政治の時代が終わり,平和と秩序が回復すると,文学は再び政治と民族と国家に目を向けて,ローマの意味と役割を問い,〈アウグストゥスの平和〉をたたえる。〈新詩人〉たちによって磨きをかけられた詩は,新しい世代によっていっそう洗練されると同時に,内容的に高められて,ここにラテン文学は絶頂期を迎える。…
…この分掌の結果,その大部分が彼の属州に駐屯する軍隊の指揮権をも彼は握ることになった。同年元老院は彼に〈アウグストゥス〉の尊称を与えた。彼自身は自らの地位をプリンケプス(〈第一人者〉)と呼んだ(そのため彼の始めた国制をプリンキパトゥスと呼び元首政と訳される)が,このような彼の地位は〈皇帝〉の名にふさわしいので,われわれは彼を皇帝と呼び,ここにローマは帝政期に入ったとみるのである。…
…その間,中心広場であるフォルム・ロマヌムの整備や各種の公共建築物の建設もスラやカエサルの手で進められていく。 次いで秩序を回復したアウグストゥスの手で,ローマは〈煉瓦造の町から大理石の町〉に変えられたばかりでなく,都警大隊,夜警大隊を設けて治安・防災に意が配られ,水道を整備する一方,穀物の無料給付と見世物の開催で人心を収攬しつつ,100万以上の人口を擁する町の民生の安定が講じられた。このような政策の基本線は諸皇帝に継受され,市民は〈パンとサーカス〉を与えられて,太平を謳歌することができ,諸皇帝のフォルムや公衆浴場,競技場,円形闘技場,劇場,諸神殿も建てられ,町は世界帝国の首都たるにふさわしい外観を呈し,帝国の津々浦々からの人を吸収することになった(図)。…
…パクスとは平和を意味するギリシア語エイレネeirēnēのラテン語訳で,それを擬人化した女神エイレネは遅くも前4世紀前半にはアテナイで祭祀を受けていた。ローマではアウグストゥスの時代に初めて礼拝されるようになる。前10年のアウグストゥスによるパクス祭祀の導入が最初であったが,前44年以来貨幣面にもパクスは刻まれていた。…
…一方,ローマの支配の拡大と共和政末期の混乱は,ローマ人自身の間に没落観を生み出していた。それゆえいっそう,その混乱を終結させて元首政を樹立したアウグストゥスは秩序の再興者として称揚され,このアウグストゥス治下でローマ理念は最初の高揚期を迎えるのである。リウィウスは,ロムルスが神意によって建設した都市ローマが世界の女王となっていく過程を描き,ウェルギリウスは,最高神ユピテルがローマに領土の境も時の境もない永遠の支配を与えたと歌い,ホラティウスは,不幸からよみがえり,いっそうの高みへと昇るローマの運命をたたえた。…
※「アウグストゥス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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