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デ・ウィット デ・ウィット De Wit, Jan K.

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

デ・ウィット
デ・ウィット
De Wit, Jan K.

幕末の駐日オランダ総領事。安政6 (1859) 年 12月9日外交代表ドンケル・クルチウスの後任として着任,長崎を本拠に江戸の芝長応寺で執務したが,H.ヒュースケン殺害事件以後は出島にいた。

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デ・ウィット
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出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

デ・ウィット
でうぃっと
Johan de Witt
(1625―1672)

オランダの政治家。中世期から繁栄した商業港ドルドレヒトの富裕な門閥出身で、議会派の指導者の1人として活躍したヤコプJacob(1589―1674)の子。ライデン大学で法学、哲学、数学を学んで才能を現し、のちフランスアンジェ大学に遊学し、1647年ハーグ弁護士になった。翌1648年ドルドレヒトの市参事会員、1653年ホラント州議会の法律顧問(ラートペンショナリス)に就任した。法律顧問の職は、州議会の事実上の議長であり、ホラント州は富裕な経済力によってオランダ共和国の政治を左右したので、共和国の内・外政の実質的な指導者となった。
 議会派の領袖(りょうしゅう)として、大商人層の利害を代表して州主権の堅持を目標にしたため、オラニエ家(総督)を中心とした強力な中央集権体制の確立を志向する総督派と対立した。また、イギリスのスチュアート家とオラニエ家との密接な姻戚(いんせき)関係を、オランダの独立を脅かすものとして警戒し、イギリスの航海法発布をきっかけに生じた第一次イギリス・オランダ戦争(1652~1654)を終結させるウェストミンスター条約の秘密条項に、オラニエ公を総督に就任させないことを規定した。戦後はイギリスの脅威に備えて財政再建と海軍力の充実を推進し、第二次イギリス・オランダ戦争(1665~1667)を優勢裏に戦ってイギリスを悩まし、ブレダの和約を結んだ。1667年フランス王ルイ14世がスペイン領南ネーデルラントに侵入すると、イギリス、スウェーデンと三国同盟を結んで対抗したが、ルイ14世はイギリス王チャールズ2世とドーバーの密約を結び、1672年オランダに侵入し、イギリスも海上から侵攻した。オランダ滅亡の危機に直面し、デ・ウィットは敗戦の責任を問われて辞職し、ウィレム3世が総督に推戴(すいたい)されてフランス軍を退けた。同年、ハーグの牢獄(ろうごく)に兄コルネリスCornelis de Witt(1623―1672)を訪れた際、民衆に襲われて兄とともに虐殺された。[栗原福也]

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