ドイツの生化学者。キール大学で医学を学ぶ途中で第一次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)し、衛生兵として従軍する。その際、ガス壊疽(えそ)のような重い感染症の兵士に対し、なんらなす術(すべ)のない状態に深く心を動かされた。1918年に復学し、1921年卒業。1927年イー・ゲー・ファルベンの研究所に招かれ、当時新しい染料を求めて盛んに合成されつつあった多くのアゾ化合物の薬理学的効果を研究した。1932年ドーマクは、1908年にゲルモPaul Gelmo(1879―1961)により合成されていたp-アミノベンゼンスルホニルアミド(赤色プロントジル)が、ブドウ球菌および溶血性連鎖球菌の感染を阻止することをみいだした。この物質の著しい効果は、ちょうど連鎖球菌の感染症で重態となった彼の娘によってまず確かめられた。これは細菌性の病気に対する化学療法の輝かしい第一歩であり、引き続いて抗菌性の化学物質の研究が世界各地で始まった。その際、効力のあるのはサルファニル・アミドの部分であることがみいだされ、数千のサルファ剤が合成され、試験されるようになった。この業績により1939年ノーベル医学生理学賞に推されたが国策により辞退し、1947年に受賞。結核と癌(がん)の化学療法剤の研究にも取り組んだ。
[石館三枝子]
ドイツの細菌病理学者,薬学者。ブランデンブルクに生まれ,キール大学で医学を学んだが,第1次大戦により従軍,終戦とともに復学して,1921年に卒業した。その後,グリースバルト大学講師(1924),ミュンスター研究所病理学・病理解剖学教授(1928)を経て,バイエル染料会社の実験病理・細菌学研究所長となった。この間,殺菌作用を有する染料の研究に従事し,35年,同研究所で開発されたスルファニルアミドクリソイジン(商品名プロントジルProntosil)が連鎖球菌に対して有効であることを発見し,サルファ剤全盛のきっかけとなった。この功績に対し,39年ノーベル生理・医学賞を授与されたが,ナチス政府の政策によってこれを辞退させられ,47年にあらためて受賞した。
→サルファ剤
執筆者:川口 啓明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ドイツの病理学者.キール大学医学部に入学後,第一次世界大戦が起こったため軍隊に入り負傷.その後,衛生兵として勤務し,伝染病に医学が無力なことを痛感した.戦後大学に戻り,1921年医学で学位を取得.1924年グライフスバルト大学の病理解剖学講師となり,1925年ミュンスター大学に移ったが,1927年よりⅠ.G.Farben社の研究所に入った.1932年赤色染料のプロントシル(p-フェニルアゾベンゼンスルホンアミド誘導体塩酸塩)が,連鎖球菌とぶどう状球菌の感染に効力があることを動物実験と連鎖球菌に感染した自分の娘への投与によって証明した.さらに第四級アンモニウム塩の治療効果の発見や結核の化学療法剤の開発をした.1958年ミュンスター大学に戻り病理解剖学の教授となった.1939年にノーベル生理学・医学賞に選ばれたが,ナチスドイツ政府の圧力で受賞を辞退.戦後の1947年に改めてメダルと賞状を受けとった.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
…こうした方法によって,原虫や梅毒トレポネマに対する化学療法はその後も発展した。しかし細菌に対する有効物質は,ドイツのG.ドーマクがスルファニルアミドクリソイジン(商品名プロントジル)を用いて溶血性連鎖球菌によるマウスの敗血症の治療に成功する(1935)までは得られなかった。まもなく,このプロントジルの有効成分は体内で分解されて生ずるスルファニルアミドであることがわかり,以後今日まで,その誘導体は数千種以上も合成され,そのうちサルファ剤の総称で各種細菌性疾患の治療に用いられてきたものも多数に及ぶ。…
※「ドーマク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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