日本歴史地名大系 「ネモロ場所」の解説
ネモロ場所
ねもろばしよ
近世の東蝦夷地のうちほぼ現在の根室支庁一帯を中心に設定された場所(持場)。クナシリ、ノッカマフ、ネモロ一帯に設定されていた松前藩直轄領のキイタップ場所の後身。ネモロ、ノッカマフは「アツケシ番人清四郎」の親が開いて交易を始め、その後二、三年後に飛騨屋久兵衛が請負った(「東行漫筆」文化六年四月二九日条)。キイタップ場所の時代にはノッカマフが中心であったが、一七八九年(寛政元年)にクナシリ・メナシの戦が起き、運上屋がノッカマフに移され、さらにアイヌが処刑地となったノッカマフを「忌避テ集ラサル故」九一年ネモロに移され、ネモロが中心地となったという(木村「蝦夷日記」寛政一〇年六月二四日条)。飛騨屋はクナシリ・メナシの戦の責任を問われ、場所請負は松前の村上伝兵衛(阿部屋)に交代した(「東行漫筆」文化六年四月二七日条)。九八年にはネモロ場所は松前藩直轄地で、「支配人太衛門 八兵衛」、請負人は熊野屋忠左衛門・小林屋平四郎、通詞万右衛門、「ネモロ人別九百人余」で「根室番人三十七人」、油取釜七ツがあった(木村「蝦夷日記」寛政一〇年六月二五日条)。ただし「東蝦夷地場所大概書」に「寛政十午年迄元松前若狭守進退の節、アツケシ キイタツフ クナシリを三場所と唱へ、手場所と名附」とあり、運上屋のネモロ移転後もキイタップ場所とも称されていた。一七九九年東蝦夷地は幕府の直轄下に置かれ、場所は直捌となり、ネモロ場所と改称された。場所の運上屋は会所と改められ、幕府役人が詰め、支配人を置いて場所経営が行われたが、一八一二年(文化九年)に直捌が廃止され請負制が復活。二一年(文政四年)松前藩に返還されたが、五五年(安政二年)再び幕府領、明治二年(一八六九)開拓使所轄となり場所請負制度が廃止された。
天保郷帳に「子モロ持場」のうちとして「アツウシベツ、ハナザキ、子モロベツ、子モロ、ホロモシリ、アシリコタン、ニシベツ、ベツカヱ、トコタン、ノツケ、コヱトイ、シベツ、イヂヤニ、チウルイ、コタヌカ、クン子ベツ、サキムイ、ヨロマフ」、そのほか「東地嶋々之分」の「子モロ持場」のうちとして「ユルリ、トモシリウシ、イリノムシリ、ヲラドキ、モンモシリ、アキルヽ、ユウル、ハルカルモシリ、モシリカ、イタシベイソ、スイショウ、シボツ、タラク、シコタン、弁天島、クナシリ島」が記される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報