アメリカの天文学者。銀河の速度・距離法則の発見者。ミズーリ州生まれ。保険事業家を父とし、シカゴ大学法科を1910年に卒業後、オックスフォード大学に進学、1913年帰国、弁護士となる。1914年天文学に興味を抱き、ヤーキス天文台で修業し、1917年シカゴ大学から学位を取得。たまたま第一次世界大戦で、従軍将校としてフランスに渡り、戦後、恩師ヘールの推薦でウィルソン山天文台に就職した。当初は60インチ(1.52メートル)反射鏡を専用して変光星、新星、ガス星雲の観測に精進したが、100インチ(2.54メートル)望遠鏡により1923年に渦状銀河中にケフェウス型変光星を確認し、光度周期関係を適用してそれらの距離を測定、いずれも銀河系外の恒星集団であることを明らかにした。銀河の観測データを豊かに蓄えて、銀河の類型を渦状のほかに楕円(だえん)状、無定形に分類したが、あえてその進化論的考察には深入りしなかった。重大な発見はそれらの銀河の後退速度の傾向を確認したことである。ドップラーの原理を適用して、すでにスライファーらによってスペクトル線の赤方偏移から後退速度が測定されていたが、ハッブルはそれが銀河の距離に比例する事実を1929年に発見した。この「ハッブルの法則」は宇宙膨張論の観測的資料として基礎づけられている。第二次世界大戦後、パロマ山天文台の200インチ鏡の責任者となり、各国の学会・大学から栄誉を受けた。
[島村福太郎]
アメリカの天文学者。ミズーリ州に生まれ,シカゴ大学で物理学を学んだが,志望を変えてイギリスのオックスフォード大学で法律を学び,弁護士となる。再び天文学に転じ,シカゴ大学で学位を取り,1920年からウィルソン山天文台に入る。当時は渦状星雲が銀河系内のものか系外のものかについて学界を二分する大論争中だったが,彼は23年にM31(アンドロメダ銀河)とM33とに34の脈動型変光星を発見し,周期光度関係から距離を決定して,両星雲が銀河系の外にあり,われわれの銀河系と同等の星の集合体であることを証明し,この論争に終止符を打った。その後同じ方法で18の銀河の距離を測り,スペクトル線の赤方偏移が距離に比例していることを29年に発表した。これが有名なハッブルの法則で,その比例定数は彼の名を記念してHという符号が今も用いられる。この比例関係は宇宙が一様に膨張している証拠として理論家からは高く評価されたが,彼自身はスペクトル線の偏移がはたして運動によるものか疑問を捨てきれなかった。彼はまた銀河の形態的分類のシステムを作り,現在も基本的にはこの分類が用いられる。第2次世界大戦中は軍事研究に従事,戦後は新設のパロマー山天文台で観測を行い,宇宙研究の指導的立場を続けた。天文学普及のために進んで映画やラジオにも出演した。
執筆者:大沢 清輝
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…分光学が天体観測に応用され始めた初期,イギリスのハギンズWilliam Huggins(1824‐1910)は約60個の星雲の分光観測の結果から,星雲と呼ばれる天体にはオリオン星雲のような輝くガス雲(われわれの銀河系内の星間物質の雲)と,アンドロメダ銀河のような恒星の大集団と2種あることを明らかにした(1864)。その後,アンドロメダ星雲のような星雲はわれわれの銀河系の外部にあり,銀河系と対等な天体(銀河)であることが推測されてきたが,そのことを最終的に証明したのはウィルソン山の2.5m反射望遠鏡を用いたE.P.ハッブルの研究であった(1923ころ)。ハッブルは引き続き,無数といえる銀河を渦巻型,楕円型,不規則型などに分類し,銀河が距離に比例する速度でわれわれから後退していることを発見(ハッブルの法則,1929)するなどして,銀河系外の宇宙の開拓者となった。…
※「ハッブル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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