パリ改造(読み)ぱりかいぞう

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

パリ改造
ぱりかいぞう

フランスの首都パリは、中世以来何回となく国王たちによって改造が加えられたが、とくに第二帝政期にセーヌ県知事オスマンの指揮下になされたものをさし、フランスでは彼の名をとってオスマン化haussmannisationとよばれる。
 19世紀に入ってパリの人口は急増し始めたが、それに対応すべき施設や制度はまったく不十分なものにとどまっていた。とりわけ狭い街路と古い建物が中世的な様相を呈していた中心部には、労働者など下層住民が集まっていた。1844年に刊行された『建築総合誌』には、「旧パリの中心部と左岸の三つの地区は、シテ島のように貧民窟(くつ)をなしているか、あるいはグロ・カイユーやサン・マルセル街区、サン・ルイ島のように衰え、ますます困った状態になりつつある」と記録されている。衛生学者たちも早くから、中心部の改造を緊急課題としていたが、1832年のコレラの大流行が、その緊急性をいっそう増大させた。したがってオスマン化の基本には、物と人の流れをよくし、経済を活性化することと並んで、水や空気の流れをよくするという配慮が示されていた。直線的な大通りと環状大通りを軸に交通路を秩序だて、区画を整理し直すこと、たとえば経済地区と居住地区との機能を分化させつつ結合する、道路整備と並行した上水道の体系的導入を図り下水道網を確立させることなどが、帝政という強力な権威体制を背景に推進されたのである。
 改造は1850年代、60年代前半およびその後半と三期に大別できる。第一期には、中心部で交差する大通りの建設が進められた。南北の軸として58年にセバストポル大通りが開通し、さらに北へ40メートル幅のストラスブール大通り、南へサン・ミシェル大通りがつくられていく。東西にはエトアール広場からバスチーユ広場へ通じる交通路が開かれ、小公園や広場が随所に配置され、大きな広場からは道路が放射状に延ばされた。これに対応して中心部一帯が区画整理され、古い建物は壊されて下層住民たちは排除された。このような改造は、啓蒙(けいもう)時代以来の社会衛生論と密接に結び付いているが、同時に、民衆蜂起(ほうき)のバリケード戦を容易にしていた狭く入り組んだ路地を下層住民ごと排除し、軍隊の移動と大砲の使用を容易にするという治安上の目的とも絡んでいた。「一八四八年の革命」時の市街戦の記憶は、第二帝政にとってきわめて鮮明だったからである。
 パリは1860年から周辺の18町村を合併して拡大されたが、第二期にはエトアール広場を中心としたとくに西部が整備され、第三期にはオペラ座周辺の改造が大通り貫通とともに推進された。その結果、経済や政治の重要な建物があり、また裕福な社会層の居住地区となったセーヌ川右岸の中央から西にかけては、都市としての美化が進んだ。しかし、家賃が高騰した中心部に住めなくなった労働者や新規の参入者たちは、整備がほとんど進まない北、東、南部の外れに排除されることになり、パリの周囲には「赤い帯」が取り巻いていると形容されるに至った。実際、後の1871年のコミューン蜂起がそれを証明するであろう。
 まず正確な測量に始まり、高みを削り、建物を壊し、大通りを貫通させて、新建造物を配置していった作業は、上下水道などの地下工事とともに大事業であった。政府とパリ市、不動産・建築業、銀行資本が密接に関与した大事業も、政府、市には大幅な財政赤字をもたらし、オスマンはそれゆえに知事を解任された。パリを産業型経済に対応した流通と消費の中心に仕立てあげ、同時に首都としての政治的威信を表現しようとするこの改造は、ボードレールをして「古きパリはもはやない」と嘆かしめたものであるが、しかし19世紀末以降も引き続き展開され、都市改造の一つのモデルとなっていく。リヨン、マルセイユ、ボルドーなどフランスの地方大都市ばかりではなく、バルセロナやストックホルムなど外国都市の改造にも影響するところ少なくなかった。[福井憲彦]
『河野健二編『フランス・ブルジョア社会の成立』(1977・岩波書店) ▽L・ベネヴォロ著、横山正訳『近代都市計画の起源』(1976・鹿島出版会) ▽H・サールマン著、小沢明訳『パリ大改造』(1983・井上書院・The Cities=New Illustrated Series)』

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