パリ市内を流れるセーヌ川中の島。パリ市のほぼ中心に位置し,パリ発祥の地である。この島に初めて集落を形成したのは,ケルト系のパリシイ族で,前1世紀ころと推定されている。しかし前53-前52年にローマ人が侵入した際,彼らはシテ島を放棄し,ローマ人がこの島に砦をもうけた。メロビング朝期から王がこの島に居所をもつようになったが,カペー朝のときに王宮が建てられ,以後16世紀まで諸王の公式の王宮の所在地となった。
14世紀初期のシテ島の状態は,下流側の西端が〈王の牧場〉となっており,これに隣接して王宮があった(現在のパレ・ド・ジュスティスの位置)。王宮の東側には市場が存在し,同業組合に属する商人も居住し,ユダヤ人地区も生まれた。さらに東のノートル・ダム大聖堂に至る地帯には,パリの大多数の教会や礼拝堂が集中していた。こうしてシテ島は王権と教会の権威の所在地,そして商業の中心地となった。
18世紀のシテ島の景観は次のように変化していた。西端には1607年に完成のポン・ヌフ橋が威容を示し,それに隣接するかつての〈王の牧場〉には,アンリ4世の構想になるドフィーヌ広場が建設された。パレ・ド・ジュスティスとノートル・ダム大聖堂の間には貧民街が形成されていた。またノートル・ダム大聖堂の前庭の北側には,1749年に棄児養育院の建物が完成し,南側のオテル・デュー病院の古い建物(12~13世紀)と対照をなしていた。
19世紀になると貧民宿の集中するシテ島の一角は,昼なお暗い闇の地帯として有名になり,大衆小説の舞台ともなる。モルグ(死体陳列所)もシテ島内に置かれた。貧民街を取り壊してそこにパリ警視庁の広大な建物を建設したのが,1850年代初頭のナポレオン3世であった。彼がオスマンにパリ改造を実施させるに先立って,まず初めに手をつけたのが,シテ島から貧民たちを追放することだったのである。
執筆者:喜安 朗
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フランスの首都パリの市内を貫流するセーヌ川の川中島。パリの第1、第4区に属し、パリ市揺籃(ようらん)の地。かつてケルト系のパリシイ人の町があり、古代ローマ人の到来後、町はセーヌ左岸に建設された。中世、とくにフンやノルマンの侵攻時には島全体が要塞(ようさい)と化した。カペー王朝は島の西端に王宮を建設、現在はパレ・ド・ジュスティス(裁判所。構内には礼拝堂サント・シャペル、付属監獄コンシェルジュリがある)とドーフィヌ広場(1607)となっている。かつては人家と多くの教会の密集地であったが、第二帝政期の改造により、プレフェクチュール・ド・ポリス(警視庁)、オテル・ディユ(公立病院)、裁判所、兵営など公共建造物が大部分を占める。島の東端にノートル・ダム大聖堂、その正面広場にフランスの距離原標がある。現存するパリ最古の橋ポン・ヌフ(1578~1604)など八つの橋で両岸と結ばれ、一つの歩道橋で東に連なるサン・ルイ島と結ばれている。
[高橋 正]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…また,1994年開通のユーロトンネルにより,パリ~ロンドンは約3時間で結ばれることになった。【田辺 裕】
〔歴史〕
【古代】
パリ盆地には,ローマ人のガリア征服により約2000年も前から定住者がいたと推定されるが,最初にセーヌ川の現在のシテ島に住みついたのは,ケルト系のパリシイ族Parisiiであった。彼らは,カエサルのガリア征服の半世紀ほど前には,工芸品ともいえるみごとな金貨を鋳造し,セーヌ川によって交易していたとされる。…
※「シテ島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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