フランスの詩人、批評家。
4月9日パリに生まれる。1759年生まれの父ジョゼフ・フランソア・ボードレールJoseph-François Baudelaireは、1793年まで僧職にあり、フランス革命前は大貴族の家庭教師を務め、啓蒙(けいもう)哲学の立場をとるリベラルな貴族階級と交流があった。そして第一帝政下では元老院事務局に勤務し、アマチュアの画家でもあった。
1827年父ジョゼフは没し、翌1828年母は35歳で陸軍少佐ジャック・オーピックJacques Aupick(1789―1857)と再婚。ボードレールはリヨンの王立中学(1832~1836)、ついでパリのルイ・ル・グラン中学で、1839年春放校となるまで教育を受け、同年夏バカロレア(大学入学資格)を取得後、法律学校に登録したものの放縦な生活を送り、梅毒に感染する。親族会議の決定により、悪友の文学青年たちとの放埒(ほうらつ)な生活を改めさせるため、1841年6月カルカッタ(現、コルカタ)行き汽船に乗船させられるが、ブールボン島(現、レユニオン島)まで行って航海を続けることを拒否、インドには至らず、1842年2月帰国、ただちにパリへ戻る。まもなく成年に達し、実父の遺産を相続、優雅なダンディの生活を送り、多額の負債をつくる。同じころ、端役女優ジャンヌ・デュバルJeane Duvalとの長年にわたる関係が始まる。息子の濫費生活に恐れをなした母親の願い出に基づき、1844年9月、裁判所により浪費者に対する裁判上の保佐制度の適用が決定され、遺産の残額の利子のみを保佐人から月々手渡されることとなり、以後困窮生活を強いられる。
[横張 誠]
すでに1843年ころには『悪の華』の詩編が十数編できていたと伝えられるが、1845年『1845年のサロン』を発表、まず美術批評家としてデビューする。翌年『1846年のサロン』ではドラクロワを賞賛し、ロマン主義芸術の本質を論ずるとともに、「現代生活の英雄性」を説くことにより、すでにリアリズム絵画の美学を展開する。1847年には自伝的中編小説『ラ・ファンファルロ』を雑誌に掲載、このころからエドガー・アラン・ポーに傾倒し、早くも翌1848年から1850年代にかけて、小説集『異常な物語』(1856)など、ポーの作品の仏訳を多数発表する。プルードンなどの革命思想に興味を抱いて、1848年の二月革命、六月蜂起(ほうき)には武器を取って参加するが、1851年ルイ・ナポレオンのクーデターを機に、直接的な政治活動への熱が冷め、過激なカトリックの反革命思想家ジョゼフ・ド・メーストルに関心をもち始める。1852年から1854年にかけて、銀行家の愛人サバティエ夫人Mme Sabatierに匿名で詩を添えた恋文を送り、1854年からは女優マリー・ドーブランMarie Daubrunとの交渉から想を得て詩を書く。1857年、詩集『悪の華』初版を刊行、公衆道徳良俗侵害のかどで、刊行者プーレ・マラシPoulet-Malassis(1825―1878)、ド・ブロワーズDe Broise(1821―1906)とともに罰金刑の判決を受け、詩集中の六編の削除を命令される。1859年、「人間の諸能力の女王」たる想像力が芸術創造において絶対的優位にたつことを説いた『1859年のサロン』を雑誌に発表、翌1860年、「ハシッシュの詩」「ある阿片(あへん)常用者」(ディ・クウィンシーの『阿片常用者の告白』の翻案)を収録した『人工天国』を刊行する。
1861年『悪の華』第二版を出版、また、ワーグナーの『タンホイザー』パリ初演が失敗に終わってまもなく、『リヒャルト・ワーグナーと「タンホイザー」パリ公演』と題する小冊子を刊行。同年末アカデミー・フランセーズに立候補するが、友人たちのひんしゅくを買って翌1862年初め取り下げる。同年、散文詩20編を『小散文詩』の総題のもとに新聞に分載発表。1863年、ドラクロワを追悼して『ウージェーヌ・ドラクロワの作品と生涯』を、ついで風俗画家コンスタンタン・ギースを論じた『現代生活の画家』をそれぞれ新聞に発表したが、後者は、「うつろいやすいもの」の美の価値を説く点で、リアリズムから印象主義への方向づけを行うものであるとともに、当時自ら書き進めていた散文詩の美学のマニフェストともなっている。1864年、債権者から逃れるためと、全集の出版契約のもくろみもあって、ベルギーへ講演旅行に出発、しかし契約は失敗、講演は不評に終わる。1866年3月、ベルギー、ナミュール市のサン・ルー教会を見物中倒れ、右半身不随、失語症の症状を呈し、7月パリに戻り入院、翌1867年8月31日没。46歳。モンパルナス墓地に埋葬される。遺稿として、アフォリズム的な『火箭(ひや)』(1855~1862執筆)、『赤裸の心』(1859~1866執筆)や、風刺的な文明批判の書『哀れなベルギー』(草稿)がある。
[横張 誠]
ボードレールは、遅れてやってきた過激なロマン主義者としても、現代性を掲げ都市生活の美学を提唱して、時代を先取りしすぎたことによっても、結局、同時代の無理解に自ら苦しまねばならず、貧困と孤独にさいなまれた生涯を送った。しかし、自己と対象に向けられた透徹した批判精神に支えられた独特の叙情をもって、象徴主義以後の近代詩全般の基礎を築いた知的詩人であり、近代絵画の成立に寄与し、さらに、その後の批評のあり方を明確に方向づけた美術批評家であったにとどまらず、近代社会の危機を明敏に感じ取り、容赦なく批判した文明批評家でもあった。
[横張 誠]
『福永武彦他訳『ボードレール全集』全4巻(1963~1964・人文書院)』▽『阿部良雄著『群衆の中の芸術家――ボードレールと19世紀フランス絵画』(1975・中央公論社)』▽『河盛好蔵著『パリの憂愁――ボードレールとその時代』(1978・河出書房新社)』▽『阿部良雄訳『ボードレール全集』全6巻(1983~1993・筑摩書房)』
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唯一の詩集《悪の華》によってフランス近代詩の創始者となった詩人。パリに生まれ,青春時代の南方旅行(モーリシャス島,レユニオン島)および最晩年のベルギー滞在を除けば,19世紀資本主義興隆期のパリにほぼその生涯を過ごした。早くから絵画,イメージに引かれ,詩作に優れた才能を示した。主としてロマン主義の詩人たちを耽読(たんどく),ブルジョア道徳に反抗した。実父の巨額な遺産を相続してからは,セーヌ川に浮かぶサン・ルイ島上のピモダン館に居を構え,当時流行のダンディたらんとする。このころ身元不明の混血女ジャンヌ・デュバルと知り合い,以後腐れ縁となるが,この恋愛から官能的でエキゾティックな詩編が生まれる。詩人の浪費ぶりに肝を冷やした家族の手で,法定後見人をつけられ,子ども時代に母親カロリーヌが再婚したこととともに,終生にわたって屈辱の種子となる。以後パリの文学ジャーナリズムの世界で売文に苦しみ続ける生涯を送る。七月王政が終わる48年の労働者革命の際は銃を手に反徒側に立つといったエピソードもあるが,51年のナポレオン3世によるクーデタおよび第二帝政期には政治熱も薄れ,詩編,文学美術批評,刺激物の陶酔を主題とした《人工楽園》,エッセー,またE.A.ポーの翻訳などを雑誌,新聞などに発表し続ける。だが,彼の反時代的な貴族的倫理性や,都市生活者の憂鬱(ゆううつ)と頽廃(たいはい)を素材とする近代的美学,そこからの脱出願望としての観念的かつ超自然的世界への憧憬などが一般には理解されず,近代社会における悲劇的な詩人像を生み出す結果となる。
この間,文学サロンを開いていたサバティエ夫人,舞台女優マリー・ドーブランへのいずれも不幸な結果となった恋心は《悪の華》の恋愛詩編群に歌われる。57年初版のこの詩集は,鋭利な自己分析と的確な詩語,力強いイメージによって,一近代人の苦悩を誕生から死までというアルバム風に組んだもので,〈新しい戦慄〉(ユゴー)を詩界にもたらした。また,若い時より〈サロン〉評の筆をとった詩人はドラクロアを賛美し,C.ギースの近代性,風刺画家たちの特徴をよくとらえ,リアリズム,写真などへ移行する美術史の流れの中で重要な視点を提出した。文学批評にも優れ,ユゴー,ゴーティエ論などに鋭い詩観を示している。《内面の日記》は断片的なノートであるが,楽天的進歩観に対する精神の怒りとペシミズムが横溢(おういつ)している。長年の宿痾(しゆくあ)である梅毒の悪化に伴い,ベルギーに滞在中ナミュールで昏倒し,パリで悲劇的生涯を終え,モンパルナス墓地に埋葬された。死後まとめられた《小散文詩集,パリの憂鬱Petits poèmes en prose,Spleen de Paris》は,散文詩というジャンルを文学として確立した。ベルレーヌ,ランボー,マラルメ,バレリーらによって,ボードレールの名声は20世紀に入って世界的となり,日本でも明治時代に早くも紹介され,上田敏の訳がある。また蒲原有明,永井荷風,萩原朔太郎,西脇順三郎らにボードレールの影響がみられる。
執筆者:井上 輝夫
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1821~67
フランスの詩人。時期的には後期ロマン派に属すが,より知的・近代的な抒情詩を書いた。形式的には象徴派の前駆とみられる。主作品『悪の華』『パリの憂うつ』,文学評論『ロマン派芸術論』。
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…1832年,ベルギーの物理学者J.プラトーのフェナキスティコープphenakisticope(あるいはフェナキストスコープphenakistoscope),ドイツの科学者フォン・シュタンパーのストロボスコープstroboscope,次いで翌33年にはイギリスの数学者W.G.ホーナーのゾーエトロープzoetropeといった網膜の残像現象を利用した装置が発明され(すでに1820年代からソーマトロープthaumatropeや〈ファラデーの車輪〉などの錯視の原理による玩具が発明されていたが),50年代から60年代にかけて科学玩具としてもてはやされた。フランスの詩人ボードレールは,51年にこれらの科学玩具の一つフェナキスティコープについて次のように書き,きたるべき映画を予知しているかのようである。〈何かしら一つの運動,例をあげればダンサーなり軽業師なりの一つづきの演技が,幾つかの数に分解されていると仮定して頂きたい。…
…現在では詩の多様な表現形態の一つとして定着しているが,韻文でないものを詩とは見なさないという古い見方からすれば,散文詩という言葉は矛盾概念であり,せいぜい比喩的な言い方にすぎない。この言葉を意図的に用いたのは,19世紀中葉のフランスで,ボードレールが《パリの憂鬱,あるいは小散文詩集》と名づける作品群を構想した(刊行は1869)ときが最初である。ボードレールはこの作品群の序文の中で,先行例としてベルトランの《夜のガスパール》(1842)をあげたが,ベルトラン自身は自作をファンテジーと呼んでいたにすぎず,このような,いわゆる詩情を感じさせる散文ならば,ルソー,シャトーブリアン,ユゴーなど,ロマン主義文学の作家には数多くの例が見られる。…
…この考え方は,批評家の間ではカスタニャリ,デュランティ,シルベストルThéophile Silvestreらに支持され,芸術家としてはクールベ,ドーミエ,ボンバンFrançois Bonvin(1817‐87)らに共鳴者を見いだした。ボードレールは後にこれを〈創造力の欠如〉として批判するが,初期には彼らの主張を大いに支持した。写実主義によれば,現実la réalitéを描くこと,すなわち真実le réelこそが第1の価値であり,それは美よりも優先する。…
… モレアスが象徴主義と命名するよう提唱した傾向は,もちろんこの時期に始まったのではなく,すでにかなり長い歴史をもっていた。モレアスも真の先駆者としてボードレールの名をあげているとおり,《悪の華》をおいて象徴主義を語ることはできない。ボードレールが大きな影響を及ぼしたのは,自然の事物や日常的な光景のような具象的なものを通して,いいかえれば具体物を象徴として,超自然的な宇宙の秘密を感知し認識するという考えかたに基づいて,詩作が実践されていたからである。…
… ブランメルの掲げたダンディズムの理想は,(1)身につける衣服は目だつものであってはならぬ,(2)はでな色彩・模様は避けよ,(3)仕立てには一分のたるみもあってはならぬ,というものであった。すなわち,当時勃興しつつあった近代産業社会を支える〈貪欲〉〈発展〉〈労働〉の基本理念に対して,〈禁欲〉〈寡黙〉〈無為〉を対立させたものであり,このダンディズムの精神的側面は,その後2人の輝かしき理論家,ボードレール,バルベー・ドールビイのなかで,ロマン主義的反逆と結びつき,美的・倫理的範疇に属する一種の哲学のレベルにまで引き上げられる。彼らに従えば,ダンディズムとは,衣服,立居振舞など,個人の外観に異例の重要性を認めるものではあるが,一分の隙もない服装,端正な挙止は,〈意志を鍛え,魂を訓練する体操にほかならない〉(ボードレール)。…
…こうした体験が,彼の美学と作風の発酵を促した。ボードレールの《悪の華》による歌曲《五つの詩》(1887‐89),ベルレーヌの詩による歌曲《忘れられた小唄》(1886‐88),《なまめく宴》第1集(1903),第2集(1904),詩に触発されたピアノ曲《ベルガマスク組曲》(1890,《月の光》を含む)も,同様の意味で重要である。93年メーテルリンクの戯曲《ペレアスとメリザンド》の舞台上演に接して感動し,これを歌劇に作曲しはじめる。…
…しかし,ディドロの批評は少数の特権的読者を相手にしたものであり,19世紀に不特定多数の顧客を対象とする絵画市場がしだいに成立し,それと並行して新聞・雑誌のジャーナリズムが盛んになった時点で,初めて現代的な美術批評が成立する。ボードレールの美術批評(1845‐63)が画期的なのは,市民社会における芸術家と公衆の困難な関係を明確に意識した点,絵画に特有な表現内容を想定してそれを言語で表現するための工夫をもって美術批評の存在理由とした点などにある。それ以後,新印象主義に対するフェネオンFélix Fénéon(1861‐1944),立体主義に対するアポリネールなど,難解な新芸術を理解させるための新たな言説を生み出すジャーナリスト的文学者の批評が,重要な役割を果たすことになる。…
…明晰な光によって浮彫にされた橋や塔や教会は,威厳と詩情をたたえている。ユゴー,ボードレールの称賛を得た。【小勝 礼子】。…
…フランスでは,錬金術と結びついた色彩象徴を詩作に用いたA.ランボー,〈黒い太陽〉という錬金術的イメージを主題の一つに据えたG.deネルバル,《セラフィータ》で両性具有の神秘を描いたバルザックやJ.ペラダンなど無数の詩人や作家があらわれた。ボードレールやのちのA.ブルトンもその影響下にあった詩人である。彼らの霊感の大きな源泉の一つがÉ.レビの一連の著作であった。…
…それは笑われる人に対して笑い手のうちに突然見いだされた優越感の表現である〉。この点,笑いを語った著名な文献の中で,ボードレールの《笑いの本質》(1855。のち《審美渉猟》に収録)は異色のものだろう。…
※「ボードレール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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