インドネシア,スマトラ島南東部に位置する南スマトラ州の州都。スマトラ第2の都市で人口129万0599(2003)。市はムシ河口から約90km上流に位置するが,川幅は約300mあり,水深は高水時で20mに及び,海洋航行の大船もらくに河港に接岸できる。標高は2mにすぎず,付近では大小の支流が合流し,かつ背後に高燥なスマトラ南部の広大な丘陵地域を控える。このすぐれた位置によって古くから開け,東南アジア文化の一中心ともなった。市街はムシ川両岸に広がるが,西岸のイリール地区にかつての王城や官庁,住宅地,商業地が並ぶ。商業地区にはパレンバン人のほかジャワ人,中国人,アラブの居住者も多い。原住民地区では川のはんらんに適応した杭上居住,家船居住もみられる。20世紀以後,市は付近の油田開発の中心となり,近代都市に変貌してきた。ムシ川西岸には大精油所が並び,石油,各種農産物の積出しが盛んである。第2次大戦後国立スリウィジャヤ大学が設置された。
執筆者:別技 篤彦 東西交易の中継点の一つであったパレンバンは,7世紀後半から3世紀半のあいだ,港市国家スリウィジャヤの首都として栄えた。13世紀後半から17世紀前半にかけて,シンガサリ,マジャパイト,デマック,マタラム・イスラムなどジャワ諸王国の支配を受けた。17世紀前半になると,マラッカ海峡支配をめぐるアチェ,オランダ,ジョホール間の競争が熾烈化し,この混乱に乗じるようにパレンバン在地権力の独立性が強固なものとなった。1630年代の〈シンブル・チャハヤ法〉の制定により,パレンバンにスルタン制が制度化され,後背地の支配にも乗り出している。当時のパレンバンは,周辺地域で産出されたコショウ,スズの積出港としても活況を呈した。貿易独占権をめぐる不断の抗争の結果,オランダはスルタンとの軍事対決に出,1825年にスルタン制は廃止され,パレンバンはオランダの直接支配下に入った。以来,南部スマトラの中心都市として発展。
執筆者:加藤 剛
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インドネシア、スマトラ島南東部の都市。スマトラ島第二の都市で、南スマトラ州の州都。人口約143万9900(2001推計)、164万9298(2018推計)。ジャワ海西部に注ぐ大河ムシ川の河口から約83キロメートル上流に位置する河港であるが、川幅は300メートル、水深も20メートルに達し、海洋船の入港も可能である。標高は2メートルほどにすぎないが付近で多くの支流が合流し、かつ背後に高燥な丘陵地帯も広がるなど地理的条件に恵まれ、古くから東南アジアにおける重要な貿易港として発展した。早くからインド文化が流入し、7世紀にはここを中心に仏教王国シュリービジャヤが栄え、近代にはスルタン王国が生まれた。19世紀に入りイギリス、オランダによる争奪が行われたが、1825年オランダ領となり、1942~1945年日本に占領された。市街はムシ川の両岸に広がる。左岸はかつてのスルタンの王宮を中心に、官庁や商社、住宅が建ち並び、下流の商業地区には中国系、ジャワ系住民の居住が多い。右岸にはアラブ系の集団居住地もある。ムシ川の一部には杭上(こうじょう)家屋や家船居住者もみられる。20世紀初頭以後、付近の油田開発の中心地となり、インドネシア最大の石油基地としておもに石油と後背地の農林産物の積出し港として繁栄し、近代的都市に変貌(へんぼう)してきた。太平洋戦争初頭の1942年(昭和17)、この地域の石油資源を求める日本軍は落下傘部隊による奇襲降下を敢行した。地方空港、国立シュリービジャヤ大学がある。
[別技篤彦]
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インドネシア,南スマトラ州の州都。古来重要な貿易港で,シュリーヴィジャヤの王都。15世紀初め華僑(かきょう)の一大勢力があった。16世紀後半から同名のイスラーム王国の都となり,胡椒(こしょう),錫(すず)の輸出で栄えた。植民地期はパレンバン州の州都。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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