日本大百科全書(ニッポニカ) 「琉球貿易」の意味・わかりやすい解説
琉球貿易
りゅうきゅうぼうえき
琉球(沖縄)が中国、日本、朝鮮、東南アジア諸国との間に行った対外貿易の通称。その最盛期は14~16世紀で、「貿易国家」「海洋国家」の名をほしいままにした。
1372年、琉球では中山(ちゅうざん)王察度(さっと)が初めて明(みん)国に入貢し、進貢貿易(朝貢貿易)を開始した。当時明国は進貢国に限ってのみ貿易を許可していたため、対中国貿易を行うためには、皇帝の冊封(さくほう)を受け、皇帝に貢物を呈して臣従を表す外交的・政治的関係が前提とされた。貿易船の数、渡航回数、貿易品の量なども原則として中国側から指示されていたので、対中国貿易のポイントはいかに有利な条件を確保するかにあった。琉球は二年一貢をはじめとして、もっとも有利な条件を中国側により保障されたため、毎年多くの船舶が東シナ海を往来することとなった。一方、明は、商船の自由な海外渡航を禁止する海禁政策をとっていたため、中国商人の活躍舞台は大幅に狭められていた。そのため陶磁器、絹織物をはじめとする優秀な中国産品を入手し、中国商人にかわってこれを海外諸国に貿易する好条件が琉球の前に現出した。
1429年、琉球を統一して琉球王国を樹立した尚巴志(しょうはし)は、中国との進貢貿易を主軸に、日本、朝鮮および東南アジア諸国との貿易を飛躍的に発展させた。その状況は外交文書集『歴代宝案(れきだいほうあん)』にみえる。馬、硫黄(いおう)などの交易品を除くとさしたる産物をもたない琉球が、なにゆえに東アジア、東南アジアにまたがる貿易を展開しえたのだろうか。理由は次のとおりである。第一は、先述したように明の進貢貿易策、海禁政策が客観的条件として琉球に有利に働いたことにある。第二は、中国産品を日本や東南アジアに、そして東南アジア産品をもって中国、日本、朝鮮にというように中継貿易が可能であった点である。第三は、中国人の帰化集団(閩人(びんじん)三十六姓という)を貿易の推進に活用し、中国製の大型ジャンク船を用いるなど、航海・貿易体制が充実していたことである。第四は、貿易を王国が経営し、国策の基本として対外貿易を推進したからである。
那覇は博多(はかた)、堺(さかい)などの日本商人やその他の外国商人も来航してにぎわったが、やがて16世紀中ごろになると琉球の貿易もしだいに衰え始める。ポルトガル、スペインの進出、中国商人や日本商人の海外発展などが琉球の優位性を奪い始めたからである。島津(しまづ)侵入事件(1609)以後の近世では、鎖国制が適用されたこととも相まって、清国との進貢貿易のほかは薩摩(さつま)商人との限定的な貿易のみが行われるにすぎなくなった。
[高良倉吉]
『高良倉吉著『琉球の時代』(1980・筑摩書房)』