ピカロpícaro(あまり暴力的ではなく、ときにはユーモアも備えた、ずる賢い、ぺてん師的な小悪党)を主人公にした小説で、一般に悪漢小説とか悪者(わるもの)小説と訳されている。小説のジャンルとしては騎士道小説や牧人小説ほど、はっきりした性格を備えていないが、多くのピカレスク小説に共通してみられる点としては、虚構の自伝形式をとり、下層階級出身の主人公が次々と事件に出会い、異なる階級の人たちに接するという形式があげられる。また内容的には、主人公のピカロがつねに飢えにさいなまれているアンチ・ヒーローで、作品中に高尚な感情――とくに愛――についての言及がないことが大きな特色となっている。
一般にピカレスク小説の最初の作品と考えられているのは、16世紀なかばにスペインで出版された作者不詳の『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』(1554)であり、この作品には前記の特徴がすべて備わっている。しかし、スペインでピカレスク小説が流行するきっかけをつくったのは、マテオ・アレマンの『グスマン・デ・アルファラーチェの生涯』(1599、1604)で、この小説が発表されたあとの半世紀間には、多数のピカレスク小説が出版された。そしてそれらは、なんらかの意味で教訓的であるのを特色としている。一方、虚構の自伝体でエピソードを語り継ぐというその形式は、他国の作家たちにも好んで受け入れられ、グリンメルスハウゼン『阿呆(あほう)物語』(1669)、デフォー『モル・フランダーズ』(1722)、ル・サージュ『ジル・ブラース物語』(1715~35)といったピカレスク小説の傑作を生み出した。ピカレスク小説が下層階級の出身者を主人公にしたことから、小説のなかに写実的な要素が持ち込まれるようになったのは確かで、これが近代小説の誕生に大きく寄与していることはいうまでもないだろう。
[桑名一博]
(井上健 東京大学大学院総合文化研究科教授 / 2007年)
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