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ピコ・デラ・ミランドラ ピコ・デラ・ミランドラPico della Mirandola, Giovanni, count di Concordia

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ピコ・デラ・ミランドラ
Pico della Mirandola, Giovanni, count di Concordia

[生]1463.2.24. ミランドラ
[没]1494.11.17. フィレンツェ
イタリアの人文主義者。貴族の家に生まれ,ボローニャ大学で法学を,パドバ大学でアリストテレス哲学(→アリストテレス)を修めた。またパリ大学でヘブライ語を修め,カバラに興味を示し,カバラ的教説をもってキリスト教神学を補強しようとした。1484年フィレンツェに出て,マルシリオ・フィチーノによって始められたプラトン・アカデミー(→プラトン主義)の一員となった。1486年に発表した『人間の尊厳について』De hominis dignitate oratioは大きな波紋を広げ,ローマ教皇庁により異端とされ,フランスに逃れた。のちロレンツォ・デ・メディチの庇護のもとフィレンツェに帰り,以後アカデミーで聖書や天文学の研究に専念し,異端の嫌疑も 1493年には解かれた。主著『ヘプタプルス』Heptaplus(1489),『存在と一』De ente et uno(1491)。

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百科事典マイペディアの解説

ピコ・デラ・ミランドラ

イタリアの人文主義者。フィチーノとともにルネサンス新プラトン主義を代表する。その美貌と博識から〈天使のごときピコ〉と呼ばれる。東洋諸語の習得,ヘルメス思想からカバラに至る秘教的伝統(古代神学)への沈潜などは,古今の教説の宥和と統合による〈哲学的平和〉の実現を目したもので,有名な《人間の尊厳について》(1486年)もその一環。
→関連項目モア

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ピコ・デラ・ミランドラ
ぴこでらみらんどら
Giovanni Pico della Mirandola
(1463―1494)

イタリア・ルネサンス期の哲学者。北イタリア、ミランドラの領主の子として生まれる。14歳にしてボローニャで教会法を学び、フェッラーラで文学、哲学に接し、パドバでスコラ的アリストテレス主義とアベロエス主義の体系的研究を始め、アラビア、ユダヤの思想にも興味をもった。さらにフィレンツェに出てフィチーノをはじめとするプラトン・アカデメイアの人々と親交を結び、パリ滞在を経て、1486年イタリアのペルージアでカルデア人の書物、カバラ、コーランを研究後、ローマで『哲学、カバラ、神学の諸結論』を出版した。
 この書物は、いろいろな国の宗教的、哲学的伝統は共通な源泉をもつという確信から、それらの総合を目ざして、自分が学びえたあらゆる立場の考え方を集めた402の論題と、自ら新しい哲学的解決を導入したり、キリスト教の真理を種々な文化伝統の収斂点(しゅうれんてん)として証明しようとする論題など、900にも上る論題をまとめたきわめて広範な集大成である。ときに弱冠23歳であった。この論題について、1486年にローマで公開討論するため、多くの学者に招待状を出すが、法王庁が疑義をもち、討論は禁止された。このとき書かれたのがのちに著作となった『人間の尊厳について』である。その思想は、あらゆる宗教、哲学を総合しようと折衷的特徴が多くみられるが、本質的にはプラトン的色彩が強い。[大谷啓治]

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