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ファハド Fahd

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ファハド
Fahd

[生]1923. リヤード
[没]2005.8.1. リヤード
サウジアラビアの第5代国王 (在位 1982~2005) 。フルネーム Fahd ibn 'Abd al-'Aziz al-Sa'ud。初代アブドゥル・アジーズ国王 (→イブン・サウード) の第9子。リヤードで王室教育を受けたのちアメリカ合衆国に留学。帰国後,1953年教育大臣に就任。1962~75年内務大臣。1975年からハーリド国王 (在位 1975~82) のもとで皇太子,第1副首相。国王が病弱だったため事実上国政を主導し,親米,近代化路線を推進した。1982年6月,ハーリド国王の死に伴い国王に即位,同時に首相も兼任。近代化に努める一方,世界的なイスラム復古主義の潮流を見すえ,みずからの称号を「イスラムの聖地メッカ,メジナの守護者」に変えた。1990年8月のイラク軍のクウェート侵攻によって引き起こされた湾岸戦争では大量のアメリカ軍を受け入れ多国籍軍に勝利をもたらしたが,国内の民主化を内外から問われ,1991年3月,初の明文憲法ともいうべき国家基本法を発布,1993年には国王に助言する諮問評議会を新設して改革に取り組んだ。

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百科事典マイペディアの解説

ファハド

サウジアラビアの国王。初代国王アブド・アルアジーズ・ブン・サウードの子。リヤド生れ。正確な生年月日は不明で,生年は1921年ともいわれる。アメリカへの留学経験があり,第3代国王ファイサルの右腕としてサウジアラビアの近代化に尽力した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ファハド
ふぁはど
Fahd bn. ‘Abd al-‘Azz al-Sa‘d
(1921―2005)

サウジアラビアの第5代国王(在位1982~2005)。リヤドに生まれ、王室教育を受けたのちアメリカに留学する。1949~1953年のジウフ地方の知事を皮切りに政府の役職につく。1953年初代文相に就任、この間近代的な教育制度の導入に努めた。第3代国王ファイサルの信望が厚く、1962~1975年に内相として国内治安をつかさどった。1968年第二副首相となる。1975年3月国王ファイサルの暗殺により第4代国王ハリドが誕生すると、新国王のもとで皇太子に指名され、第一副首相を兼任した。親米的な近代化推進論者であった。1982年6月国王ハリドの逝去に伴い、第5代国王に即位した。その後外部からの脅威、とくにイラン革命(1979)とイラン・イラク戦争(1980~1988)を契機とするイランの敵意に直面し、アメリカ依存をますます強めてきた。一方、1986年にはメッカとメディナの二大聖地(モスク)の管理者を自称し、イスラムへの敬虔(けいけん)さを強調した。1995年に脳卒中で倒れた後は国政の実務を皇太子のアブドラ(第6代国王)に任せていた。[木村喜博]

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世界大百科事典内のファハドの言及

【サウジアラビア】より

…反対勢力も存在したが,68,69年の大量逮捕などで一応の安定を保った。 ハーリドはファイサルほどのカリスマ性を欠き,ファハドFahd b.‘Abd al‐‘Azīz皇太子(1922‐ )が親米・開発路線の推進役を演じた。しかし,アラブ世界の総意尊重が王制護持を約束するとの立場から,エジプトの対イスラエル単独和平やアメリカ主導のキャンプ・デービッド合意を否認した。…

※「ファハド」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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