1995年に就役し、2004年から神奈川県の米軍横須賀基地に配備された米海軍のイージス駆逐艦。海上配備型迎撃ミサイル(SM3)を装備した弾道ミサイル防衛(BMD)対応艦で、原子力空母ロナルド・レーガンを含む空母打撃群に所属して日本近海で北朝鮮の弾道ミサイル警戒などに当たっている。今年4月には海上自衛隊のイージス艦と日本海で共同訓練を実施し、6月上旬にもR・レーガンなどとともに海自と訓練した。全長154メートルで8315トン、最大速力は32ノット。東日本大震災では、米軍の支援活動「トモダチ作戦」に参加した。
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アメリカの小説家。9月24日、ミネソタ州セント・ポールに生まれる。プリンストン大学に在学中、第一次世界大戦を迎え、志願して陸軍少尉に任官。ほかの「失われた世代(ロスト・ジェネレーション)」の作家たちと異なり、戦場に赴くことなく、終戦まで内地勤務であったため、ヘミングウェイの文学が戦争体験を原点としているのに対し、彼の文学は戦後アメリカの社会風俗を描いたところに特色がある。処女作『楽園のこちら側』(1920)は、若い世代の生態を赤裸々に描き、古い道徳と決別し、自らの生き方を模索する彼らの状況をとらえている。この作品は若い読者層に迎えられ、「アメリカ青年の王者」とまでよばれた。同年、かねてから熱愛するゼルダと結婚。人気作家となってからは、パーティーや歓楽に明け暮れる歳月を送る。はた目には華麗を極めた生活だが、崩壊の兆しはすでにこのころからみえていた。流行作家として莫大(ばくだい)な収入があったにもかかわらず、浪費癖のため支出がかさみ、手軽に金になる大衆雑誌向け短編を書きまくらねばならなくなり、彼の作家的良心は痛んだ。こうして長編の構想も実現できぬまま、しだいに焦燥に駆られていった。
1922年、『美しく呪(のろ)われた人』を刊行したが不評に終わる。生活の混乱と制作上のジレンマを清算すべく、24年、フランスへ渡り、南仏リビエラに落ち着く。腰を据えて仕事に取り組み、『偉大なギャツビー』(1925)を完成。これは20年代のいわゆる「ジャズの時代」を「二重の視点」から描いた作品で、彼の代表作となる。時代の風俗や感性を内側から生き生きと描出すると同時に、一方では、覚めた目で批判的に観察する作家の姿勢がユニークである。『偉大なギャツビー』を完成したのち、またもや生活は乱脈を極める。アメリカとヨーロッパを転々としながら、「1000ドル・パーティーと仕事はゼロ」という生活が続く。こうした生活が災いしたのか、30年、妻のゼルダが精神に異常をきたし、入院。この時期を境に、彼の人生は一直線に崩壊に向かう。妻の病気に加え、彼自身強度のアルコール中毒に苦しむ。また30年代の不況期を迎えて、彼の作品は急速に人気が下降する。34年、第四の長編『夜はやさし』を刊行するが不成功。37年、シナリオライターとしてハリウッドへ行き、不遇の日々を送る。40年12月21日、心臓発作のため44歳で世を去る。死後、ハリウッドを舞台にした未完の長編『最後の大君(たいくん)』(1941)が、45年には自伝的文章を集めた『崩壊』が出版された。生前、4冊の短編集が出たが、そこに未収録のものも含めて、約160の短編、随想がある。
[渥美昭夫]
作者自身は長編作家としての自負が強く、短編には重きを置いていないが、今日ではむしろ、彼を短編の名手とみる向きが多い。長編が推敲(すいこう)を重ねて書かれるのに対し、勢いにのって一気に書き上げる短編のほうに、かえってモチーフの新鮮さと、生き生きとした情感が感じられ、この作家の魅力があふれている。少年バジルを主人公に、少年時代の思い出を綴(つづ)った連作など、少年のみずみずしい感受性を鋭くとらえている(『スキャンダル探偵』など)。短編は自伝的要素が濃く、『赦免』『冬の夢』など、もちろんフィクションではあるが、少年時代、青年時代の夢や悩みがにじみ出ている。このことは後期作品についてもいえる。『バビロン再訪』のような短編や、『崩壊』『取扱い注意』『貼(は)り合わせ』などの随想は、不幸な晩年を送った作者が華麗だった半生を振り返り、知らずに犯してきた過ちを分析したもので、彼の全作品のなかでも第一級の価値をもつ。このほか、第一次世界大戦後の精神風土を巧みにとらえた『メイ・デイ』(1920)をはじめ、好短編が多い。
[渥美昭夫]
『渥美昭夫・井上謙治編訳『フィッツジェラルド作品集』全3巻(1981・荒地出版社)』▽『野崎孝編『20世紀英米文学案内7 フィッツジェラルド』(1966・研究社出版)』▽『刈田元司編『フィッツジェラルドの文学』(1982・荒地出版社)』▽『永岡定夫・坪井清彦編訳『フィッツジェラルドの手紙』(1982・荒地出版社)』
イギリスの物理学者。アイルランドのダブリンに生まれる。1877年にトリニティ・カレッジのフェローとなり、1880年よりダブリン大学の実験物理学教授を務めた。彼はH・A・ローレンツと独立に、「マイケルソン‐モーリーの実験」結果の説明として短縮仮説を提唱したことで知られ、それは今日、「ローレンツ‐フィッツジェラルドの短縮仮説」とよばれている。彼の研究の全体をみれば、その中心はマクスウェルの電磁理論の展開と応用にあった。また、彗星(すいせい)の尾の成因を論じたことでも知られる。
[井上隆義]
アメリカのジャズ歌手で、ジャズ・ボーカルの女王的存在。バージニア州生まれ。1934年ニューヨークの劇場におけるコンテストで優勝。まもなく名ドラマーであるチック・ウェッブの楽団に参加。38年に自作『ア・ティスケット・ア・タスケット』が大ヒットして人気スターになり、41年ソロ活動に入った。46年からノーマン・グランツのグループJATPの公演旅行に参加、53年(昭和28)初来日。52~71年までジャズ誌『ダウン・ビート』の人気投票で連続1位を続けた。250枚以上のアルバムに参加、グラミー賞12回など受賞多数。歌曲に対する的確な解釈、スウィング感、創造性、高度のテクニック、大きい個性をもち、人柄の出た明るい歌唱で50年以上も広く親しまれてきた。健康を害して93年に引退。
[青木 啓]
イギリスの詩人。スペインのカルデロン・デ・ラ・バルカの戯曲の翻訳(1853)がある。中世ペルシア詩人ウマル・アル・ハイヤーミーの四行詩集『ルバイヤート』(1859。3種類の改訂版がある)の自由訳で有名。19世紀の憂愁を反映する大胆かつ繊細なこの訳詩集は当初詩壇で無視されたが、当時の代表詩人D・G・ロセッティの高い評価を受けて以来、無数の版を重ねた。
[早乙女忠]
アメリカの小説家。ミネソタ州セント・ポール出身。第1次大戦に志願して少尉に任官されたがもっぱら内地勤務で,プリンストン大学在学中に書き始めていた小説の完成に専念,終戦後改作してようやく出版されたのが処女作《楽園のこちら側》(1920)。権威が失墜した既成道徳に思いきり反逆する当時の若者の思考と感情を,奔放な行動を通して直截に描いた小説だが,粗笨(そほん)な仕上がりにもかかわらず時流に投じて戦後世代の絶大な共感を呼んだ。この出版を契機に実現した彼の結婚のエピソードや彼ら夫婦の華麗きわまる新婚生活ぶりと相まって,彼は〈ジャズ・エージの桂冠詩人〉ともてはやされ,新時代の声を代弁する新進作家にまつり上げられた。彼のほうでもまた世間の期待と要望にこたえて《フラッパーと哲学者》(1920),《ジャズ・エージの物語》(1922),《すべて悲しき若者たち》(1926)と,題名からして新時代風な作品集にまとめられる気のきいた短編の数々や,長編《美しくも呪われた人たち》(1922)などを書きとばしてゆく。しかし富と自由にあこがれ都会風の洗練と優美を愛した彼の内面には,誠実・真摯(しんし)を貴ぶ古風なモラルが生きていて,代表作《偉大なるギャツビーThe Great Gatsby》(1925)では,すでに〈神が死んだ〉戦後のニューヨークの風俗の中に〈人生の希望をとらえる高感度の感受性〉をもったジェー・ギャツビーなる田舎青年を登場させ,現代の〈荒地〉の中を生き抜いてゆくその〈浪漫的心情〉の軌跡を,一抹の皮肉をたたえた心からの嘆賞をこめて描き上げている。過労と酒と妻の精神異常に苦しめられた彼は,1930年代に入って情勢の一変したアメリカ社会から急速に忘れられてゆき,はてはハリウッドに移って映画のシナリオ作家になるが,そうした逆境の中で書いた《夜はやさし》(1934)や未完の遺作《最後の大君》(1941)には,台頭する新興勢力の前についえ去ってゆく古い美徳への挽歌が鳴っている。《崩壊》(1945)は親友E.ウィルソンが編集した彼の拾遺随想集。
→ロスト・ジェネレーション
執筆者:野崎 孝
イギリスの物理学者。ダブリンに生まれ,トリニティ・カレッジで学び,1877年トリニティ・カレッジのフェロー,80年ダブリン大学実験物理学教授となった。H.R.ヘルツやH.A.ローレンツらと並んでマクスウェル理論に深い関心を示し,とりわけ光の電磁理論に注目し研究を行った。方向による光速度の差を検出しようとして行われたマイケルソン=モーリーの実験の否定的結果に関心をもち,帯電物体がエーテル中を運動するとき電気力が変化することから,分子間力も同様に変化し,それによって運動方向に物体は短縮することも考えうるとして,89年短縮仮説を提出した。この説は当時注目されずにいたが,95年にローレンツが同様の見解を提出するにいたって広く知られるようになり,フィッツジェラルド=ローレンツ収縮と呼ばれるようになった。ほかに,すい星の尾は小粒子からなるとして,それの受ける斥力を太陽の光圧で説明することも行った。
→相対性理論 →ローレンツ収縮
執筆者:小林 武信
アメリカの黒人女性ジャズ歌手。バージニア州ニューポート・ニューズ生れ。少女時代,ハーレムの〈のど自慢〉で歌っているところをジャズ・バンド・リーダー,チック・ウェッブWilliam (Chick) Webb(1907?-39)に認められ,専属歌手として1935年デビュー。スウィング・ブーム到来とともにナンバーワン女性歌手となり,ウェッブの死後約1年,そのバンドのリーダーを務めた。その後独立,デッカ→バーブ→パブロ各レコードのドル箱歌手として活躍を続けてきた。72年重い眼病を患い再起を危ぶまれたが,翌年みごとにカムバックした。ルイ・アームストロング,デューク・エリントン,カウント・ベーシーらジャズの巨人との共演レコードも多く,半世紀ちかくにわたりジャズ・ボーカルの女王として君臨した。代表作は《アーリー・エラ》《エラ&フェラ》(ともにデッカ),《アット・オペラハウス》《シングス・デューク・エリントン》《イン・ベルリン》(いずれもバーブ),《ファイン&メロー》《エラ&パス・アゲイン》(ともにパブロ)などである。
執筆者:油井 正一
イギリスの詩人,翻訳家。繊細な感受性と洞察力をもち,サフォークの田園で静かに翻訳活動をした。その一生は友愛に満ち,ユーモラスでやさしい書簡集でも有名だが,彼の名を不朽にしたのは,11~12世紀のペルシアの詩人ウマル・ハイヤームの《ルバーイヤート》の名訳(1859)である。原詩は神秘的4行詩で,人生の無常を嘆き,美女,ワイン,詩の喜びで浮世の苦悩を忘れようとするエピキュリアン的刹那主義の長大な詩であった。フィッツジェラルドはこれをうまく整理して組みかえ,有機的統一性のある一組の詩とした。〈めざめよ,初光は夜空の星くずをけちらし,いまやサルタンの塔に光の矢をそそぐ〉の詩行で始まるこの詩集の近代詩に与えた影響は大きく,ラファエル前派のロセッティらに鮮烈な新風を吹き込んだ。それは,単なる翻訳の領域を超えた,卓越した詩人の芸術的創作であった。
執筆者:松浦 暢
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…それは,電磁波は真空や物質の中を一様に満たしているエーテルという仮想的な媒質の中を伝わるというものであり,マイケルソン=モーリーの実験(これも静止したエーテルの存在を実験的に見いだそうとしたものである)が,これに対して否定的な結果を与えた後も,この考えはなかなか捨てられなかった。このような仮想的な物質を仮定することは,かえって困難を増すのみであったが,H.ローレンツとG.フィッツジェラルドは,それぞれ独立に,エーテル説に立ったうえで,マイケルソン=モーリーの否定的実験を説明するためには,速度vで動く物体は,その進行方向に倍短くなると考えればよいことを示した(ローレンツ収縮)。しかし,あらゆる物体が,その種類をとわず一様に収縮する機構を説明することはできなかった。…
…マイケルソン=モーリーの実験は,絶対静止系(エーテル系)の存在を否定するものであったが,H.A.ローレンツはなおエーテル説との両立を求め,エーテルに対して速度vで動く物体は,光速度をcとすると,その方向にの割合で短くなると考えればよいことを示した(1893)。この仮説をローレンツ収縮,またはローレンツ短縮という(G.F.フィッツジェラルドも独立にこの仮定を立てており,フィッツジェラルド=ローレンツ収縮ともいう)。しかしすべての物体が,その物質や構造に関係なくエーテルに対する速度だけによって決まる割合で変形を受けると考えるのはいかにも不自然であった。…
… 第1次世界大戦を経て,戦後のいわゆるロスト・ジェネレーションの作家たちは,1920年代の〈荒地〉的風景において,その名の示す通り,神の恩寵から見放された人間の状況を書いた。F.S.フィッツジェラルドは《偉大なるギャッツビー》(1925)その他の作品でジャズ・エージの夢が崩壊するさまを書き,ヘミングウェーは《陽はまた昇る》(1926)以下の作品において〈ハードボイルド〉と呼ばれる,タフ・ガイが非情に語るような文体を駆使して現代の空虚に生きる人間を示した。フォークナーも特異な文体家であるが,代表作《響きと怒り》(1929)などにより,南部社会の深層を〈意識の流れ〉の手法の開拓やトウェーン伝来の語り口を通じてみごとに剔出して見せた。…
…繁栄と,戦後の解放感から,とくに若い世代が,前代までの保守的な道徳律に反抗して,一般的に享楽的になり,風俗やマナーが急激に変わった時代である。《ジャズ・エージの物語》(1922)という短編集を出し,この言葉をさらに一般化した小説家F.S.フィッツジェラルドも,当時は〈一つの民族全体が享楽的になり,快楽を追い求めていたのだ〉と言っている。それはまず,若い女性の服装の革命的な変化に象徴的に現れている。…
…とくに画期的なのはそのファッションで,裾が膝までしか届かないストレート・ドレス,ショート・ヘア,ペティコート追放,大戦後に初めて現れた化粧品(真っ赤な口紅,アイシャドーなど)がトレード・マークであった。作家F.S.フィッツジェラルドは,短編集《フラッパーと哲学者》(1920),同じく《ジャズ・エージの物語》(1922),長編《楽園のこちら側》(1920)などで,彼女らの生態を文学化している。【金関 寿夫】。…
※「フィッツジェラルド」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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