日本大百科全書(ニッポニカ) 「フィリピン革命」の意味・わかりやすい解説
フィリピン革命
ふぃりぴんかくめい
1896年から1902年にかけてフィリピンでは、スペインの植民地支配を打倒しアメリカの再植民地化を阻止する独立闘争が展開された。これをフィリピン革命という。16世紀後半以来、3世紀余にわたって続けられたスペインのフィリピン支配は、19世紀後半に至って民族的な抵抗を受けるに至った。抵抗運動は、初め植民地統治の改革を要求する言論活動として展開されたが、なんらの成果をみなかった。そこで1892年7月、カティプーナンとよばれる秘密結社が組織され、武力革命を目ざすに至った。カティプーナンは1896年8月までに3万人を超える会員を組織した。しかし、肝心の武器調達がまったく進まないうちに組織の存在が発覚し、8月30日蜂起(ほうき)のやむなきに至った。カティプーナン総裁ボニファシオの檄(げき)にこたえて、ルソン島マニラ周辺の八州が即日蜂起した。革命軍は粗末な手製の武器と、スペイン軍から奪ったわずかな武器で緒戦をよく戦った。しかし、1897年に入って大量の援軍がスペインから到着すると窮地に陥った。またこの間、革命軍内部ではボニファシオとアギナルドの間に指導権争いが生じ、1897年5月ボニファシオは粛清された。新たに革命軍の指導権を掌握したアギナルドは、1897年12月スペインと和約を結んで香港(ホンコン)へ亡命した。しかし、各地の戦場では戦いは中止されず、ゲリラ戦が続行した。1898年4月、アメリカがスペインに宣戦してフィリピン情勢に介入、8月にはマニラを占領した。そして12月、アメリカはスペインとの間にパリ条約を結んで、フィリピンの統治権を譲り受けた。これに対して革命軍は、アメリカによる再植民地化を阻止すべく、自らの力で地方の解放を推進し、1899年1月にはフィリピン共和国を樹立した。こうして革命軍とアメリカ軍の緊張関係は、2月全面戦争へ発展した。軍事力において圧倒的劣勢にたつ革命軍は、ゲリラ戦術で執拗(しつよう)に抵抗を続けたが力及ばず、1902年7月よりアメリカの全面的なフィリピン支配が開始された。
[池端雪浦]
『池端雪浦・生田滋著『東南アジア現代史Ⅱ フィリピン・マレーシア・シンガポール』(1977・山川出版社)』▽『レナト・コンスタンティーノ著、池端雪浦・鶴見良行他訳『フィリピン民衆の歴史Ⅰ・Ⅱ』(1978・井村文化事業社)』