目次 自然 住民 社会 歴史 ムラカ・ジョホール王国 とその分裂 イギリスのマラヤ支配 太平洋戦争とマラヤ マラヤ連合からマラヤ連邦へ マレーシア連邦とその挫折 政治 経済,産業 音楽 基本情報 正式名称 =マレーシアMalaysia 面積 =33万0803km2 人口 (2010)=2825万人 首都 =クアラ・ルンプルKuala Lumpur(日本との時差=-1時間) 主要言語 =マレーシア語(マレー語),中国語,英語,タミル語 通貨 =リンギRinggit
東南アジア,マレー半島南部を占める半島マレーシア(西マレーシア)とボルネオ島北部の島嶼マレーシア(東マレーシア)からなる立憲君主国。イギリス連邦 の一員。イギリス植民地時代に形成された二重経済構造,それを支えた移民の増大に伴う多民族国化は,今日のマレーシア社会を特色づけている。
自然 半島部,島嶼部ともに安定陸塊の一部をなし,全般にゆるやかな起伏の山地と,低平な沖積平野とが単純に配置された地形である。半島部は原地形の成立がやや古いので浸食がより進み,中央の花コウ岩質の山地は高い所で標高2000m程度,南部へいくにつれ準平原が広くなる。中央山地を取り巻く低い山地は石灰岩質で,その付近一帯にスズ鉱の産出が多い。東西両海岸の平野は水田地帯となっている。海岸線は単調で,大型船舶が入れる天然の良港には恵まれていない。島嶼部は二つの対照的な地形の地域に分かれている。サバ 州は山がちで北西部に最高峰キナバル山(4101m)がそびえ,東海岸は水深の大きい湾入が多い。サラワク 州は大部分の土地が標高300m以下,国内最大の河川ラジャン川流域には広大な低湿地が広がる。陸路の開発が遅れているサラワク州では,河川はとくに重要な交通路であり,内陸の主要集落はすべて河川沿いに成立している。
気候は一年を通じて高温多湿であるが,ところによって短い乾季があり,サバ,サラワク両州は4~5月が焼畑の火入れの季節になる。年平均気温は26℃前後,蒸発量が大きいため日中は雲が発生しやすく,これが気温の上昇を妨げるから一日の最高気温が35℃に達するところはまれである。また,降水量が減少するとたちまち干ばつの危険が起こるので,水稲栽培の安定には灌漑施設の充実が重視されている。低湿地を除いて全国土を厚く覆っていた熱帯雨林は,耕地の拡大と林業の発展でしだいに面積を狭めている。とくに1960年以降のラワン原木の伐採は,マレーシアの輸出産業振興政策にも合致し,急速な奥地山林の破壊をもたらした。そのため,やせたラテライト土壌に育つ森林は,ひとたび自然の状態を変えられると再生能力が低下し,低木とシダ類の下生えの二次林(ブルカーbelukar)や,丈の高い雑草(ラーランlalang)の土地と化し,生産性の高い農林業のできない土地が出現しつつある。
住民 総人口の4/5が半島部に居住し,その半数強がマレー人 である。しかし島嶼部ではダヤク族 と総称される人々(カダザン,ムルット,バジャウ,イバン,陸ダヤクなど)が3/5を占め,マレー人は華人(中国人)の1/4強よりも低い1/8強の少数にすぎない。全国人口の3割を占める華人は半島部西岸に集中するほか,都市の主要住民となっている。インド・パキスタン系も半島部に多い。職業と宗教はこれらの人種,民族と密接に結びつき,イスラム教徒 のマレー人は自給的な農・漁業に従事する者が多かったが,最近のマレー人優遇政策のもとで,公務・公益事業の管理職へ進出している。華人は第2・3次産業と事務職に特色があり,宗教は仏教や道教などである。インド・パキスタン系は小規模な商業,サービス業,現業部門の労働につき,ヒンドゥー教 またはイスラムを信仰する人が多い。ダヤク族はなお第1次産業と低賃金労働の分野にとどまっている。近年,海外からの移民はほとんどなくなったが,サバ州にはフィリピンからのイスラム教徒難民と,インドネシアからの出稼労働者が少なくない。
多様な民族構成を反映して,国内で日常使われる言語は10種を超えるが,国語(マレーシア語)教育の普及により,若い世代には共通語の普及が著しい。その反面,かつて上層階級に定着していた英語は勢力を失い,中国語やタミル語も使用範囲が狭くなりつつある。島嶼部の人々の言語は,独自の新聞を発行するカダザン語のほかは公的に使われることがない。マレー語は方言の違いが少なく,もともと異民族間の商用語(リンガ・フランカ )でもあったから,これを標準化したマレーシア語は全国民に広く受け入れられる下地があった(マレー語 )。中国語は都市の華人社会の常用語であり,個人生活になると標準華語(北京語)より広東語,福建語,潮州語などの方言が依然として生きている。 執筆者:太田 勇
社会 マレーシアは典型的な多民族国家である。西マレーシアではブミプトラと呼ばれるマレー系住民,中国系住民,インド系(そのほとんどがタミル系)住民が住み,東マレーシアではこのほかにイバンなどと呼ばれる本来の住民が住んでいる。西マレーシアでは一般的にいって東海岸の諸州と西海岸のケダ,プルリスではマレー系住民が多数を占めるが,西海岸の諸州ではマレー系,中国系の住民がほとんど同数で,インド系住民がこれに加わり,ペナンでは中国系,インド系が多数を占める。また農村にはマレー系住民が多く,都市部には中国系,インド系住民が多いが,ブミプトラ政策 の結果,都市部に居住するマレー系住民の数が増加している。
この3者の共通のコミュニケーションの手段は以前は英語であったが,ブミプトラ政策でマレー語化が推進された結果,マレー語がこれに代わりつつある。もっとも最近の情報化の動きで英語の重要性が再び高まりつつある。高等教育機関のマレー語化は教育水準の低下という深刻な問題をひきおこし ,現在では再検討が進められている。
東マレーシアではイバン族は特別の権利を認められているが,教育を通じてのマレー化は積極的に推進され,多数のマレー人教師が送り込まれている。
歴史 ムラカ・ジョホール王国とその分裂 現在のマレーシアの起源は14世紀の末にムラカ(マラッカ)に成立したムラカ王国 にさかのぼることができる。ムラカ王国は東南アジア地域とインド洋地域を結ぶ中継貿易地として繁栄した。1511年にアルブケルケ の率いるポルトガル 艦隊がここを占領し,ポルトガルの植民地とした。ムラカ王国はジョホールに移り,ジョホール王国 となった。ジョホール王国は国際貿易で繁栄したが,この間にポルトガルの植民地であったムラカは1641年にオランダ東インド会社に占領された。18世紀に入るとスラウェシ からのブギス族の移住もあって,半島にジョホール,パハン,クランタン,トレンガヌ,ペラ,ケダ,スランゴールの諸王国が分立した。
18世紀の末から,マレー半島にはシャム(タイ)のラタナコーシン(バンコク)朝の支配が及ぶようになり,ケダ,クランタン,トレンガヌはシャムに服属するようになった。
イギリスのマラヤ支配 イギリス東インド会社の社員であったフランシス ・ライト はケダ国王からの援助要請を口実として1786年にペナン島を占領し,ここを会社の植民地として,イギリスのマラヤ(マレー半島南部)支配のきっかけを作った。たまたまナポレオン戦争が起こり,イギリスはフランスの支配下にあったオランダと戦い,ムラカを占領した。ナポレオン戦争が終わると,会社はムラカをオランダに返還したが,ラッフルズ はオランダに対抗するために,マラッカ海峡 の出口付近に根拠地を獲得することを主張し,1819年にシンガポールに植民地を獲得した。1824年に英蘭協約 が締結され,ペナン,ムラカ,シンガポールが会社の植民地となり,海峡植民地 と呼ばれた。シンガポールは自由港とされ,東南アジア地域の国際貿易の中心地として繁栄するようになった。
マラヤの特産物の第1はスズ(海峡錫 )であった。19世紀に入ると缶詰用のブリキ板の生産がさかんとなり,それにともなってマラヤ産のスズの需要が高まった。1848年にペラでスズの大鉱床が発見され,中国人鉱山師が領主から権利を獲得して,中国人労働者を使役して,大規模なスズ鉱山の開発を始めた。これらの鉱山師は同時に中国人秘密結社の頭目であり,かれらの縄張り争いは同時に秘密結社相互の武力闘争(械闘)であった。またマレー人の領主はスズ鉱からの利権収入を手にして国王の権威に挑戦するようになり,大きな混乱が生じた。イギリスは初め不介入政策をとっていたが,この混乱につけこんでシャムやフランス,ドイツがマラヤに進出することを恐れ,海峡植民地知事A.クラークが1874年に王国の有力者や中国人秘密結社の頭目たちとの間でパンコール協約 を結び,ペラ王国の内政に介入した。これによって国王のもとにはイギリス人理事官が派遣され,彼が国王の名において徴税権と軍事・警察権を掌握し,王国の中央集権化を進めた。こうしてペラ王国はイギリスの間接支配のもとに置かれた。理事官制度はこののちスランゴール王国にもおよぼされ,さらにヌグリ・スンビランではイギリスの手によって首長国の統合が進められた。1888年にはパハン王国にも理事官が派遣された。パハンでは1891年から94年までイギリスの支配に対する反抗が続いた。またジョホール王国では国王アブ・バカルの指導のもとに独自の近代化が進められていた。
イギリスは1896年に理事官が派遣されていたペラ,スランゴール,ヌグリ・スンビラン,パハンの4国の行政組織を統合してマレー連合州 を組織し,統監を置き,クアラ・ルンプルに駐在させた。1909年には海峡植民地知事が高等弁務官として統監を指揮するようになり,行政の一元化が完成した。同年ジョホール王国も顧問を受け入れ,シャムの属国であったクランタン,トレンガヌ,ペラはシャムにおける治外法権撤廃の代償としてイギリスに譲渡された。この時ペラの一部がプルリスとして分離した。これらの諸国にも顧問が派遣された。ジョホール以下の5国はマレー連合州に加盟することを望まず,一括して非連合州と呼ばれた。こうして海峡植民地(3植民地),マレー連合州,非連合州(合計9国=州)がイギリス領マラヤ を形成することとなった。
スズの生産についで1895年からはゴムの栽培が各地で始まった。ゴム園労働者のほとんどはタミル系インド人であった。スズ鉱山では採掘の機械化が進み,多数の労働者を必要としなくなったので,中国人は都市に,インド人はゴム園に,マレー人は農村に,という地域的,人種的,職業的分布が成立した。イギリス領マラヤの経済は大恐慌時代の一時期を除いては順調に発展した。イギリスはマレー人に対しては保護政策をとり,かれらを農村に居住して稲作に従事するようしむけた。一方植民地支配の正当性を保つために,〈本来の〉権力者である国王,貴族の地位と特権を植民地支配の妨げにならないかぎり保障した。
一方,ボルネオ島北西部には古くからブルネイ王国 があった。イギリス人J.ブルック は1846年サラワクにブルック王国をたて,1881年には北ボルネオ会社が現在のサバ地域を獲得した。イギリスは1888年にブルック王国と北ボルネオ会社領を保護領とした。ブルネイ王国は1906年にイギリスの保護国となった。
太平洋戦争とマラヤ シンガポールを中心とする中国人社会では本国のさまざまな革命運動に対応する運動が組織され,第1次大戦後は南洋共産党(1922~30),マラヤ共産党(1930~ )の活動もあった。マレー人の民族運動はイスラム世界の影響を受け,宗教運動,文化運動として始まった。英語教育を受けた王族,貴族出身のエリートの間にも民族主義的な意識が生まれたが,主たる目標は中国人,インド人に対してマレー人の権利を主張することで,当然の結果としてイギリスに協調的であった。
1941年12月太平洋戦争が勃発すると,日本軍は直ちにイギリス領マラヤに侵入した。イギリス領マラヤのゴム,スズ,石油は日本軍が最も必要としていたものであった。日本軍は42年1月までにマラヤ全土を,2月にシンガポールを占領した。イギリス軍の抵抗は微弱であったが,中国人義勇軍は激しく抵抗した。このため日本軍はシンガポール陥落後,各地で中国人虐殺を行った。日本軍のマラヤ占領の目的は資源の確保で,軍政をしき,中国人の抗日運動を徹底的に弾圧する一方,マレー人,インド人に対しては宥和的な政策をとった。イギリス人官吏を排除した後に大急ぎで養成したマレー人官吏を配置したほか,国王,王族を保護した。また英印軍の捕虜からインド国民軍 を組織した。イギリスは特殊部隊を組織し,主として中国人から成り,マラヤ共産党の指導下にあるマラヤ人民抗日軍を援助したが,その活動は限られたものであった。
マラヤ連合からマラヤ連邦へ 1945年8月15日の日本の無条件降伏は,イギリスにとって予想外のことであった。このためイギリス側には的確な状況判断がないままにマラヤに復帰することとなり,戦後の処理にも不手際が続き,住民の信用を失った。イギリスはかねてから研究していた,各民族に平等の権利を与え,シンガポールを除く海峡植民地とイギリス領マラヤ諸州から成るマラヤ連合案を提示した。中国人とインド人はこれに賛成したが,マレー人の特権を主張するマレー人には不評で,その結果,連合マレー人国民組織(UMNO)が結成された。マラヤ連合は1946年に発足したが,イギリスは1947年にマラヤ連合との間でマレー人の特権を認める連邦協定を結び,48年にマラヤ連邦 が発足した。しかし中国人はこれに不満で,同年主として中国人から成るマラヤ共産党の武装蜂起が始まった。イギリスはこれを徹底的に討伐したが,抵抗は続いた。この間に独立への準備は着々と進められ,住民の側でも中国人の間に対英協調をめざすマラヤ中国人協会(MCA)が結成された。UMNOとMCAが連合し,これに戦前から活動していたマラヤ・インド人会議(MIC)が加わって連盟党が結成され,55年7月の総選挙で圧倒的な勝利を収め,アブドゥル・ラーマン が首相となった。57年8月31日,マラヤ連邦は完全独立を果たした。
一方,シンガポールは戦後イギリスの直轄植民地となり,マラヤ共産党の指導のもとに労働運動,学生運動が激しく行われたが,その中から共産党と対決する形でエリート中心の労働戦線と大衆政党である人民行動党(PAP)が出現した。1955年の選挙では労働戦線が勝利を収めたが,59年の選挙ではPAPが大勝し,リー・クワンユー が首相となった。シンガポールはまず自治国となり,完全独立をめざすこととなった。サラワク,北ボルネオは戦後イギリスの直轄植民地となり,段階的に自治の供与が始まった。ブルネイは保護領のままであった。
マレーシア連邦とその挫折 マラヤ連邦のアブドゥル・ラーマン首相は共産党の脅威を除去し,マレー人の特権を維持するために,マラヤ連邦,シンガポール自治国,サラワク,サバ(北ボルネオ),ブルネイをまとめてマレーシア連邦を結成しようという構想を持っていた。シンガポールはこれに賛成したが,サラワク,サバはラーマン首相に譲歩を要求した上で参加を決め,ブルネイは参加を拒否した。シンガポールは参加の前提として1963年8月31日に完全独立を宣言した。マレーシア連邦は63年9月16日に発足したが,まもなく財政上の問題などで連邦政府とシンガポールとの間に対立が生じ,65年8月9日にシンガポールは連邦を脱退した。
政治 マレーシアは西マレーシアの11州と東マレーシアの2州から成る連邦であり,同時に立憲君主制 国家である。元首である国王はペナン,ムラカを除く西マレーシアの9州のスルタンの互選によって選出され,任期は5年である。連邦議会は国王から任命される議員と各州議会で選出される議員とから成る上院,直接選挙で選出される議員から成る下院の二院制をとり,議院内閣制 である。各州にはそれぞれ元首(スルタンまたは知事)がおり,州政府,州議会を持っている。連邦議会の与党は国民戦線(UMNO,MCA,MIC,その他の州単位の政党で結成)である。
政治の最大の課題はいかにしてマレー人の特権を守りつつ諸民族間の宥和をはかるかということにある。アブドゥル・ラーマン首相(在職1955~59,1959~70)の方針はそれぞれの民族にそれぞれの分野で自由に活動させ,問題が起こった場合だけに政府がその調停にあたるという,植民地時代のイギリスの方針をそのまま踏襲したものであった。しかし1969年の第3回総選挙直後の5月13日にクアラ・ルンプルでマレー系住民と中国系住民が衝突,死者178人を出した事件が起こり(5月13日事件),ラーマン首相はそれまでの態度を改めなければならなくなった。その結果翌70年8月に発表された〈ルクネガラ(五大基本方針)〉によって,マレー人統治者の地位と権能,市民権,マレー人の特権,国教としてのイスラム,唯一の国語としてのマレーシア語の地位に関しては公共の場で討論を行うことが禁止され,政治面におけるマレー人の特権が確認された。それとともにこれを具体的に政策面に反映させたブミプトラ政策が実施された。ラーマン首相のあとをついだアブドゥル・ラザクAbdul Razak首相(在職1970~76),フセイン・オンHussein Onn首相(在職1976~81)もこの方針を忠実に受け継いで,マレー人の地位向上に努力した。
81年7月フセイン・オン首相が健康上の理由で退き,副首相であったマハティール Mahathir bin Mohammad(1925~ )が首相に就任し,現在に至っている。マハティールは医学博士であるが,欧米留学の経験がなく,これまでの首相経験者とは異なる背景を持っている。1964年政界に入ったが,69年にラーマン首相の対中国系市民政策を批判して,一時UMNOを除名され,その著書《マレー・ディレンマ》は発禁処分を受けた。74年以降次第に頭角を現し,75年副首相となった。
マハティール首相の主張は一口にいうと〈マレー・ナショナリズム〉である。まず行政改革と汚職追放を行い,政界,官界の浄化につとめ,さらにマレーシアを近代国家とするために,積極的な近代化,工業化を推進した。そのために日本の近代化,韓国のセマウル運動 を模範とする〈ルック・イースト〉運動を展開し,多くの留学生を日本に送った。そしてマレー人の教育水準を向上させ,憲法で保障されているマレー人の特権をかれらが自由競争で獲得することができるようになることを目標にかかげた。
これとともにマハティール首相はマレー人社会の近代化にもとりくんだ。その具体的な現れが,国王の法案拒否権などの憲法上の権限を縮小し,本来の意味での立憲君主制を確立しようとする政策である。もちろんこれにはスルタンとその一族からばかりではなく,クランタン州 の場合のように,一般マレー人からの反対も強かったが,94年の憲法改正によって一応その目標を達し,国王の政治への介入を封じることに成功した。
マハティール首相のこうした強硬策はUMNO内部でも強い批判を招き,88年の党総裁選挙では現職党首であるマハティールが僅差で敗れるという事態を招いた。しかしマハティールは同年UMNOを解散して,UMNOが企業を所有したりしていたのを清算し,新UMNOを組織して純粋な政党組織とし,同時に反対派を追放して,立場を固めた。
マハティール首相は近代化路線を推進したが,その際にはイスラムの教義との妥協を余儀なくされた。しかしイスラム原理主義者の反発は強く,アル・アルカム運動に結集して,政治,宗教活動を行った。マハティール首相は最初この運動に対して宥和的な態度を示したが,それがUMNO内部のマハティール批判派と結びついたため,93年にはこの運動をきびしく取り締まり,指導者に対しては転向とその公式表明を強制した。しかし,もともとイスラム信仰の強いクランタン州では議会でイスラム政党が多数を占めるなど,イスラム側からの反発は強い。
政府のこうしたマレー系市民優遇政策に対する中国系,インド系市民の反応には屈折したものがある。かれらの多くは現状を肯定しつつ,平等な待遇を期待している。かれらがもっとも不満を持っているのは高等教育のマレー語化と,それによって実社会で必ずしも役に立たないマレー語の学習を強制されることである。このため中国系市民が1969年に英語教育を重視する私立ムルデカ大学の設立を申請したが,政府は78年にこれを正式に拒否した。しかし最近の情報化の動きは英語教育を再評価する必要を生んでいる。
経済,産業 イギリス領マラヤ時代の経済は輸出商品としてのスズ,ゴム,紅茶の生産と国内消費用の米の生産(それも自給自足には程遠いものであった)という典型的な二重構造であった。現在ではこの輸出商品に石油とパーム油が加わっただけで,本質的な変化はない。政府は米の自給自足を目指しているが,それが可能になるにはまだ年月を要するものと見られる。こうした一次産品の価格は世界市場によって制約されるので,これだけに依存することはできない。しかもスズは採掘可能な鉱床が減り,ゴムは合成ゴムにおされ,パーム油に作付け転換をしてもその前途は楽観できない。
マレーシアの経済政策は堅実なものである。独立後,外国資本の所有する農園などを買い戻した事実はあまり知られていないが,こうした政策のために,マレーシア政府への信用は高い。
政府がこうした農産物の生産とならんで強力に推進しているのが工業化政策であり,観光などサービス産業の振興である。とくにブミプトラ政策の一環として実施された新経済政策(NEP)はこの工業化政策をマレー人優先という枠組みのなかで実現していこうというものであった。そのためには各種国営企業の設立,民間企業における民族別雇用比率の厳守,マレー系企業への金融,公共事業の優先発注などの政策がとられた。そのシンボルとなったのが日本の三菱自動車との提携による国民車プロトン・サガの生産である。こうした政策は必要であり,またそれなりに効果をあげたことは事実であるが,一面それはマレー人に対して無用の優越感を与え,非マレー系住民の企業経営意欲を低下させるなど,好ましくない影響も見られる。
マレーシアは投資環境の整備,工業団地の造成など積極的な外資導入策をとり,各国資本も有利な投資環境と国内資源に目をつけて進出してきた。しかし人口が少ないため,国内市場が狭く,また十分な労働力を提供することができず,やむを得ずミャンマー,インドネシア,フィリピンなど周辺諸国から出稼ぎ労働者を招かなければならないような状況にある。ブミプトラ政策は1990年で一応終了し,91年からは2000年を目指しての国家開発プランが実施されている。このなかではマレー人優遇のために設立された各種国営企業の民営化など,競争原理が導入されている。
こうした工業化,近代化への積極的な投資と外資導入は不動産ブーム,つまりバブル経済を生み,マレーシア経済に〈すき〉をつくったことは否定できない。97年にマレーシア通貨リンギ(マレーシア・ドル)が投機の対象となったが,これは各国の投資家にこのすきをつかれたものといえよう。 執筆者:生田 滋
音楽 多民族国家のマレーシアでは,音楽も多種多様であるが,西マレーシア(マレー半島南部)と東マレーシア(島嶼部)に分けて考えることができる。
半島の南半部は海上貿易の要地として,アジアばかりでなくヨーロッパの文物も広く受け入れてきた結果,次のように多様な芸能が見られる。(1)中国の京劇 をマレーシア風にしたもの。(2)ワヤン 。(3)バンサワン インドに由来する音楽喜劇。(4)マヨン タイに由来する宗教的な音楽劇。(5)マノーラ タイに由来する舞踊劇。(6)ジョゲト,ロンゲン インド,インドネシアに由来する古典舞踊。(7)クロンチョン 。(8)ザピン アラブ系の民俗舞踊。(9)ハドラー アラブ系の宗教音楽(ムハンマド(マホメット)賛歌)。(10)パントゥン 。これらの多彩な芸能を支える楽器も多様で,インドネシアやアラブに由来する太鼓や笛,弓奏楽器のほかに西洋楽器なども用いられる。
島嶼部ではインドネシア,フィリピン系の楽器やその祖型が見られ,マレー人の民俗的な側面を知ることができる。サラワク州では(1)カヤン族,クニャー族は伝統的な音楽文化を保持。(2)陸ダヤク族は近代化が進み,伝統的なスタイルが崩れてきている。(3)イバン族(海ダヤク)は伝統的,とくに歌が盛んである。その中にはパントゥン(早口言葉のようなものを競い合って唱える),ティマン(農作業に伴う祭り歌)などがある。サバ州では(カダザン族,ムルット族など)ブルネイから入ったゴング類を中心とする旋律打楽器合奏が残っている。 →マレー文学 執筆者:桜井 笙子