マレーシア(英語表記)Malaysia

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共同通信ニュース用語解説 「マレーシア」の解説

マレーシア

マレー半島とボルネオ島北部を領土とし、人口約3278万人。東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国。1人当たりの国内総生産(GDP)は1万ドル(約140万円)超で、東南アジアでは上位に位置する。国教はイスラム教で、マレー系が人口の7割と多数派を占める。英国植民地時代に労働者として移民した華人系が2割、インド系が1割弱を構成する。資本関係や教育、雇用などでマレー系を優遇する「ブミプトラ(土地の子)政策」を続けている。(クアラルンプール共同)

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精選版 日本国語大辞典 「マレーシア」の意味・読み・例文・類語

マレーシア

  1. ( Malaysia ) マレー半島とボルネオ島北西部からなる立憲君主国。一九五七年に独立したマラヤ連邦に、イギリス領のサバ・サラワク・シンガポールを加えて一九六三年に成立。人口の大半はマレー人と中国人。ゴム・錫・木材などの資源に富む。一九六五年シンガポールが分離・独立。首都クアラルンプール。

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改訂新版 世界大百科事典 「マレーシア」の意味・わかりやすい解説

マレーシア
Malaysia

基本情報
正式名称=マレーシアMalaysia 
面積=33万0803km2 
人口(2010)=2825万人 
首都=クアラ・ルンプルKuala Lumpur(日本との時差=-1時間) 
主要言語=マレーシア語(マレー語),中国語,英語,タミル語 
通貨=リンギRinggit

東南アジア,マレー半島南部を占める半島マレーシア(西マレーシア)とボルネオ島北部の島嶼マレーシア(東マレーシア)からなる立憲君主国。イギリス連邦の一員。イギリス植民地時代に形成された二重経済構造,それを支えた移民の増大に伴う多民族国化は,今日のマレーシア社会を特色づけている。

半島部,島嶼部ともに安定陸塊の一部をなし,全般にゆるやかな起伏の山地と,低平な沖積平野とが単純に配置された地形である。半島部は原地形の成立がやや古いので浸食がより進み,中央の花コウ岩質の山地は高い所で標高2000m程度,南部へいくにつれ準平原が広くなる。中央山地を取り巻く低い山地は石灰岩質で,その付近一帯にスズ鉱の産出が多い。東西両海岸の平野は水田地帯となっている。海岸線は単調で,大型船舶が入れる天然の良港には恵まれていない。島嶼部は二つの対照的な地形の地域に分かれている。サバ州は山がちで北西部に最高峰キナバル山(4101m)がそびえ,東海岸は水深の大きい湾入が多い。サラワク州は大部分の土地が標高300m以下,国内最大の河川ラジャン川流域には広大な低湿地が広がる。陸路の開発が遅れているサラワク州では,河川はとくに重要な交通路であり,内陸の主要集落はすべて河川沿いに成立している。

 気候は一年を通じて高温多湿であるが,ところによって短い乾季があり,サバ,サラワク両州は4~5月が焼畑の火入れの季節になる。年平均気温は26℃前後,蒸発量が大きいため日中は雲が発生しやすく,これが気温の上昇を妨げるから一日の最高気温が35℃に達するところはまれである。また,降水量が減少するとたちまち干ばつの危険が起こるので,水稲栽培の安定には灌漑施設の充実が重視されている。低湿地を除いて全国土を厚く覆っていた熱帯雨林は,耕地の拡大と林業の発展でしだいに面積を狭めている。とくに1960年以降のラワン原木の伐採は,マレーシアの輸出産業振興政策にも合致し,急速な奥地山林の破壊をもたらした。そのため,やせたラテライト土壌に育つ森林は,ひとたび自然の状態を変えられると再生能力が低下し,低木とシダ類の下生えの二次林(ブルカーbelukar)や,丈の高い雑草(ラーランlalang)の土地と化し,生産性の高い農林業のできない土地が出現しつつある。

総人口の4/5が半島部に居住し,その半数強がマレー人である。しかし島嶼部ではダヤク族と総称される人々(カダザン,ムルット,バジャウ,イバン,陸ダヤクなど)が3/5を占め,マレー人は華人(中国人)の1/4強よりも低い1/8強の少数にすぎない。全国人口の3割を占める華人は半島部西岸に集中するほか,都市の主要住民となっている。インド・パキスタン系も半島部に多い。職業と宗教はこれらの人種,民族と密接に結びつき,イスラム教徒のマレー人は自給的な農・漁業に従事する者が多かったが,最近のマレー人優遇政策のもとで,公務・公益事業の管理職へ進出している。華人は第2・3次産業と事務職に特色があり,宗教は仏教や道教などである。インド・パキスタン系は小規模な商業,サービス業,現業部門の労働につき,ヒンドゥー教またはイスラムを信仰する人が多い。ダヤク族はなお第1次産業と低賃金労働の分野にとどまっている。近年,海外からの移民はほとんどなくなったが,サバ州にはフィリピンからのイスラム教徒難民と,インドネシアからの出稼労働者が少なくない。

 多様な民族構成を反映して,国内で日常使われる言語は10種を超えるが,国語(マレーシア語)教育の普及により,若い世代には共通語の普及が著しい。その反面,かつて上層階級に定着していた英語は勢力を失い,中国語やタミル語も使用範囲が狭くなりつつある。島嶼部の人々の言語は,独自の新聞を発行するカダザン語のほかは公的に使われることがない。マレー語は方言の違いが少なく,もともと異民族間の商用語(リンガ・フランカ)でもあったから,これを標準化したマレーシア語は全国民に広く受け入れられる下地があった(マレー語)。中国語は都市の華人社会の常用語であり,個人生活になると標準華語(北京語)より広東語,福建語,潮州語などの方言が依然として生きている。
執筆者:

マレーシアは典型的な多民族国家である。西マレーシアではブミプトラと呼ばれるマレー系住民,中国系住民,インド系(そのほとんどがタミル系)住民が住み,東マレーシアではこのほかにイバンなどと呼ばれる本来の住民が住んでいる。西マレーシアでは一般的にいって東海岸の諸州と西海岸のケダ,プルリスではマレー系住民が多数を占めるが,西海岸の諸州ではマレー系,中国系の住民がほとんど同数で,インド系住民がこれに加わり,ペナンでは中国系,インド系が多数を占める。また農村にはマレー系住民が多く,都市部には中国系,インド系住民が多いが,ブミプトラ政策の結果,都市部に居住するマレー系住民の数が増加している。

 この3者の共通のコミュニケーションの手段は以前は英語であったが,ブミプトラ政策でマレー語化が推進された結果,マレー語がこれに代わりつつある。もっとも最近の情報化の動きで英語の重要性が再び高まりつつある。高等教育機関のマレー語化は教育水準の低下という深刻な問題をひきおこし,現在では再検討が進められている。

 東マレーシアではイバン族は特別の権利を認められているが,教育を通じてのマレー化は積極的に推進され,多数のマレー人教師が送り込まれている。

現在のマレーシアの起源は14世紀の末にムラカ(マラッカ)に成立したムラカ王国にさかのぼることができる。ムラカ王国は東南アジア地域とインド洋地域を結ぶ中継貿易地として繁栄した。1511年にアルブケルケの率いるポルトガル艦隊がここを占領し,ポルトガルの植民地とした。ムラカ王国はジョホールに移り,ジョホール王国となった。ジョホール王国は国際貿易で繁栄したが,この間にポルトガルの植民地であったムラカは1641年にオランダ東インド会社に占領された。18世紀に入るとスラウェシからのブギス族の移住もあって,半島にジョホール,パハン,クランタン,トレンガヌ,ペラ,ケダ,スランゴールの諸王国が分立した。

 18世紀の末から,マレー半島にはシャム(タイ)のラタナコーシン(バンコク)朝の支配が及ぶようになり,ケダ,クランタン,トレンガヌはシャムに服属するようになった。

イギリス東インド会社の社員であったフランシスライトはケダ国王からの援助要請を口実として1786年にペナン島を占領し,ここを会社の植民地として,イギリスのマラヤ(マレー半島南部)支配のきっかけを作った。たまたまナポレオン戦争が起こり,イギリスはフランスの支配下にあったオランダと戦い,ムラカを占領した。ナポレオン戦争が終わると,会社はムラカをオランダに返還したが,ラッフルズはオランダに対抗するために,マラッカ海峡の出口付近に根拠地を獲得することを主張し,1819年にシンガポールに植民地を獲得した。1824年に英蘭協約が締結され,ペナン,ムラカ,シンガポールが会社の植民地となり,海峡植民地と呼ばれた。シンガポールは自由港とされ,東南アジア地域の国際貿易の中心地として繁栄するようになった。

 マラヤの特産物の第1はスズ(海峡錫)であった。19世紀に入ると缶詰用のブリキ板の生産がさかんとなり,それにともなってマラヤ産のスズの需要が高まった。1848年にペラでスズの大鉱床が発見され,中国人鉱山師が領主から権利を獲得して,中国人労働者を使役して,大規模なスズ鉱山の開発を始めた。これらの鉱山師は同時に中国人秘密結社の頭目であり,かれらの縄張り争いは同時に秘密結社相互の武力闘争(械闘)であった。またマレー人の領主はスズ鉱からの利権収入を手にして国王の権威に挑戦するようになり,大きな混乱が生じた。イギリスは初め不介入政策をとっていたが,この混乱につけこんでシャムやフランス,ドイツがマラヤに進出することを恐れ,海峡植民地知事A.クラークが1874年に王国の有力者や中国人秘密結社の頭目たちとの間でパンコール協約を結び,ペラ王国の内政に介入した。これによって国王のもとにはイギリス人理事官が派遣され,彼が国王の名において徴税権と軍事・警察権を掌握し,王国の中央集権化を進めた。こうしてペラ王国はイギリスの間接支配のもとに置かれた。理事官制度はこののちスランゴール王国にもおよぼされ,さらにヌグリ・スンビランではイギリスの手によって首長国の統合が進められた。1888年にはパハン王国にも理事官が派遣された。パハンでは1891年から94年までイギリスの支配に対する反抗が続いた。またジョホール王国では国王アブ・バカルの指導のもとに独自の近代化が進められていた。

 イギリスは1896年に理事官が派遣されていたペラ,スランゴール,ヌグリ・スンビラン,パハンの4国の行政組織を統合してマレー連合州を組織し,統監を置き,クアラ・ルンプルに駐在させた。1909年には海峡植民地知事が高等弁務官として統監を指揮するようになり,行政の一元化が完成した。同年ジョホール王国も顧問を受け入れ,シャムの属国であったクランタン,トレンガヌ,ペラはシャムにおける治外法権撤廃の代償としてイギリスに譲渡された。この時ペラの一部がプルリスとして分離した。これらの諸国にも顧問が派遣された。ジョホール以下の5国はマレー連合州に加盟することを望まず,一括して非連合州と呼ばれた。こうして海峡植民地(3植民地),マレー連合州,非連合州(合計9国=州)がイギリス領マラヤを形成することとなった。

 スズの生産についで1895年からはゴムの栽培が各地で始まった。ゴム園労働者のほとんどはタミル系インド人であった。スズ鉱山では採掘の機械化が進み,多数の労働者を必要としなくなったので,中国人は都市に,インド人はゴム園に,マレー人は農村に,という地域的,人種的,職業的分布が成立した。イギリス領マラヤの経済は大恐慌時代の一時期を除いては順調に発展した。イギリスはマレー人に対しては保護政策をとり,かれらを農村に居住して稲作に従事するようしむけた。一方植民地支配の正当性を保つために,〈本来の〉権力者である国王,貴族の地位と特権を植民地支配の妨げにならないかぎり保障した。

 一方,ボルネオ島北西部には古くからブルネイ王国があった。イギリス人J.ブルックは1846年サラワクにブルック王国をたて,1881年には北ボルネオ会社が現在のサバ地域を獲得した。イギリスは1888年にブルック王国と北ボルネオ会社領を保護領とした。ブルネイ王国は1906年にイギリスの保護国となった。

シンガポールを中心とする中国人社会では本国のさまざまな革命運動に対応する運動が組織され,第1次大戦後は南洋共産党(1922~30),マラヤ共産党(1930~ )の活動もあった。マレー人の民族運動はイスラム世界の影響を受け,宗教運動,文化運動として始まった。英語教育を受けた王族,貴族出身のエリートの間にも民族主義的な意識が生まれたが,主たる目標は中国人,インド人に対してマレー人の権利を主張することで,当然の結果としてイギリスに協調的であった。

 1941年12月太平洋戦争が勃発すると,日本軍は直ちにイギリス領マラヤに侵入した。イギリス領マラヤのゴム,スズ,石油は日本軍が最も必要としていたものであった。日本軍は42年1月までにマラヤ全土を,2月にシンガポールを占領した。イギリス軍の抵抗は微弱であったが,中国人義勇軍は激しく抵抗した。このため日本軍はシンガポール陥落後,各地で中国人虐殺を行った。日本軍のマラヤ占領の目的は資源の確保で,軍政をしき,中国人の抗日運動を徹底的に弾圧する一方,マレー人,インド人に対しては宥和的な政策をとった。イギリス人官吏を排除した後に大急ぎで養成したマレー人官吏を配置したほか,国王,王族を保護した。また英印軍の捕虜からインド国民軍を組織した。イギリスは特殊部隊を組織し,主として中国人から成り,マラヤ共産党の指導下にあるマラヤ人民抗日軍を援助したが,その活動は限られたものであった。

1945年8月15日の日本の無条件降伏は,イギリスにとって予想外のことであった。このためイギリス側には的確な状況判断がないままにマラヤに復帰することとなり,戦後の処理にも不手際が続き,住民の信用を失った。イギリスはかねてから研究していた,各民族に平等の権利を与え,シンガポールを除く海峡植民地とイギリス領マラヤ諸州から成るマラヤ連合案を提示した。中国人とインド人はこれに賛成したが,マレー人の特権を主張するマレー人には不評で,その結果,連合マレー人国民組織(UMNO)が結成された。マラヤ連合は1946年に発足したが,イギリスは1947年にマラヤ連合との間でマレー人の特権を認める連邦協定を結び,48年にマラヤ連邦が発足した。しかし中国人はこれに不満で,同年主として中国人から成るマラヤ共産党の武装蜂起が始まった。イギリスはこれを徹底的に討伐したが,抵抗は続いた。この間に独立への準備は着々と進められ,住民の側でも中国人の間に対英協調をめざすマラヤ中国人協会(MCA)が結成された。UMNOとMCAが連合し,これに戦前から活動していたマラヤ・インド人会議(MIC)が加わって連盟党が結成され,55年7月の総選挙で圧倒的な勝利を収め,アブドゥル・ラーマンが首相となった。57年8月31日,マラヤ連邦は完全独立を果たした。

 一方,シンガポールは戦後イギリスの直轄植民地となり,マラヤ共産党の指導のもとに労働運動,学生運動が激しく行われたが,その中から共産党と対決する形でエリート中心の労働戦線と大衆政党である人民行動党(PAP)が出現した。1955年の選挙では労働戦線が勝利を収めたが,59年の選挙ではPAPが大勝し,リー・クワンユーが首相となった。シンガポールはまず自治国となり,完全独立をめざすこととなった。サラワク,北ボルネオは戦後イギリスの直轄植民地となり,段階的に自治の供与が始まった。ブルネイは保護領のままであった。

マラヤ連邦のアブドゥル・ラーマン首相は共産党の脅威を除去し,マレー人の特権を維持するために,マラヤ連邦,シンガポール自治国,サラワク,サバ(北ボルネオ),ブルネイをまとめてマレーシア連邦を結成しようという構想を持っていた。シンガポールはこれに賛成したが,サラワク,サバはラーマン首相に譲歩を要求した上で参加を決め,ブルネイは参加を拒否した。シンガポールは参加の前提として1963年8月31日に完全独立を宣言した。マレーシア連邦は63年9月16日に発足したが,まもなく財政上の問題などで連邦政府とシンガポールとの間に対立が生じ,65年8月9日にシンガポールは連邦を脱退した。

マレーシアは西マレーシアの11州と東マレーシアの2州から成る連邦であり,同時に立憲君主制国家である。元首である国王はペナン,ムラカを除く西マレーシアの9州のスルタンの互選によって選出され,任期は5年である。連邦議会は国王から任命される議員と各州議会で選出される議員とから成る上院,直接選挙で選出される議員から成る下院の二院制をとり,議院内閣制である。各州にはそれぞれ元首(スルタンまたは知事)がおり,州政府,州議会を持っている。連邦議会の与党は国民戦線(UMNO,MCA,MIC,その他の州単位の政党で結成)である。

 政治の最大の課題はいかにしてマレー人の特権を守りつつ諸民族間の宥和をはかるかということにある。アブドゥル・ラーマン首相(在職1955~59,1959~70)の方針はそれぞれの民族にそれぞれの分野で自由に活動させ,問題が起こった場合だけに政府がその調停にあたるという,植民地時代のイギリスの方針をそのまま踏襲したものであった。しかし1969年の第3回総選挙直後の5月13日にクアラ・ルンプルでマレー系住民と中国系住民が衝突,死者178人を出した事件が起こり(5月13日事件),ラーマン首相はそれまでの態度を改めなければならなくなった。その結果翌70年8月に発表された〈ルクネガラ(五大基本方針)〉によって,マレー人統治者の地位と権能,市民権,マレー人の特権,国教としてのイスラム,唯一の国語としてのマレーシア語の地位に関しては公共の場で討論を行うことが禁止され,政治面におけるマレー人の特権が確認された。それとともにこれを具体的に政策面に反映させたブミプトラ政策が実施された。ラーマン首相のあとをついだアブドゥル・ラザクAbdul Razak首相(在職1970~76),フセイン・オンHussein Onn首相(在職1976~81)もこの方針を忠実に受け継いで,マレー人の地位向上に努力した。

 81年7月フセイン・オン首相が健康上の理由で退き,副首相であったマハティールMahathir bin Mohammad(1925~ )が首相に就任し,現在に至っている。マハティールは医学博士であるが,欧米留学の経験がなく,これまでの首相経験者とは異なる背景を持っている。1964年政界に入ったが,69年にラーマン首相の対中国系市民政策を批判して,一時UMNOを除名され,その著書《マレー・ディレンマ》は発禁処分を受けた。74年以降次第に頭角を現し,75年副首相となった。

 マハティール首相の主張は一口にいうと〈マレー・ナショナリズム〉である。まず行政改革と汚職追放を行い,政界,官界の浄化につとめ,さらにマレーシアを近代国家とするために,積極的な近代化,工業化を推進した。そのために日本の近代化,韓国のセマウル運動を模範とする〈ルック・イースト〉運動を展開し,多くの留学生を日本に送った。そしてマレー人の教育水準を向上させ,憲法で保障されているマレー人の特権をかれらが自由競争で獲得することができるようになることを目標にかかげた。

 これとともにマハティール首相はマレー人社会の近代化にもとりくんだ。その具体的な現れが,国王の法案拒否権などの憲法上の権限を縮小し,本来の意味での立憲君主制を確立しようとする政策である。もちろんこれにはスルタンとその一族からばかりではなく,クランタン州の場合のように,一般マレー人からの反対も強かったが,94年の憲法改正によって一応その目標を達し,国王の政治への介入を封じることに成功した。

 マハティール首相のこうした強硬策はUMNO内部でも強い批判を招き,88年の党総裁選挙では現職党首であるマハティールが僅差で敗れるという事態を招いた。しかしマハティールは同年UMNOを解散して,UMNOが企業を所有したりしていたのを清算し,新UMNOを組織して純粋な政党組織とし,同時に反対派を追放して,立場を固めた。

 マハティール首相は近代化路線を推進したが,その際にはイスラムの教義との妥協を余儀なくされた。しかしイスラム原理主義者の反発は強く,アル・アルカム運動に結集して,政治,宗教活動を行った。マハティール首相は最初この運動に対して宥和的な態度を示したが,それがUMNO内部のマハティール批判派と結びついたため,93年にはこの運動をきびしく取り締まり,指導者に対しては転向とその公式表明を強制した。しかし,もともとイスラム信仰の強いクランタン州では議会でイスラム政党が多数を占めるなど,イスラム側からの反発は強い。

 政府のこうしたマレー系市民優遇政策に対する中国系,インド系市民の反応には屈折したものがある。かれらの多くは現状を肯定しつつ,平等な待遇を期待している。かれらがもっとも不満を持っているのは高等教育のマレー語化と,それによって実社会で必ずしも役に立たないマレー語の学習を強制されることである。このため中国系市民が1969年に英語教育を重視する私立ムルデカ大学の設立を申請したが,政府は78年にこれを正式に拒否した。しかし最近の情報化の動きは英語教育を再評価する必要を生んでいる。

イギリス領マラヤ時代の経済は輸出商品としてのスズ,ゴム,紅茶の生産と国内消費用の米の生産(それも自給自足には程遠いものであった)という典型的な二重構造であった。現在ではこの輸出商品に石油とパーム油が加わっただけで,本質的な変化はない。政府は米の自給自足を目指しているが,それが可能になるにはまだ年月を要するものと見られる。こうした一次産品の価格は世界市場によって制約されるので,これだけに依存することはできない。しかもスズは採掘可能な鉱床が減り,ゴムは合成ゴムにおされ,パーム油に作付け転換をしてもその前途は楽観できない。

 マレーシアの経済政策は堅実なものである。独立後,外国資本の所有する農園などを買い戻した事実はあまり知られていないが,こうした政策のために,マレーシア政府への信用は高い。

 政府がこうした農産物の生産とならんで強力に推進しているのが工業化政策であり,観光などサービス産業の振興である。とくにブミプトラ政策の一環として実施された新経済政策(NEP)はこの工業化政策をマレー人優先という枠組みのなかで実現していこうというものであった。そのためには各種国営企業の設立,民間企業における民族別雇用比率の厳守,マレー系企業への金融,公共事業の優先発注などの政策がとられた。そのシンボルとなったのが日本の三菱自動車との提携による国民車プロトン・サガの生産である。こうした政策は必要であり,またそれなりに効果をあげたことは事実であるが,一面それはマレー人に対して無用の優越感を与え,非マレー系住民の企業経営意欲を低下させるなど,好ましくない影響も見られる。

 マレーシアは投資環境の整備,工業団地の造成など積極的な外資導入策をとり,各国資本も有利な投資環境と国内資源に目をつけて進出してきた。しかし人口が少ないため,国内市場が狭く,また十分な労働力を提供することができず,やむを得ずミャンマー,インドネシア,フィリピンなど周辺諸国から出稼ぎ労働者を招かなければならないような状況にある。ブミプトラ政策は1990年で一応終了し,91年からは2000年を目指しての国家開発プランが実施されている。このなかではマレー人優遇のために設立された各種国営企業の民営化など,競争原理が導入されている。

 こうした工業化,近代化への積極的な投資と外資導入は不動産ブーム,つまりバブル経済を生み,マレーシア経済に〈すき〉をつくったことは否定できない。97年にマレーシア通貨リンギ(マレーシア・ドル)が投機の対象となったが,これは各国の投資家にこのすきをつかれたものといえよう。
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多民族国家のマレーシアでは,音楽も多種多様であるが,西マレーシア(マレー半島南部)と東マレーシア(島嶼部)に分けて考えることができる。

 半島の南半部は海上貿易の要地として,アジアばかりでなくヨーロッパの文物も広く受け入れてきた結果,次のように多様な芸能が見られる。(1)中国の京劇をマレーシア風にしたもの。(2)ワヤン。(3)バンサワン インドに由来する音楽喜劇。(4)マヨン タイに由来する宗教的な音楽劇。(5)マノーラ タイに由来する舞踊劇。(6)ジョゲト,ロンゲン インド,インドネシアに由来する古典舞踊。(7)クロンチョン。(8)ザピン アラブ系の民俗舞踊。(9)ハドラー アラブ系の宗教音楽(ムハンマド(マホメット)賛歌)。(10)パントゥン。これらの多彩な芸能を支える楽器も多様で,インドネシアやアラブに由来する太鼓や笛,弓奏楽器のほかに西洋楽器なども用いられる。

 島嶼部ではインドネシア,フィリピン系の楽器やその祖型が見られ,マレー人の民俗的な側面を知ることができる。サラワク州では(1)カヤン族,クニャー族は伝統的な音楽文化を保持。(2)陸ダヤク族は近代化が進み,伝統的なスタイルが崩れてきている。(3)イバン族(海ダヤク)は伝統的,とくに歌が盛んである。その中にはパントゥン(早口言葉のようなものを競い合って唱える),ティマン(農作業に伴う祭り歌)などがある。サバ州では(カダザン族,ムルット族など)ブルネイから入ったゴング類を中心とする旋律打楽器合奏が残っている。
マレー文学
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「マレーシア」の意味・わかりやすい解説

マレーシア
まれーしあ
Malaysia

東南アジアの立憲君主国。マレー半島南部のマレーシア本土と、ボルネオ島北岸のサバ、サラワク両州からなり連邦制をとる。1963年以前はマレー半島南部(マラヤ)を中心にマラヤ連邦を構成していた。面積は32万9758平方キロメートルで日本の約87%に相当する。人口2657万2000(2007)で、約80%はマレーシア本土に居住する。首都はクアラ・ルンプール。国旗の縞(しま)と星の光の数14は、マレーシア発足当時の14州を示したが、シンガポール離脱後は13州と連邦政府の統一を表している。また三日月と星は国教のイスラム教を象徴する。

[別技篤彦・賀陽美智子]

自然

マレー半島部は全体として山がちの地形をなし、中央部には中央山脈が南北に縦走している。またこの山脈に並行して東・西バンジャラン山脈が延び、東バンジャラン山脈中に半島の最高峰タハン山(2189メートル)がそびえる。山地は北部では険しいが、南へいくにしたがってしだいに低くなり、南端では準平原化が著しい。また山地を中心にその東西には山麓(さんろく)部、海岸平野部、マングローブの密生する海岸低湿地がほぼ対称的に並ぶ。なお地質的に山地は花崗(かこう)岩、砂岩、石灰岩などからなり、花崗岩山地には豊富な錫(すず)鉱が埋蔵され、この国を世界最大の錫鉱の生産国としてきたが、その地位は徐々に低下してきている。

 河川は東岸に注ぐケランタン川、トレンガヌ川、パハン川、西岸に注ぐペラク川、セランゴール川、ミューア川などがおもなものである。いずれも流路は短いが水量は豊富で、密林中を蛇行する。気候は典型的な熱帯雨林型で高温多湿である。クアラ・ルンプールの年平均気温は27.0℃、年降水量は2389.8ミリメートルに達する。降水量は各月にわたって平均化されているが、東岸は北東モンスーン季(11月~2月)に多い。

 ボルネオ島のサラワク州では、海岸から幅広い低湿地帯が広がり、そこをラジャン、ルパルなどの河川が蛇行している。しかしその背後で地形はしだいに高度を増し、カプアス、イランなどボルネオ島の脊梁(せきりょう)山脈へと移行していく。一方サバ州は、この脊梁山脈が州の大半を占めるため、全体が山がちである。北西にはボルネオ島最高峰のキナバル山(4094メートル)がそびえている。またサバ州の海岸は出入りに富み、とくに東部には大きい湾が多い。気候は本土のマレー半島部と類似するが、降水量はいっそう多くなり、サラワク州では年間3900ミリメートルにも及ぶ。この多量の降雨は高温とともに、この地方全体のなお70~80%が密林に覆われる状態を生んでいる。

[別技篤彦・賀陽美智子]

地誌

マレーシアでは地域により開発度が著しく異なり、それが地域的特色を生み出す主因となっている。半島部では中央山地を境として東西両海岸の地域差が著しい。人口密度も西海岸一帯が1平方キロメートルにつき80人以上であるのに、山地や東海岸地方は10人前後という極端な差異を示している。古くは半島におけるマレー人の分布にはさしたる地域差はなかったと思われるが、近代に入って西海岸が急速に開発され、多数のインド人、中国人が移住してきたことでこの差が生じた。西海岸はマラッカ海峡という国際的交通路に面しているため、古くからペナン、マラッカの二大港湾都市が発達していた。しかし19世紀中ごろまで、その他の地域は低地に水田地帯がみられるにすぎなかった。ところがイギリスの進出とともに、錫(すず)の採掘とゴム園の経営という二大産業がおこった。

 錫採掘は19世紀中ごろから、ペラク州のキンタ河谷から始まり、海岸伝いに南へと広がった。またゴム栽培は19世紀末から開始され、北はケダー州から南はジョホール州に至る西岸一帯に広がった。いずれの産業も自然的条件に恵まれて発展したのであるが、西海岸に良港が備わっていたことも、発展を促す大きな要因となった。すなわち、港から労働力として外来民族を移入しやすく、生産物をそこから輸出しやすいという条件が幸いしたのである。こうして今日では西海岸にペナン、イポー、クアラ・ルンプール、セレンバン、マラッカ、クルアンなど諸都市が連なる国の心臓部が形成されている。これに対して中央の山地帯にはカメロン高原、マレー国立公園などの新たなレクリエーション地域が開かれつつあるものの、依然として本土の後進地域である。また東海岸一帯は雨量も多く湿地帯も広く、加えて交通が不便なため、若干の鉱物資源の採掘地を除けば開発が遅れている。しかし、それだけに伝統的マレー文化が、いまなお保たれている地域といえよう。

 ボルネオ島北岸部は、自然的条件などから、さらに後進性は免れない。しかし近年、石油資源や林業の開発によって、部分的に近代化が進んでいる所もある。

[別技篤彦・賀陽美智子]

歴史

今日のマレーシア半島部は、7世紀ごろスマトラ島の仏教国シュリービジャヤの支配下に置かれ、13世紀にはジャワ島のヒンドゥー教国マジャパヒトに支配された。現在のマレーシアの母体であるマラッカ王国は、15世紀初頭、スマトラ島の王族パラメシュバラによって建国された。この王国は東西貿易の要衝マラッカ海峡を抑えて富裕な国となり、王都マラッカは多様な民族が集まる当時の一大国際都市として栄えた。またイスラム教とスルタン制を採用し、ここから東南アジア各地にイスラム教が伝えられた。しかし、1511年ポルトガルがマラッカを攻略して、ここをアジア貿易とキリスト教普及の基地とし、ついで1641年オランダがこれにかわった。こうしてマラッカ王国は崩壊したが、王国の後裔(こうえい)は半島内部各地に小王国をつくり、マレー的伝統を保った。

 18世紀末になるとイギリスがインドから進出し、1786年マラッカ海峡北口のペナン島を抑え、続いて1795年マラッカを占領、さらに1819年南端のシンガポール島を手に入れた。ペナン、マラッカ、シンガポールはまとめて海峡植民地とよばれ、1867年直轄植民地となった。その後イギリスはこの3基地を拠点にしだいに半島内部の各小王国も支配するに至り、1909年にはタイ領となっていた北部の4王国も獲得した。しかしイギリスの統治下でもスルタンは廃位されず、また各小国の領域が州の単位となった。

 一方ボルネオ島北岸部は、もとブルネイとフィリピンのスル諸島のスルタンの支配地域であった。1841年イギリス人ジェームズ・ブルークは海賊を討伐した功績によりブルネイのスルタンから広大なサラワクを与えられた。彼は自ら王となって王国を建てたが、1888年イギリスの保護国となった。またサバはイギリス北ボルネオ会社が開発権を得た所であるが、これも同年イギリスの保護領となった。

 第二次世界大戦中この地域は全域が日本軍に占領された。戦後ふたたびイギリスの統治下に戻ったが、マレー人の強い抵抗運動が起こり、1948年イギリスはペナン、マラッカと半島部9州よりなるマラヤ連邦自治政府を発足させた。以後独立運動は急速に高まり、1957年マラヤ連邦はイギリス連邦加盟の独立国となった。

 初代首相のラーマンはさらにシンガポール、サバ、サラワク、ブルネイも加えて新たな連邦を結成しようと試みた。これは、ボルネオの3地域を加えればマレー人が中国系に数的に優越することを主眼としていたが、ブルネイは戦略的、資源的立場からイギリスがその保護国にとどめた。こうして1963年マラヤ連邦、シンガポール、サバ、サラワクからなるマレーシア連邦が誕生した。しかし、1965年、中国系が圧倒的に多いシンガポールは分離独立し、シンガポール共和国となった。

[別技篤彦・賀陽美智子]

政治

マレーシアは半島部11州とサバ、サラワク2州および連邦直轄区(クアラ・ルンプール、ラブアン、プトラジャヤ)とからなる連邦国家で、立憲君主制をとる。国家元首の国王はペナン、マラッカを除く半島部9州(かつてのイスラム小王国)のスルタンのなかから互選で決定され、任期は5年である。現在の国王はトレンガヌ州のミザン・ザイナル・アビディンで2006年選出された。13代目になる。

 国会は上下二院からなるが、憲法上、下院に大きな権限が与えられている。上院は定員70で、そのうち26名は各州議会から2人ずつ選出され、残り44名は国王の任命で選ばれる。任期は3年。下院は定員222で、小選挙区制の直接選挙で選ばれる。任期は5年。首相は、下院で多数の信任を得ている議員が国王より任命され、各省大臣は首相の勧告に基づいて上下両院議員中から任命される。独立の父ラーマン、開発の父ラザク、その後のフセイン・オンを経て1981年からはマハティールが首相となった。マハティールは長期にわたって政権を維持したが、2002年6月の統一マレー国民組織(UMNO)の党大会において2003年に首相職等を辞任し、後継を副首相のアブドラ(アブドゥラ)にすると発表、2003年10月退任、新首相にアブドラが就任した。

 政府は総理府のほか21省よりなる。地方行政では、サバ、サラワク両州がマレーシア発足当時の事情もあって半島部の州よりも強い自治権を与えられている。政党は、独立以来マレー人系政党の統一マレー国民組織(UMNO)がもっとも強かったが、1970年代初めからは中国系、インド系の政党もこれに加わって広範な国民戦線(BN、NF)を組織し、連立的与党として政権を担当している。2004年3月の下院選挙で与党の国民戦線は野党連合オルタナティブ戦線や民主行動党(DAP)などに圧勝して下院定数219議席(当時)のうち90%の199議席を獲得した。しかし、2008年3月に行われた下院選挙では獲得議席は63%まで減少した。2008年7月、首相のアブドラは副首相のナジブに首相職を移譲すると発表している。

 建国以来ブミプトラ(土地の子)政策とよばれるマレー人・先住民族優遇政策がとられているため、中国系住民やインド系住民の不満は大きい。2007年11月にはインド系住民約5000人がクアラ・ルンプールで抗議デモを行い警官隊と衝突した。

 外交面ではイギリス連邦の一員として独立以来西側諸国との連携が強いが、非同盟中立主義を掲げ、ほとんどの共産圏諸国とも国交をもった。また東南アジアの中立化構想を最初に提唱した国でもあり、ASEAN(アセアン)(東南アジア諸国連合)を中心とした地域内協力を積極的に推進している。

 軍隊は総兵力10万9000人で、8万人の陸軍、フリゲート艦、ミサイル艇などを主とする兵力1万4000人の海軍、スカイホーク戦闘機などを有する兵力1万5000人の空軍からなる(2007)。

[別技篤彦・賀陽美智子]

経済・産業

第二次世界大戦前からの天然ゴム、錫(すず)、近年重要性を増してきたパーム油(やし油)、木材、石油など豊富な資源に恵まれているが、経済はこれら一次産品の輸出に依存してきたため、世界の好不況の影響を受けやすかった。このため政府は1966年より数次にわたり経済発展五か年計画を実施、外国企業の積極的誘致、生産物の多角化と工業化に努めて高度成長を続けてきた。2007年の国内総生産(GDP)は1856億ドルと、1998年(480億ドル)のおよそ4倍になっている。1人当り国民総生産(GNP)は6685ドルとなっている。

 農業は、商品作物の天然ゴム、パーム(アブラヤシ)栽培と自給用の米作で特徴づけられる。天然ゴムはマレーシアの作付面積の60%で栽培され、128万4000トン(2006)を生産し世界第3位である。しかし近年合成ゴムに押され、栽培面積は減少傾向にある。ゴム園はかつてはエステートとよばれるイギリス人、中国人経営の大農園が多かったが、第二次世界大戦後はマレー人による小規模農園が増大し、その割合はほぼ等しくなった。また、パーム油の原料となるパームは戦後に栽培面積が急増した作物である。栽培方法が天然ゴムと似ていることが普及の要因で、天然ゴムとの混植も多い。現在パーム油生産量は1588万トン(2006)でインドネシアとともに世界第1位を争っている。

 一方、米の生産は伝統的にマレー人の小農経営が中心で、植民地時代は需要の30%ほどを満たすにすぎなかった。しかし独立後、多収穫性品種の採用、灌漑(かんがい)田、二期作田の拡張が行われ、自給率は80%を超える。林業は戦後大きな発展をみせた。サバ州、サラワク州から丸太がおもに日本に向けて輸出され、重要な外貨獲得源となっているほか、半島部では木材加工業が発展しつつある。漁業は半島部東海岸を中心に沿岸漁業が盛んである。

 マレーシアの錫(すず)は1972年をピークに減産中だが、なお世界第8位(2006)である。石油は1970年までサラワク州のミリ油田で少量産出する程度であったが、サバ州、サラワク州の海底油田開発が急速に進み、主要輸出品に成長した。工業は、開発の歴史は比較的新しいが、積極的な外資導入と石油生産の伸びによって順調に発展してきた。ペナンやクアラ・ルンプール近郊のペタリン・ジャヤなどの工業センターには各種工場が進出しており、電気機械、輸送機械などが輸出されている。

 貿易は、1976年の石油輸出急増以来、輸出超過傾向を示している。2007年の輸出額は760億4100万ドル、輸入額は468億5200万ドルとなっている。輸出品は電気・電子関連製品、化学製品、原油、LNG、パーム油、繊維製品などである。輸入品は製造機器、輸送機器、食料品などである。貿易相手国はアメリカ、シンガポール、日本、中国などが上位を占める。

 マレーシア本土では交通はよく発達している。道路延長は9万8721キロメートル(2005)で、81%は舗装されている。鉄道は、シンガポールを起点とするマレーシア国鉄(KTM、旧マレー鉄道)幹線が、西海岸沿いに北西部のパダンブサールまで延び、タイ国鉄(RSR)と連絡している。またゲマスで分かれケランタン州北部に至る東海岸線もある。国際航空路はクアラ・ルンプールとペナンを中心とし、国内航空路も発達している。クアラ・ルンプール国際空港が1998年に開港。主要海港はペナン、クラン、マラッカなどがある。

 一方、ボルネオ島北岸部では、道路もサバ州の沿岸を除けば、まだ発達しておらず、鉄道はサバ州に160キロメートル敷かれているにすぎない。このためとくにサラワク州では河川が内陸の重要交通手段である。空港は9港あり、コタ・キナバル、クチン、セナイが国際空港である。主要海港はコタ・キナバル、サンダカン、ミリ、クチンなどである。

[別技篤彦・賀陽美智子]

社会・文化

マレーシアはマレー人、中国系、インド系、その他の先住民族などからなる典型的な複合民族国家であるが、半島部とボルネオ島北岸部では民族構成は大きく異なる。半島部では東海岸の農村部を中心とするマレー人が半数強で、西海岸のとくに都市に多い中国系と、ペナン、クアラ・ルンプール付近に集中するインド系がこれに次ぎ、先住民族の割合は少ない。これに対してボルネオ島のサバ州ではカダザン、バジャウなどの先住民族が多数派で、中国系がこれに続き、マレー人はごくわずかである。サラワク州でもダヤクがもっとも多く、次が中国系で、マレー人は少数派である。しかし全体を通してみると、人口の66%がマレー人、約26%が中国系、約8%がインド系、残りがその他の先住民族、ヨーロッパ人などとなっている(2007)。

 マレーシアの複雑な民族構成は、おもに19世紀後半以後、イギリスの植民地開発に伴って中国人、インド人が移住してきたことで形成されたが、多数の外来民族の流入は、深刻な社会的対立を引き起こした。これらの民族は、都市はいうまでもなく、農村部でさえ、特定の区域に集中して住み、おのおの団結を強化してきた。ことに中国系の場合はさらに出身地別に分かれて連帯してきたが、これには同郷出身者の組織、いわゆる郷帮(ごうぱん)が重要な役割を果たしている。この郷帮はまた同業組合的組織の業帮の基礎となり、たとえば中国系ゴム園経営者はほとんど福建帮で占められている。こうして都市では同じ中国人居住地区の中がさらに福建人居住区、広東(カントン)人居住区などと分かれている。このような区分された社会的構造はさらに各民族の生活水準、文化的差異と結び付いて、いわゆるエスニック・カースト(民族的カースト)の形成へとつながった。民族間の通婚も少なく、相互の対立を深める主因となった。またこれまではブミプトラ(マレー人とその他先住民族)は政治的権力を握って、官僚、兵士、警察官などの職業に従う者が多かったが、収入はそれほど多くなかった。これに対し中国系は商工業をほとんど独占し、また各種専門職に従って高収入を得てきた。こうした経済的格差がいっそう民族的融和を妨げてきた。1971年からの新経済政策(NEP)では、この民族間の富の配分の是正、貧困の撲滅を目ざし、1990年をいちおうの目標として総合的な社会政策を実施してきた。また1996年の第七次五か年計画では外国人労働者の流入を制限し、労働集約型から技能、資本集約型産業への転換を図り、労働力不足に対処することをうたった。なお歴史的関係から従来大規模な錫(すず)鉱山、ゴム園の経営者はイギリス人であったが、近年はイギリス人の後退と政府系企業の肩代りが目だつ。

 宗教もこうした複雑な民族構成を反映して多様である。憲法ではイスラム教が国教と定められているが、個人的には宗教の自由が保障されているため、マレー人はイスラム教、中国系の大部分は仏教、インド系の大部分はヒンドゥー教というのが基本的構造である。言語面でも憲法上マレー語が国語とされ公用語となっているが、中国系は中国語を、インド系はタミル語を日常語とする。中国系でマレー語を理解する者は全体の24%にすぎず、インド系も35%程度である。また歴史的事情により英語も広く用いられ、理解度はマレーシア全体で30%に及んでいる。

 教育制度は、小学校6年、初級中学校3年、上級中学校2年、大学予科2年、大学3~6年である。義務教育制はないが、初級中学校までは無償で、小学校の就学率は96%と高い。従来小・中学校では各民族語および英語による教育が行われ、大学では講義は英語であった。しかし文化的統一を図るため、第三次教育計画(1976~80)で全教育課程を通じてのマレー語による授業の進推が図られ、大学の講義については、1981年度までに完全にマレー語化された。なお大学はマレー大学、国民大学、理科大学、農業大学など国立10校に私立3校がある。

[別技篤彦・賀陽美智子]

日本との関係

マレーシアと日本との関係は第二次世界大戦後著しく緊密となり、ことに経済面では日本はマレーシアにとって主要な相手国である。貿易では日本はマレーシア全輸出の9.1%(2007)で第3位に、輸入では13%(2007)を占めて首位にある。マレーシアの輸出は機械類が第1位で、以下木材、天然ガス、原油、パーム油、魚貝となっている。日本からの輸入は半導体等電子部品、一般機械器具、鉄鋼などが主たるものである。日本の対マレーシア投資は主として工業方面に向けられ、2005年度の直接投資額は581億円となっている。経済協力としては1966年以降相次ぐ五か年計画に円借款を供与しており、それによって実現したプロジェクトのなかには半島部北のテメンゴル・ダムやジョホール造船所などがある。また技術協力としてはマレーシア政府の要請による各種の開発調査、あるいは研修生の受け入れなどが活発になされている。2005年までの日本の援助累計は、無償資金協力122億円、有償資金協力9693億円、技術協力1051億円となっている。1981年から2003年まで長期政権を維持した首相マハティールは、1981年に、「ルック・イースト政策」(「東方政策」)を掲げ、経済発展のため日本(および韓国)を見習おうという姿勢を打ち出し、留学生や研修員を日本に派遣、日本も受け入れに協力している。

[別技篤彦・賀陽美智子]

『萩原宜之他著『東南アジアの価値体系4 マレーシア・フィリピン』(1973・現代アジア出版会)』『河合武著『マレー文化と習慣』(1983・日本マレイシア協会)』『Z・A・アブドゥル・ワーヒド編、野村亨訳『マレーシアの歴史』(1983・山川出版社)』『東川繁編『マレーシアの経済・社会発展』(1992・アジア経済研究所)』『サイド・フシン・アリ編著、小野沢純他訳『マレーシア―多民族社会の構造』(1994・井村文化事業社)』『綾部恒雄他編『もっと知りたいマレーシア』(1994・弘文堂)』『世界経済情報サービス編・刊『マレーシア』(1998)』『岩佐和幸著『マレーシアにおける農業開発とアグリビジネス』(2005・法律文化社)』『橋本雄一著『マレーシアの経済発展とアジア通過危機』(2005・古今書院)』『鳥居高編『マハティール政権下のマレーシア』(2006・アジア経済研究所)』『寺西重郎他編『アジアの経済発展と金融システム』(2008・東洋経済新報社)』


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百科事典マイペディア 「マレーシア」の意味・わかりやすい解説

マレーシア

◎正式名称−マレーシアMalaysia。◎面積−33万803km2。◎人口−2833万人(2010)。◎首都−クアラルンプールKuala Lumpur(138万人,2000)。◎住民−マレー人45%,華人32%,先住民のダヤク人10%,インド・パキスタン系など。◎宗教−マレー人,パキスタン系はイスラム(国教),インド系はヒンドゥー教,華人は仏教,道教,先住民は民族固有の宗教。◎言語−マレーシア語(マレー語,国語),中国語(華語),タミル語など。◎通貨−リンギRinggit(マレーシア・ドルとも通称)。◎元首−国王,アブドゥル・ハリム・ムアザム・シャーAbdul Halim Muadzam Shah(2011年12月就任,任期5年)。◎首相−ナジブ・ラザクDato Sri Haji Mohd Najib bin Tun Haji Abdul Razak(2009年4月就任)。◎憲法−1963年9月発効のマラヤ憲法とマレーシア法からなる。◎国会−二院制。上院(定員70,うち44は国王の任命,26は各州議会の任命,任期3年),下院(定員222,任期5年)(2015)。◎GDP−1949億ドル(2008)。◎1人当りGNP−5901ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−16.6%(2003)。◎平均寿命−男71.9歳,女76.6歳(2007)。◎乳児死亡率−5‰(2010)。◎識字率−92%(2008)。    *    *東南アジアの連邦制の君主国。イギリス連邦に属する。国土はマレー半島南部とボルネオ島のサバおよびサラワクからなる。高温多湿の熱帯気候で,四季の区別はほとんどない。住民の約80%はマレー半島部に居住し,その半数強がマレー人。華人は半島西岸に多く,ボルネオではダヤク人が過半数を占める。労働人口の約20%が第1次産業に従事し,天然ゴム,スズの産額では世界屈指。茶,米,コプラ,ヤシ油,コショウなどの産も多く,チーク材など森林資源も豊富。鉄,金,ボーキサイト,チタン鉄鉱,石油の鉱産も重要。工業の労働人口は約30%を占め,高い成長を続けてきたが,1997年のアジア通貨危機は大きな打撃を与えた。しかしその後再び成長に転じ,2009年の世界金融危機でマイナスとなったが,2010年には7.2%に回復,その後も5%強の成長を維持している。7世紀にスリウィジャヤ朝の勢力下に入り,13世紀以後マジャパイト王国がこれに代わった。1511年ポルトガル,次いでオランダが進出し,1819年ジョホールの首長(スルタン)との協定により英国がシンガポールの植民地経営に着手,のち英領マレーが形成された。第2次世界大戦中日本軍が占領した。1957年マレー半島南部の地域がマラヤ連邦として独立,1963年シンガポール,サバ,サラワクを加えてマレーシア連邦が成立したが,1965年シンガポールは分離・独立した。独立以来,民族間,とりわけマレー人と華人との間の融和が最大の政治課題である。初代首相アブドゥル・ラーマンは,1969年のマレー人と華人との衝突事件がきっかけで1970年辞任した。以後の歴代政権は,マレー人を優遇する〈ブミプトラ政策〉を掲げて,マレー人の経済的向上をはかっている。その延長線上で1980年代からマハティール首相は日本,韓国の発展に学ぼうという〈ルック・イースト〉政策を推進し,東南アジア諸国連合(ASEAN)を強化する方向を目指した。1981年以来政権を担当したマハティールは2003年11月辞任し,アブドゥラ副首相が昇格。2004年下院選挙では,アブドゥラ首相率いる与党連合(統一マレー国民組織)が約9割の議席を獲得した。2008年の総選挙では,独立以来政権を担ってきた与党連合が大幅に議席を減らし,州議会選挙でも野党が躍進したため,アブドゥラ首相は求心力を失い2009年4月辞任,ナジブ副首相に政権を委譲し,ナジブ政権が生まれた。ナジブ首相は〈One Malaysia〉をスローガンに民族融和と行政改革を前面に打ち出し,市場志向の〈新経済モデル〉を提示,2020年までに先進国入りを果たすとする政府変革プログラムを発表,各民族,特に華人層からの支持回復を図った。しかしアンワル元副首相率いる野党連合は華人層の支持が厚く,補欠選挙では互角の勢いを維持した。2013年5月の総選挙でナジブ首相率いる与党連合が下院222議席のうち133議席を確保,建国以来続く政権を維持した。対外的には,南沙諸島の領有権をめぐって一部を実効支配しているマレーシアは,軍事的プレザンスを強めている中国と緊張関係にある。2014年3月にタイランド湾上空で行方不明となったマレーシア航空機に152名の中国人乗客が含まれ,マレーシア当局の捜査・情報開示の混乱もあり,中国政府は不満を募らせた。国際的な捜索が続けられたが,機体は発見されず,2015年1月,マレーシア政府は当該のマレーシア航空便は消息を絶った後に墜落して搭乗者は全員死亡したという推定を正式発表した。2005年,日本とのFTA(自由貿易協定)締結で基本合意した。
→関連項目経済連携協定東南アジア

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マレーシア」の意味・わかりやすい解説

マレーシア
Malaysia

正式名称 マレーシア。
面積 33万241km2
人口 3277万9000(2021推計)。
首都 クアラルンプール

東南アジアの連邦制立憲君主国。南シナ海を挟んでマレー半島部とボルネオ島サバ州サラワク州からなる。マレー半島部の西マレーシアは山地が多く,北部と中部には石灰岩の浸食によるカルスト地形が見られる。ボルネオ島の東マレーシアは北部沿岸に平野が広がり,インドネシアとの国境には山地が連なる。最高峰は,ボルネオ島北東部のキナバル山(4101m)。気候はいずれも赤道型で,年間を通じて高温多湿である。1957年イギリスから独立し,イギリス連邦に加盟。イギリス領であった 20世紀初頭にゴム園労働者の移入が進められたため人種構成は複雑で,約半数を占めるマレー人ブミプトラ)のほか中国系が約 4分の1を占め,そのほかインド=パキスタン系がおり,ボルネオ島には先住のイバン族,カダザン族なども住む。マレー語,英語,中国話,タミル語が用いられるが,公用語はマレー語。政府はマレー人優先政策を進めてきたが,1990年代に入って緩和している。宗教はイスラム教徒が約 6割,仏教徒が約 2割を占め,ほかにキリスト教徒,ヒンドゥー教徒など。1980年代にルック・イースト政策により,日本や大韓民国(韓国)などからの投資が激増し製造業が急成長した。天然ゴムとスズがおもな輸出品であったが,21世紀初めには電気・電子機器が主要輸出品となった。木材,スズ,パーム油は世界有数の生産額を誇る。マレー半島東岸沖,サラワク州北東岸,サバ州西岸では石油,天然ガスの生産が盛ん。パーム油を原料とするバイオ燃料の生産も始まった。主食は米で,ほかにトウモロコシ,キャッサバなどが栽培される。東南アジア諸国連合 ASEAN加盟国。(→マレーシア史

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「マレーシア」の解説

マレーシア
Malaysia

東南アジア島嶼部のブルネイを除いた旧イギリス植民地(ボルネオサラワク,北ボルネオ,シンガポールと1957年8月に独立したマラヤ連邦)が1963年9月に結成した連邦制の立憲君主制国家。その後,シンガポールは65年に分離独立した。マレー系その他の在地民と,19世紀以降に増大した華人やインド人などの移民の子孫からなる典型的な多民族国家だが,ブミプトラ政策などによりマレー系住民を中心とした国民統合が進められている。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「マレーシア」の解説

マレーシア

マレー半島南部とボルネオ島(カリマンタン島)北部にわたる国。19世紀に入りイギリスが植民地化をすすめた。日本人がゴム園経営者・労働者として移住したが,1941年12月太平洋戦争開戦時に日本軍が侵入,半島を南下して翌年2月シンガポールを占領,軍政をしいた。日本敗戦後,57年イギリス連邦加盟のマラヤ連邦として独立,63年マレーシア連邦を結成したが,65年に中国系が圧倒的に多いシンガポールが分離独立した。典型的な複合民族国家で,マレー系67%,中国系25%,インド系7%,その他という住民構成。マレー半島の西マレーシアとボルネオ島の東マレーシアからなる立憲君主制の連邦国家。首都はクアラルンプール。

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