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フォスコロ(英語表記)Foscolo, Ugo

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

フォスコロ
Foscolo, Ugo

[生]1778.2.6. ザンテ
[没]1827.9.10. ターナムグリーン
イタリアの詩人,小説家。アルフィエーリの強い影響のもとに,イタリアの自由と独立の願いを主題にした悲劇『ティエステ』 Tieste (1797) で文名を確立した。イタリア解放の希望をナポレオンに託した叙事詩『解放者ボナパルテ』A Bonaparte liberatore (97) を書き,その期待が裏切られると,ゲーテの『若きウェルテルの悩み』に想を得たといわれる書簡体の長編小説『ヤコポ・オルティスの最後の手紙』 Ultime lettere di Jacopo Ortis (98執筆,1802刊) を著わした。その後,オーストリアとロシアの侵入に際してはみずから武器をとり,また数々の恋愛を繰返し,ナポレオンの没落後,スイス,イギリスに亡命,不遇のうちに死んだ。

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百科事典マイペディアの解説

フォスコロ

イタリアの詩人。フランス革命の理想に感動してナポレオン軍とともに戦った経験もあるが,フォスコロの共和主義的理想,独立イタリアへの志向はナポレオンの政略のため裏切られる結果となった。愛国的情熱のあふれる詩,小説を書き,後の国家統一(リソルジメント)の運動を担う人々に大きな影響を与えた。自伝的な《ヤコポ・オルティスの最後の手紙》はゲーテの《若きウェルターの悩み》の強い影響を受けた作品。愛国的心情に満ちた詩《墳墓》が名高い。ナポレオン体制が崩壊して北イタリアにおけるオーストリア支配が復活すると,スイスをへて英国に亡命し,異郷ロンドンで貧困のうちに一生を終えた。

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世界大百科事典 第2版の解説

フォスコロ【Ugo Foscolo】

1778‐1827
イタリアの抒情詩人で,アルフィエーリと並ぶ前期ロマン派の作家。本名はニコロNiccolò。イオニア海の小島ザンテに,ギリシア人を母,ベネチア人を父として生まれる。幼少時代をベネチアで過ごす。早熟で,モンティ風の悲歌やアルフィエーリ風の悲劇《トリエステ》などを早くから発表。ナポレオン戦争に際しては,イタリアの解放者としてのボナパルトをたたえるオードを捧げている。血気さかんで,1797年カンポフォルミオの和議により祖国ベネチア共和国が滅びると,北イタリア共和国軍に身を投じて,対オーストリア戦役に加わる。

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大辞林 第三版の解説

フォスコロ【Ugo Foscolo】

1778~1827) イタリアの詩人・劇作家・小説家。イタリア-ロマン主義の代表的先駆者。ベネチア共和国で愛国主義者として革命に奔走。失恋と革命の挫折を描いた自伝的書簡体小説「ヤコポ=オルティスの最後の手紙」がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

フォスコロ
ふぉすころ
Ugo Foscolo
(1778―1827)

イタリアの前ロマン主義期を代表する詩人。1778年2月6日、ベネチア領だったイオニア諸島のザンテ島(ザキントス島)でベネチア人の父親とギリシア人の母親の間に生まれ、父親の死後、92年にベネチアに移る。古典文化の素養を得、同市の文学界と接触するとともに、アルプスのかなたから流入したフランス革命の自由主義・共和主義思想に共鳴し、オーストリアからの解放のための戦いに挺身(ていしん)した。97年、彼の悲劇『ティエステ』が上演され好評を博した。同年、カンポ・フォルミオ条約ののち、やむなくベネチアを去りミラノに移る。ナポレオン軍に従ってイタリア各地を転戦、大尉まで昇進する。ミラノ、フィレンツェを中心にボローニャ、ジェノバと転々としながら、勉学と文芸活動、政治的責務の遂行、報われなかった恋、社交界への出入り等々、浮沈の激しい情熱的な日々を送った。[古賀弘人]

波瀾の人生

1802年に詩『解放者ボナパルテ賛』を発表、また同年、政治と恋愛をめぐる自らの体験を要約し、心情を吐露した書簡体の小説『ヤーコポ・オルティスの最後の手紙』を刊行し、知識階級の青年層に圧倒的に迎えられた。ついで数々の名ソネットを含む『詩集』(1803)をまとめ、1807年には前年に一気に書き上げた傑作の長詩『墳墓』Dei Sepolcriを上梓(じょうし)した。一時、パビーア大学で修辞学の教鞭(きょうべん)をとったが、革新思想ゆえそうそうに教壇から追われた。12年、結局未完に終わった頌歌(しょうか)『三美神』Le Grazieの草稿に着手、またこのころ、悲劇『アイアーチェ』と『リッチャルダ』を上演したが、不評であった。ナポレオンが倒れてイタリア王国が失墜すると、14年、フォスコロは返り咲いたオーストリア権力への恭順を拒み、スイスへ亡命の途を選び、なおも追われてイギリスへ渡った。そしてロンドンでイタリア文学論の叙述とイタリア語学教師の労働に従ったが、27年9月10日、市郊外のターナム・グリーンで生涯を閉じた。
 人間として、詩人として、時代の壁を打ち破ろうと奮闘したフォスコロの、真摯(しんし)で堅忍不抜な生き方と清新な息吹に満ちたその文学は、マッツィーニらリソルジメント期の革新を志す人々によって模範として称揚され、1871年、彼の遺骸(いがい)はフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂に移された。なお、フォスコロが批評家として斬新(ざんしん)で近代的な直観と判断を備えていたことは、今日『イタリア文学史』として集成されている彼の批評が証明している。[古賀弘人]

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世界大百科事典内のフォスコロの言及

【イタリア文学】より

…それらの希望と絶望を一身にうけて,すぐれた文学的才能を持ちながら,矛盾と変節にみちた作品を発表したのがV.モンティである。そしてモンティと同じように,一時期はナポレオン1世に解放者としての夢を託しながらも,U.フォスコロは,故国ベネチアがオーストリアに併合されるや,激動する時代の行方を鋭く見つめながら,イギリスに亡命して極貧のうちにロンドン郊外に客死した。書簡体の長編小説《ヤーコポ・オルティスの最後の手紙》(1802)において,フォスコロは祖国の愛と女性の愛に二重に裏切られて自殺する青年の姿を描いたが,流転の生活のなかにあって,詩人は統一以前のイタリアの文学的伝統を大きな視野におさめ,パビア大学修辞学教授時代(1808‐09)からの考察を進めつつ,異郷にありながら,今日のイタリア文学史の基礎を打ち立てた。…

※「フォスコロ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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